ふぶきの部屋

皇室問題を中心に、政治から宝塚まで。
毎日更新しています。

悠仁親王誕生への道  12

2024-09-05 07:00:00 | 皇室報道

 宮内庁と美智子妃の考えの違い

2000年暮れ、側近に「秋篠宮家に男子を」と進言された皇后が

子ちゃんがどんなに苦しむか…
佳子ちゃん懐妊の時に遠慮もなく、と言われて、どんなに苦しんだか…

とため息をついた。

 佳子様ご懐妊の時に、「皇太子妃より先に懐妊とは」と言われた噂を裏付けるようなエピだが、そう言ったのは久子妃と言われている。

皇統を考えるならどの宮家にだって「子供を産んで欲しい」と願うのが筋なのに、美智子皇后はいわれなき中傷をされる方を嫌がった。

それを「私が守る」と言えなかったのは、何よりも「自分の体面が大事」な性格と「ジェンダー意識」のせいだったのかもしれない。

秋篠宮家に男子が生まれると、最も困るのは最愛の長男である事になる。この

時はまだ、雅子妃の懐妊に「男子」の希望があったから。

 

2001年、皇室の産婦人科を務めてきた坂本正一氏が退任。

その時、両陛下に「紀子様もそろそろ(限界)がきている。お考えになった方がいい」と発言。

その言葉に両陛下は深く頷かれたという。

どこまで皇后が本気だったかはわからない。

皇后としては何が何でも世継ぎは皇太子家からと思っていたろう。

でも、宮内庁は、特に東宮家をそばで見ていた人達からすれば、これはもう無理という思いがあったのではないだろうか。

そもそも、1999年にベルギーに妊娠を隠して行った、その結果、流産したという事で、皇太子夫妻の信用はゼロであるし、天皇皇后から厳しいお叱りを受けてもよかった筈。

それなのに、どこまでも甘くて、好き放題にさせていた。

湯浅宮内庁長官の言葉は、最後の「忠臣」としての言葉だったかもしれないが、両陛下にも東宮家にも真意は届かなかった。

 

 皇統の節目となった2005年ー秋篠宮夫妻は

東宮家が家族の問題で揺れていた頃、秋篠宮家は東宮家の代わりに公務に祭祀にと励んでいた。

雅子妃は「秋篠宮家に海外訪問を奪われた」と思っていたようだが、そもそも、中東で様々なやらかしをした東宮家に海外訪問はさせられなかったので、その尻拭い的な要素が強かった。

内廷ではない皇族は交通費などは実費になる為、秋篠宮家はよく九州日帰り、沖縄日帰りなどをされていた。

2004年の暮に、紀宮と黒田慶樹氏の婚約が発表された。

二人の仲を取り持ったのは秋篠宮で、35歳になる内親王はようやく降嫁する相手を見つけたのだ。

しかし、この事は東宮家には寝耳に水だったらしいし、地方公務員の立場である黒田氏に皇后はどのような印象を持ったろうか。

 

2005年1月、小泉政権は「愛子様が天皇でもいい」といい、有識者会議を作って、「長子継承」へと舵を切る。

 

2005年9月に、秋篠宮両殿下はコウノトリを放鳥。

2005年11月15日 紀宮は結婚し、黒田清子となった。

 そして小泉政権は正式に「長子優先」の報告書をまとめる。

何もかもこれで終わりかなと私は思っていた。

小泉首相は「女性天皇と女系天皇」の違いもわからず、男女平等の観点からのみ長子優先を決めてしまった。陰に小和田氏がいたのかもしれないと思う。

保守派は怒ったけれど、後の祭りだ。

何といっても皇室の長である天皇が何も言わないのだから。

 

2005年の秋篠宮誕生日会見では

子供たちが妹なり弟なりがいて,何かその世話をしてあげたいという気持ちがあるような印象があります」と答えている。

 どうやらこの頃はすでに産児制限が解かれていたようだけど、年齢的に懐妊するかどうかは神の手のみで、それに丸投げしている天皇皇后には今でも怒りを感じる。

 

 傍若無人な2時間45分事件

それは2005年12月23日、天皇誕生日の夜に起こった。

要約すると

 天皇誕生日の夕方、未成年皇族である眞子内親王・佳子内親王・愛子内親王が参内して天皇陛下に祝賀を申し上げる。

 秋篠宮家の内親王方は「御地赤」と呼ばれる内親王の礼服である着物を着ていた。(愛子内親王は作って貰ってない)

 それを見た愛子内親王は御地赤が気に入ってしまい、そこから動かなくなる。いわゆるおむずかりで騒いだ。

 雅子妃は「愛子をなだめる」と連れて東宮御所に帰った。

 残された両陛下・皇太子、秋篠宮夫妻、黒田夫妻は延々と皇太子妃を待ち続け、雅子妃が戻ったのは2時間45分後だった。

 雅子妃は東宮御所に帰ると愛子内親王と夕食を食べ、内親王をお風呂に入れていた。

 皇后が「一人で戻って来たらバツが悪いだろうから廊下で待つ」と言い出し、寒い廊下に出たので慌てて紀子妃と黒田清子も一緒に出た。

 やっと戻ってきた雅子妃は「どうも」と言っただけなので、紀子妃は思わず泣き出してしまった。

 この事に関して、東宮職は「不手際」といい、友納尚子は「赤坂御用地は携帯電波が通じにくい」と書いた。

しかし、本当の所、雅子妃は戻る気がなかったのだと思っている。

 じゃあ、皇太子は待っている間何をしていたのか。主賓を残してさっさと自分の家に帰った妻に対して何の感情もわかなかったのか。なぜ「先に始めましょう」と言わなかったのか。もしかしたら言ったのかもしれない。

 けれど、この日の夕食会は天皇誕生日のお祝御膳という公的な部分も含んでいる。さらに結婚した長女夫妻も戻ってきている目出度い日だ。

そこに長男の嫁が、子供のむずかりを理由に自宅に帰り、戻る気がなかったのだとしたら、これは大変な無礼であり不敬である。

 

この件に関しては様々な憶測がされている。

皇太子が全く意に介さず酒でも飲んでいたのではないかとか、美智子皇后が廊下に出る事で「申し訳ない」の気持ちを持ってくれるのではと期待したとか。

なぜに延々と2時間45分も黙って座っていられたのか。

私は天皇が怒ったのだと思う。もう意地になってしまったのではないかと。

今まで散々無礼な事をされて来たけど、今回ばかりはらに据えかねたのでは。

秋篠宮夫妻がとりなしても、清子夫人が言っても聞かなかったのかも。

ゆえに、東宮御所はてんやわんやで「妃殿下、早く御所に参内を」とせかしたけど、もとより戻るつもりのない妃は、のんびりグズグズとしていたのかもしれない。

もしかすると、この事が後の「人格否定発言」に至ったかもしれない。

 

どんなにキャリアや学歴があろうとも、態度が失礼では社会人失格である。

しかし、雅子妃から見れば「愛子は将来天皇になるかもしれない子」で優先順位は天皇より先だったのではないか。

 

御所にいる方々、及び大膳課や侍従職、女官達、全ての人に嫌な気持ちを起こさせ、謝りもしない非常識な皇太子妃。

思えば、これが悠仁親王誕生への布石になったと私は考えている。

長子相続にしようと動く政権。

そして天皇をないがしろにする態度の皇太子妃(小和田家)

男系男子相続の危機がそこに迫っていた。

そして神の手が動いたのだ。

 

コメント (5)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする