ふぶきの部屋

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悠仁親王誕生への道   11

2024-09-04 07:00:00 | 皇室報道

 2001年12月1日 内親王誕生

それを私は東京宝塚劇場で聞いた。星組上演前に英真なおき組長が発表したのだ。私は「やっぱり」と思った。

とにかく私は東宮家には子供が生まれないかも、と思っていたし、生まれても女児だろうと思っていたから。

なぜそう思ったかと言われても勘としか言いようがないし、いうなれば神の手は東宮家には降りないと思っていたから。

 堤教授の努力もあり、東宮家にやっと子供が誕生した。それは目出度い事だった。

しかし、またも問題が。

 小和田夫妻の行動

両陛下より先に小和田夫妻が病院に駆けつけ、尚且つ記者会見までしてしまったのだ。

小和田夫妻は香淳皇后崩御についても両陛下より先に見舞いに行き、宮内庁に止められている。

親王誕生を見込んでの記者会見だったのかもしれないが、実際は内親王だったのでお通夜のような会見になった。

両陛下を飛び越した事に関しては、美智子皇后は不快感を持ったとされている。

眞子内親王や佳子内親王誕生時には真っ先に両陛下で、川嶋家は一番最後だったし、記者会見などしなかった。

 賜剣の儀

生まれてすぐ、沐浴の儀など一連の儀式を経るが、天皇から守り刀を授かる賜剣の儀では侍従が剣を落とした挙句に踏んでしまうアクシデントが発生。どこか不吉な予感がした。

 命名

敬宮愛子」と命名されたが、皇室に詳しい人なら「愛子」(あいこ)と普通に読む事や、これが大正天皇の生母、柳原愛子(やなぎはらなるこ)と同じ名前であることに驚いたに違いない。

皇族の名前は漢字をそのまま読むのではなく、「あて読み」が多い。

「眞子(まこ)「佳子(かこ)」「清子(さやこ)」のように、だから、あまりにも「敬愛されるように」とのこの名づけが非常に軽く感じた。

命名したのは天皇ではなく皇太子夫妻とされているが、本当は小和田家なのではと言われている。

 堤教授の失脚

内親王誕生直後、堤教授はいわれなきスキャンダルを起こされて、雅子妃の主治医を止めさせられてしまう。

とりあえず、皇太子夫妻は嬉しそうだったし、それこそ日々見せびらかすようにマスコミの取材に答えていた。

 

 第二子断念に至った背景

東宮家の第一子が内親王だった事で、両陛下と宮内庁は焦りを感じた。

けれど、東宮家はそんな事よりも漸く外国へ行ける事の方が重要に思っていた。

2002年、ニュージーランド訪問の記者会見で

結婚以前の生活では私の育ってくる過程、そしてまた結婚前の生活でも、外国に参りますことが頻繁になっておりまして、そういったことが私の生活の一部となっておりましたことから、6年間の間、外国訪問をすることがなかなか難しいという状況は、正直申しまして私自身その状況に適応することになかなか大きな努力が要ったということがございます

と発言。

海外に行けるから結婚した筈

・なのに6年も不妊治療優先の生活を強いられた事は嫌だった

そういう意味に取られる。

 

2003年6月9日、結婚10周年の記者会見において、皇太子はこう言った。

二人目の子供について質問がありましたが,今後,一人目に至るまでにあったような内外からのプレッシャーを是非とも避けたく,この点につき,よろしくお願いしたいと思います」と無責任な発言をする。

この時、皇太子は将来の皇室について

時代の要請を的確に感じ取って若い世代の皇室にふさわしい活動ができればと思います。

私は,皇族として,公務というものはとても大切なものと思います。

公務を通して様々な事を知り,国民ともふれあっていきたいと思います。

かねがね私たちは,21世紀の皇室にふさわしい活動ができればと申してきましたが,それは,目まぐるしく変化の大きい今の時代を考えたとき,公務として,自分たちがするのに何が大切かということを見極めることです。

今までの公務も含め,ここでもう一度,私たちの公務についてもそのような視点で考えてみたいと思います。

そして,今後の日本や世界の将来を担っていくことになる若い人たちとの交流を,大切にしていきたいと思います。

また,海外への親善訪問は皇族としての活動の中でも大切なものですので,今後も機会を見つけては諸外国を訪問し,親善訪問の分野でもお役に立ちたいと考えます。

・東宮の言う「時代の要請」とは何か

・21世紀の皇室にふさわしい活動とは何か。

・公務として自分達がするのに何か大切かというのはどんな意味が?

・若い人との交流は世継ぎより大事かどうか

・海外への親善訪問は自ら行きたいということか。

とても時代の天皇になる人とは思えない発言である。

この時、天皇は身体的にも心理的にも「世継ぎ」がいない事に大きな責任を感じて、夜も眠れない程に焦っていたのである。

しかし、東宮夫妻は自分達の理想を語るだけで少しも先の事を考えていない。

そこで立ち上がったのが湯浅宮内庁長官だ。

湯浅宮内庁長官の最初の発言は2003年6月10日の事。

やはりもう一人欲しい。国民もそう考えているのではないか

この発言に雅子妃は非常にお怒りだったと言われている。

怒りが頂点に達したのか2003年12月、雅子妃は帯状疱疹を患って入院。

 

それでも湯浅長官は負けなかった。

2003年12月

皇室の繁栄を考えた場合、東宮に第2子を、
秋篠宮家の繁栄を考えた場合、秋篠宮家に3人目のお子さまを強く希望したい

しかし、この発言は週刊誌によって「秋篠宮家に3人目を」と広められてしまい、さらにマスコミは「お可哀想な雅子さま」として盛り上げた。

 

もう誰も雅子妃に「第二子を」とは言えない雰囲気になってしまい、週刊誌にはとうとう「雅子さま、第二子断念」の見出しが躍る。

その後、雅子妃は愛子内親王と突然小和田家の別荘に家出し、その後、公務に出られない状態になった。

2004年2月23日の皇太子誕生日会見において雅子妃の体調不良の原因を

世継ぎ問題のプレッシャーも,また掛かってきたことも大きかったと思います」と発言。

 

これによって、小泉政権は皇室典範を改正し「愛子女帝」誕生へと舵を切る。

 

コメント (12)
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