「ニクソンショック」から15日で50年になる。
突然の日本の頭越しの米中国交回復は、ニクソン、キッシンジャーコンビで実現されましたが、米ソ冷戦時代でのソ連と対立を深める中国に接近する戦略でもあった。
しかし、その後の日米の動きは実に対照的だったと、産経・渡辺浩生外信部長。
トランプ前政権は、ニクソン以来の融和的な対中関与政策から脱却を表明。オバマ大統領時代の首脳会談で、太平洋二分割論を持ち出した習近平に対し、対抗姿勢を明確にし、米中「新冷戦時代」に突入しました。
バイデン新大統領は、大方の予想を覆す強硬姿勢で中国との対決を「民主主義と専制主義の戦い」と宣言。クアッド首脳オンライン会談、菅首相との面談首脳会談、G7首脳会談と進む中、台湾問題を取り上げ対中対抗姿勢を示しています。
ニクソンの訪中では、毛沢東と会談し、上海コミュニケを発表。焦点の台湾問題について、「両岸の中国人が、中国は一つであり、台湾は中国の一部分であると主張していることを認識している」と明記。
ニクソンの一方的な訪中決定ほど「戦後日本の外交政策に大きな影響を与えた米国の行動はなかった」と、元国連難民高等弁務官の緒方貞子さん。
首相の佐藤栄作の耳に入ったのは、ニクソン演説の数分前。佐藤は茫然となり、外務省も騒然とした。
その後の日本の動きは、ニクソンらの想定をこえるもので、差が生じた。
佐藤の後継に就任した田中角栄はすぐに動く。8月末にホノルルでニクソンと会って日米安全保障条約の堅持を前提に国交正常化を目指すと確認。9月25~30日に訪中し、国交正常化を実現。
共同声明は、台湾が「領土の不可分の一部」と主張する「中国の立場」を「十分理解し、尊重」するとした。「ポツダム宣言第8項に基づく立場を堅持する」との文言を盛り込んだのは、台湾の返還先は中国という相手の主張に譲歩。
ところが、火をつけた米国は慎重に手順を踏んだ。
国交を樹立したのは79年 1月。民主党のカーター政権になってから。しかも、断交した台湾には、議会が同年 4月、自衛力の維持に必要な武器の提供を明記した台湾関係法を成立させ、中国の武力侵攻から台湾の安全を守る手はずまで整えたのでした。
日米は、ニクソンの決断を起点としながら、その後のプロセスは実に対照的。さしたる俯瞰する戦略は無く、慌てふためいて禍根を残した日本と、戦略に沿って体制を整えるあたり前の外交を進めた米国。
後に中国課長やアジア局長を務めた池田氏は「仮に米国が日本に対し、もっと丁寧に通報していれば、日本の中国承認の過程ももっと時間がかかったかもしれない」との見解を示すとのことですが、自国の間違いを他国の責任に転嫁する情けない日本。
今や「民主主義のとりで」となった台湾への軍事的な圧力が一段と高まれば、米国が台湾と交流する政府高官を格上げし、「独立国並みに扱う可能性はある」(外務省関係者)と、渡辺外信部長。
例えば国務長官のブリンケン訪台や、外遊中に訪米した蔡がバイデンと会談するといった「逆ショック」も排除すべきではないと。
一方の日本は日中国交正常化以来、台湾とは「非政府間の実務関係」を堅持し安全保障面の対話を避けてきた。「台湾への介入は許さぬ」とくぎをさす中国への忖度が染みついていると。
中国の台湾侵攻が差し迫り、米国が台湾防衛を明確にしたとき、同盟国の日本は安保法制に基づき米軍の後方支援に速やかに動く必要がある。「それが先の日米共同声明に『台湾海峡の平和と安定』を明記した本当の意味だ」と中国課長やアジア局長を務めた池田氏。
また、池田氏はニクソンショックの教訓を回想し、「中国に対応するときには、同盟国である米国との関係を盤石なものにしておくことがなにより重要だ。ただ、米国はたまに日本が予想できないような動きをすることがあるのは肝に銘じるべきだ。だからこそ、常にすり合わせが必要となる」と。
菅、茂木、岸の3首脳の決断力に期待ですね。
この花の名前は、メランボジウム
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突然の日本の頭越しの米中国交回復は、ニクソン、キッシンジャーコンビで実現されましたが、米ソ冷戦時代でのソ連と対立を深める中国に接近する戦略でもあった。
しかし、その後の日米の動きは実に対照的だったと、産経・渡辺浩生外信部長。
【解読】「ニクソンショック(電撃訪中宣言)」50年の教訓 「バイデン」下の「台湾有事」に備えよ 外信部長・渡辺浩生 - 産経ニュース 2021/7/10 渡辺 浩生
米大統領ニクソンが1971年、電撃的に訪中を発表した「ニクソンショック」から15日で50年。日本政府に衝撃が走り、翌72年の日中国交正常化と台湾断交に突き進む引き金となった。米国から一方的に対中政策の変更を告げられる「悪夢」は消えていない。半世紀後、「バイデンショック」はありうるか。
◇
71年7月15日夜、ニクソンは緊張した表情で、自身が首相の周恩来の招待を受けて訪中すると表明した。大統領補佐官のキッシンジャーが極秘にパキスタンから北京入りして交渉したのである。
その数十分前、駐米大使の牛場信彦は国務長官のロジャーズから電話で声明の内容を伝えられた。牛場は直ちに外務省に通報。しかし、首相の佐藤栄作の耳に入ったのは、ニクソン演説の数分前。佐藤は茫然(ぼうぜん)となり、外務省も騒然とした。
対中政策を変更する際には事前に相談するとの確約を日本は得ていた。裏切りも同然である。牛場は国務次官を電話でつかまえてこう言った。「『アサカイの悪夢』が現実になってしまったんだ」(浅海保著『変節と愛国 外交官・牛場信彦の生涯』による)
「アサカイ」とは戦後4代目の駐米大使、朝海浩一郎。講演で明かした夢の話だ。
ある日突然、国務長官に呼び出され、米国は中共(中国共産党)を中国の正式な政府と認め発表することになったと告げられる…。
確かに正夢となった。
▼勢いで田中訪中
ニクソンは翌72年2月、北京空港に出迎えた周恩来と満面の笑みで握手する。
毛沢東とも会談し、上海コミュニケを発表。中国との関係正常化は「すべての国々の利益にかなう」とし、米側は焦点の台湾問題について、「両岸の中国人が、中国は一つであり、台湾は中国の一部分であると主張していることを認識している」と明記した。
米国は49年に台湾に追われた中国国民党政府を反共陣営の同盟国と扱ってきたが、共和党のニクソンは69年の就任直後にキッシンジャーに対中政策の見直しを指示。ソ連と対立を深める中国に接近すれば対ソ関係で優位に立てるという現実主義の判断だった。
だが、その後の日本の動きはニクソンらの想像を超えた。このときの状況は、国際政治学者の緒方貞子(元国連難民高等弁務官)の著作「戦後日中・米中関係」に詳しい。
緒方は、「日本よりも先に中国と接触を始めたことに対する憤慨があった。国交正常化も米国に先を越されては、とうてい国民が受け入れないだろう」という外務省幹部の言葉を引いて、ニクソンショックが「日本に対中国交正常化を推進する決意を固めさせた」と指摘している。
72年7月に佐藤の後継に就任した田中角栄はすぐに動く。8月末にホノルルでニクソンと会って日米安全保障条約の堅持を前提に国交正常化を目指すと確認。9月25~30日に訪中し、国交正常化を実現させた。
時間的制約の中で合意した共同声明は、台湾が「領土の不可分の一部」と主張する「中国の立場」を「十分理解し、尊重」するとした。「ポツダム宣言第8項に基づく立場を堅持する」との文言を盛り込んだのは、台湾の返還先は中国という相手の主張に譲歩したからだ。
その約3週間前に、外務省本省から北京に赴任した池田維(ただし)は、田中訪中には「国内も後押しし、時の勢いがあった」と振り返る。
▼トラウマは今も
ところが、火をつけた米国は慎重に手順を踏んだ。中国と国交を樹立したのは79年1月。民主党のカーター政権になってからだ。断交した台湾には、議会が同年4月、自衛力の維持に必要な武器の提供を明記した台湾関係法を成立させ、中国の武力侵攻から台湾の安全を守る手はずまで整えたのである。
ともにニクソンの決断を起点としながら、その後のプロセスは実に対照的だ。
後に中国課長やアジア局長を務めた池田は「仮に米国が日本に対し、もっと丁寧に通報していれば、日本の中国承認の過程ももっと時間がかかったかもしれない」との見解を示す。
確かに、ニクソンの一方的な訪中決定ほど「戦後日本の外交政策に大きな影響を与えた米国の行動はなかった」(緒方)。21世紀の日本外交にもトラウマとして残っている。そう感じた経験は、筆者にもある。
2010年初頭。ワシントン駐在のベテラン経済外交官がこう語ったのだ。
「日本は次のニクソンショックにまだまだ気を付けなければならないね」
当時のオバマ政権は急成長する中国に、リーマン・ショック後の苦境が続く世界経済の牽引(けんいん)を委ねた。米中二極の「G2」体制を容認する空気も広がり始めたころ。日本に相談せず、通貨や通商政策で中国と手を結ぶのではないかと恐れたという。
しかし、12年に習近平が中国共産党総書記に就任すると、軍事・経済両面で米国の覇権に挑むようになる。
トランプ前政権は、ニクソン以来の融和的な対中関与政策から脱却を表明。民主党の大統領、バイデンは大方の予想を覆す強硬姿勢で中国との対決を「民主主義と専制主義の戦い」と宣言した。
理念主義的といわれるバイデン外交に、どんなショックが起こりうるのか。
バイデンが外国首脳として初めて直接会談した相手は首相の菅義偉(すが・よしひで)だった。日本の貿易黒字や防衛負担に不信を抱いたニクソン時代とは比較にならぬほど日米の同盟関係は緊密といえる。頭ごしの対中姿勢の転換は考えにくい。注視すべきは台湾傾斜の方だ。
▼逆ショック注視
中国の軍用機や艦船の活動が台湾海峡周辺で活発化する中、4月に元国務副長官のアーミテージらが訪台し総統の蔡英文と会談。6月には超党派議員団が訪問先の韓国から米軍輸送機で訪台し、台湾が「中国の妨害」(蔡)で調達に苦労する新型コロナワクチンの提供を表明した。
習は中国共産党創建100年の演説で、台湾統一を「党の歴史的な任務だ」とし、「台湾独立のたくらみを粉砕する」と恫(どう)喝(かつ)した。
今や「民主主義のとりで」となった台湾への軍事的な圧力が一段と高まれば、米国が台湾と交流する政府高官を格上げし、「独立国並みに扱う可能性はある」(外務省関係者)。例えば国務長官のブリンケン訪台や、外遊中に訪米した蔡がバイデンと会談するといった「逆ショック」も排除すべきではない。
一方の日本は日中国交正常化以来、台湾とは「非政府間の実務関係」を堅持し安全保障面の対話を避けてきた。「台湾への介入は許さぬ」とくぎをさす中国への忖度(そんたく)が染みついている。
中国の台湾侵攻が差し迫り、米国が台湾防衛を明確にしたとき、同盟国の日本は安保法制に基づき米軍の後方支援に速やかに動く必要がある。「それが先の日米共同声明に『台湾海峡の平和と安定』を明記した本当の意味だ」と池田は語る。日本は米国と協働して「台湾有事」に備えねばならない。
池田はニクソンショックの教訓を回想する。「中国に対応するときには、同盟国である米国との関係を盤石なものにしておくことがなにより重要だ。ただ、米国はたまに日本が予想できないような動きをすることがあるのは肝に銘じるべきだ。だからこそ、常にすり合わせが必要となる」(敬称略)
米大統領ニクソンが1971年、電撃的に訪中を発表した「ニクソンショック」から15日で50年。日本政府に衝撃が走り、翌72年の日中国交正常化と台湾断交に突き進む引き金となった。米国から一方的に対中政策の変更を告げられる「悪夢」は消えていない。半世紀後、「バイデンショック」はありうるか。
◇
71年7月15日夜、ニクソンは緊張した表情で、自身が首相の周恩来の招待を受けて訪中すると表明した。大統領補佐官のキッシンジャーが極秘にパキスタンから北京入りして交渉したのである。
その数十分前、駐米大使の牛場信彦は国務長官のロジャーズから電話で声明の内容を伝えられた。牛場は直ちに外務省に通報。しかし、首相の佐藤栄作の耳に入ったのは、ニクソン演説の数分前。佐藤は茫然(ぼうぜん)となり、外務省も騒然とした。
対中政策を変更する際には事前に相談するとの確約を日本は得ていた。裏切りも同然である。牛場は国務次官を電話でつかまえてこう言った。「『アサカイの悪夢』が現実になってしまったんだ」(浅海保著『変節と愛国 外交官・牛場信彦の生涯』による)
「アサカイ」とは戦後4代目の駐米大使、朝海浩一郎。講演で明かした夢の話だ。
ある日突然、国務長官に呼び出され、米国は中共(中国共産党)を中国の正式な政府と認め発表することになったと告げられる…。
確かに正夢となった。
▼勢いで田中訪中
ニクソンは翌72年2月、北京空港に出迎えた周恩来と満面の笑みで握手する。
毛沢東とも会談し、上海コミュニケを発表。中国との関係正常化は「すべての国々の利益にかなう」とし、米側は焦点の台湾問題について、「両岸の中国人が、中国は一つであり、台湾は中国の一部分であると主張していることを認識している」と明記した。
米国は49年に台湾に追われた中国国民党政府を反共陣営の同盟国と扱ってきたが、共和党のニクソンは69年の就任直後にキッシンジャーに対中政策の見直しを指示。ソ連と対立を深める中国に接近すれば対ソ関係で優位に立てるという現実主義の判断だった。
だが、その後の日本の動きはニクソンらの想像を超えた。このときの状況は、国際政治学者の緒方貞子(元国連難民高等弁務官)の著作「戦後日中・米中関係」に詳しい。
緒方は、「日本よりも先に中国と接触を始めたことに対する憤慨があった。国交正常化も米国に先を越されては、とうてい国民が受け入れないだろう」という外務省幹部の言葉を引いて、ニクソンショックが「日本に対中国交正常化を推進する決意を固めさせた」と指摘している。
72年7月に佐藤の後継に就任した田中角栄はすぐに動く。8月末にホノルルでニクソンと会って日米安全保障条約の堅持を前提に国交正常化を目指すと確認。9月25~30日に訪中し、国交正常化を実現させた。
時間的制約の中で合意した共同声明は、台湾が「領土の不可分の一部」と主張する「中国の立場」を「十分理解し、尊重」するとした。「ポツダム宣言第8項に基づく立場を堅持する」との文言を盛り込んだのは、台湾の返還先は中国という相手の主張に譲歩したからだ。
その約3週間前に、外務省本省から北京に赴任した池田維(ただし)は、田中訪中には「国内も後押しし、時の勢いがあった」と振り返る。
▼トラウマは今も
