1993年6月 皇太子結婚
小和田雅子嬢は1992年、柳谷謙介氏宅で皇太子と5年ぶりに再会し、その年の10月、皇太子は両陛下の留守中に極秘に東宮御所を出る。
何と宮内庁長官にも秘密でワンボクスカーに隠れての外出だった。
雅子嬢は柳谷氏の車で家族を装い、新浜鴨場に到着し、そこで皇太子からプロポーズされる。
でもこの時は「お断りする事があってもよろしいですか」と答えている。
その後、皇太子は「皇太子として皇室外交を行う事も、外交官の仕事と変わらない」と説得し、12月に結婚を受諾。
1993年1月6日、ワシントン・ポストの1報で皇太子妃決定を伝える。
1月19日、皇室会議で内定。しかし三笠宮殿下が反対の意を唱えた。
その後も、小和田家を迎えての食事会に秋篠宮家と常陸宮家しか招かれなかったりして、皇室内の人間関係がぎくしゃくし始める。
この年は「戦後最大の冷夏」で、コメ不足による米騒動が起こる程だった。
その後も結婚に至るまで様々な「異例」な事が起きたが、それは「日本一運のいい女 雅子皇后の肖像」をお読みいただきたい。
欲づくめの結婚を選んだ皇太子夫妻
学歴と語学力で最大の賛辞を得て誕生した皇太子妃雅子。
でも私は婚約記者会見の時点で「この夫婦には子供が出来ないかも」と思った。
それは「オーケストラ発言」が理由だ。
子供を産むと言う事をここまで軽く考えている女性はいないと思ったし、わかりにくい言葉を話すこの女性が賢いとも思えなかった。
当時は「雅子さまは皇室に就職した」と言われた。
その就職後の活動でもすぐにボロが出る。
国民は皇太子妃におおよそ何も期待していなかった。
「皇太子もこれで幸せになれてよかったね」程度。
でもマスコミは最初から「ご懐妊」を取り上げ、何かあればすぐにそれに結び付けた。
身近に皇太子夫妻を見ていれば子供を持つなどという雰囲気ではない事をわかっただろうに。
両陛下や宮内庁はせめて皇太子妃の役割である
宮中祭祀
社交
公務への出席
をしてほしいと願ったが、そもそも宮中祭祀に興味がなく、社交的でもなく、公務に出れば退屈して疲れてしまう始末。
「3年間は子供は持たない」発言は、両陛下と宮内庁にとってありえないものだった。
皇統は危機に瀕しているというのに、「コウノトリのご機嫌に任せて」とは何事なのか。
そのくせ、1994年に懐妊した紀子妃へは嫉妬の目を向け、紀子妃は「雅子様より先に子供を産むとは」と中傷され、以後、産児制限がかかる。
女性の不妊というのが話題になり始めていたし、子供を持つ持たないは個人的な事で強要は出来ないなどフェミニズムが席巻し国家自体が少子化へ向かう。
さらに、不妊の女性からの「子供がいる女性への非難」(例えば年賀状にあかちゃんの写真を載せる等)も相次ぎ、次第に子供を持つ側が遠慮をしなくてはならないような状態になってきた。
結婚5年目に耐えきれなくなった天皇が「みんなが待っているからね」と言えば「私の回りにそんな事を言う人はいない」と発言し、雅子妃の中の「したい事としなければならない事」の整合性が取れなくなった。
けれど、とりあえず不妊治療を始めたものの、本人は「外国に自由に旅行し、華やかに出迎えて欲しい」願望を優先し、1999年、ベルギー皇太子の結婚の為に、妊娠を隠して出席。
遠出をして飲酒までして帰国。
ベルギー王室には皇室の悪口を言い募ったとされる。
帰国後、すぐ「懐妊」報道があったが、直後に流産。
その責任を「懐妊」と騒いだマスコミと、世継ぎを期待した国民のせいにする。
ベルギー皇太子は、本来は責任がないのに雅子妃が出産をするまで控えたと言われている。
皇太子の「責任放棄」とも思える態度
ベルギー行きに関しては共犯の皇太子に最も責任があると思っている。
生まれながらの皇位継承者にであって、さらに皇統の危機が叫ばれている中、
妊娠しているのを知りながらベルギーまで行き、さらに雪の中を遠出までしてレストランに食事へ行き、飲酒までさせたという罪は本当に大きい。
皇太子は結婚してからというもの、度々公務を休む妃にどういう態度をとったらいいか全然わからなかった。
本人は規則正しく生活をするが、彼の妻はその真逆だ。
「本人の好きなようにさせる」のが愛情だと勘違いしたのか、回りが何といっても雅子妃を叱る事も、注意する事すらしなかった。
その結果の流産である。
2000年の誕生日記者会見で皇太子は「流産」について
今回のことは残念なことではありましたが,結果については私たちも心静かに受け止めることができました。
しかし,そこに至る過程で,医学的な診断が下る前の非常に不確かな段階で報道がなされ,個人のプライバシーの領域であるはずのこと,あるいは事実でないことが大々的に報道されたことは誠に遺憾であります。
そのような中で雅子は非常によく辛抱したと思いますが,国民の中にも戸惑いを覚えた人も少なくなかったというふうに聞いております。
今後,事柄の性質上,慎重で配慮された扱いを望みます。
と言っている。
かなり他人事で、自分には一切の責任はないというような言い方だ。
天皇から散々、「世継ぎ」の必要性は聞いてるだろうに、不妊治療に至るまでに5年を要し、さらに数少ない妊娠のチャンスを潰し、それを他人のせいにするというていたらくぶり。
その後、2000年の6月に香淳皇后が亡くなるが、葬儀の手はずを巡っても皇太子は「あとはよろしく」と逃げてしまい、紀宮に「無責任ですよ」と言われている。
香淳皇后の葬儀には、雅子妃は「夏バテのようなもの」と信じられない理由で欠席。皇太子妃としての役割を放棄した。
しかし、本当の理由は「葬儀の手順」について、皇后から注意された事で激しく心が傷ついたためと言われている。
この時も本来は皇太子が引きずってでも皇太子妃を出席させるべきだったが、何もしなかった。
皇太子は将来の天皇として、最大の役割を果たさなかったのだ。
しかし、その事が後に大問題になるのだ。