ところが、火をつけた米国は慎重に手順を踏んだ。中国と国交を樹立したのは79年1月。民主党のカーター政権になってからだ。断交した台湾には、議会が同年4月、自衛力の維持に必要な武器の提供を明記した台湾関係法を成立させ、中国の武力侵攻から台湾の安全を守る手はずまで整えたのである。
ともにニクソンの決断を起点としながら、その後のプロセスは実に対照的だ。
後に中国課長やアジア局長を務めた池田は「仮に米国が日本に対し、もっと丁寧に通報していれば、日本の中国承認の過程ももっと時間がかかったかもしれない」との見解を示す。
確かに、ニクソンの一方的な訪中決定ほど「戦後日本の外交政策に大きな影響を与えた米国の行動はなかった」(緒方)。21世紀の日本外交にもトラウマとして残っている。そう感じた経験は、筆者にもある。
2010年初頭。ワシントン駐在のベテラン経済外交官がこう語ったのだ。
「日本は次のニクソンショックにまだまだ気を付けなければならないね」
当時のオバマ政権は急成長する中国に、リーマン・ショック後の苦境が続く世界経済の牽引(けんいん)を委ねた。米中二極の「G2」体制を容認する空気も広がり始めたころ。日本に相談せず、通貨や通商政策で中国と手を結ぶのではないかと恐れたという。
しかし、12年に習近平が中国共産党総書記に就任すると、軍事・経済両面で米国の覇権に挑むようになる。
トランプ前政権は、ニクソン以来の融和的な対中関与政策から脱却を表明。民主党の大統領、バイデンは大方の予想を覆す強硬姿勢で中国との対決を「民主主義と専制主義の戦い」と宣言した。
理念主義的といわれるバイデン外交に、どんなショックが起こりうるのか。
バイデンが外国首脳として初めて直接会談した相手は首相の菅義偉(すが・よしひで)だった。日本の貿易黒字や防衛負担に不信を抱いたニクソン時代とは比較にならぬほど日米の同盟関係は緊密といえる。頭ごしの対中姿勢の転換は考えにくい。注視すべきは台湾傾斜の方だ。
▼逆ショック注視
中国の軍用機や艦船の活動が台湾海峡周辺で活発化する中、4月に元国務副長官のアーミテージらが訪台し総統の蔡英文と会談。6月には超党派議員団が訪問先の韓国から米軍輸送機で訪台し、台湾が「中国の妨害」(蔡)で調達に苦労する新型コロナワクチンの提供を表明した。
習は中国共産党創建100年の演説で、台湾統一を「党の歴史的な任務だ」とし、「台湾独立のたくらみを粉砕する」と恫(どう)喝(かつ)した。
今や「民主主義のとりで」となった台湾への軍事的な圧力が一段と高まれば、米国が台湾と交流する政府高官を格上げし、「独立国並みに扱う可能性はある」(外務省関係者)。例えば国務長官のブリンケン訪台や、外遊中に訪米した蔡がバイデンと会談するといった「逆ショック」も排除すべきではない。
一方の日本は日中国交正常化以来、台湾とは「非政府間の実務関係」を堅持し安全保障面の対話を避けてきた。「台湾への介入は許さぬ」とくぎをさす中国への忖度(そんたく)が染みついている。
中国の台湾侵攻が差し迫り、米国が台湾防衛を明確にしたとき、同盟国の日本は安保法制に基づき米軍の後方支援に速やかに動く必要がある。「それが先の日米共同声明に『台湾海峡の平和と安定』を明記した本当の意味だ」と池田は語る。日本は米国と協働して「台湾有事」に備えねばならない。
池田はニクソンショックの教訓を回想する。「中国に対応するときには、同盟国である米国との関係を盤石なものにしておくことがなにより重要だ。ただ、米国はたまに日本が予想できないような動きをすることがあるのは肝に銘じるべきだ。だからこそ、常にすり合わせが必要となる」(敬称略)
トランプ前政権は、ニクソン以来の融和的な対中関与政策から脱却を表明。オバマ大統領時代の首脳会談で、太平洋二分割論を持ち出した習近平に対し、対抗姿勢を明確にし、米中「新冷戦時代」に突入しました。
バイデン新大統領は、大方の予想を覆す強硬姿勢で中国との対決を「民主主義と専制主義の戦い」と宣言。クアッド首脳オンライン会談、菅首相との面談首脳会談、G7首脳会談と進む中、台湾問題を取り上げ対中対抗姿勢を示しています。
ニクソンの訪中では、毛沢東と会談し、上海コミュニケを発表。焦点の台湾問題について、「両岸の中国人が、中国は一つであり、台湾は中国の一部分であると主張していることを認識している」と明記。
ニクソンの一方的な訪中決定ほど「戦後日本の外交政策に大きな影響を与えた米国の行動はなかった」と、元国連難民高等弁務官の緒方貞子さん。
首相の佐藤栄作の耳に入ったのは、ニクソン演説の数分前。佐藤は茫然となり、外務省も騒然とした。
その後の日本の動きは、ニクソンらの想定をこえるもので、差が生じた。
佐藤の後継に就任した田中角栄はすぐに動く。8月末にホノルルでニクソンと会って日米安全保障条約の堅持を前提に国交正常化を目指すと確認。9月25~30日に訪中し、国交正常化を実現。
共同声明は、台湾が「領土の不可分の一部」と主張する「中国の立場」を「十分理解し、尊重」するとした。「ポツダム宣言第8項に基づく立場を堅持する」との文言を盛り込んだのは、台湾の返還先は中国という相手の主張に譲歩。
ところが、火をつけた米国は慎重に手順を踏んだ。
国交を樹立したのは79年 1月。民主党のカーター政権になってから。しかも、断交した台湾には、議会が同年 4月、自衛力の維持に必要な武器の提供を明記した台湾関係法を成立させ、中国の武力侵攻から台湾の安全を守る手はずまで整えたのでした。
日米は、ニクソンの決断を起点としながら、その後のプロセスは実に対照的。さしたる俯瞰する戦略は無く、慌てふためいて禍根を残した日本と、戦略に沿って体制を整えるあたり前の外交を進めた米国。
後に中国課長やアジア局長を務めた池田氏は「仮に米国が日本に対し、もっと丁寧に通報していれば、日本の中国承認の過程ももっと時間がかかったかもしれない」との見解を示すとのことですが、自国の間違いを他国の責任に転嫁する情けない日本。
今や「民主主義のとりで」となった台湾への軍事的な圧力が一段と高まれば、米国が台湾と交流する政府高官を格上げし、「独立国並みに扱う可能性はある」(外務省関係者)と、渡辺外信部長。
例えば国務長官のブリンケン訪台や、外遊中に訪米した蔡がバイデンと会談するといった「逆ショック」も排除すべきではないと。
一方の日本は日中国交正常化以来、台湾とは「非政府間の実務関係」を堅持し安全保障面の対話を避けてきた。「台湾への介入は許さぬ」とくぎをさす中国への忖度が染みついていると。
中国の台湾侵攻が差し迫り、米国が台湾防衛を明確にしたとき、同盟国の日本は安保法制に基づき米軍の後方支援に速やかに動く必要がある。「それが先の日米共同声明に『台湾海峡の平和と安定』を明記した本当の意味だ」と中国課長やアジア局長を務めた池田氏。
また、池田氏はニクソンショックの教訓を回想し、「中国に対応するときには、同盟国である米国との関係を盤石なものにしておくことがなにより重要だ。ただ、米国はたまに日本が予想できないような動きをすることがあるのは肝に銘じるべきだ。だからこそ、常にすり合わせが必要となる」と。
菅、茂木、岸の3首脳の決断力に期待ですね。
この花の名前は、メランボジウム
↓よろしかったら、お願いします。