Casa Galarina

映画についてのあれこれを書き殴り。映画を見れば見るほど、見ていない映画が多いことに愕然とする。

悪霊島

2008-07-16 | 日本映画(あ行)
★★★★ 1981年/日本 監督/篠田正浩
「最も美しい犯人だったのに」


市川版にとらわれず、自分らしい横溝作品を作ろうという、篠田監督の並々ならぬチャレンジ精神がこの作品には宿っています。チャレンジすれば、おのずと良い方向に転がるもの、悪い方向に転がるものがあります。最も良い方向に転がったのは、岩下志麻の魅力を存分に味わえること。ある意味、本作は岩下志麻を観る作品、と言い切ってしまってもいい。

ニンフォマニアである巴御前、原作では次々と男を寝屋に誘い込み、安いポルノ小説のような描写になってしまいますが、岩下志麻の巴御前はエキセントリックな美しさを存分に発揮しています。しかも、話題となった自慰シーンは、原作にはありません。篠田監督は敢えてこのシーンを作品に加えている。それこそ、チャレンジでなくて、なんでありましょう。また、原作の巴御前は多重人格者でもありません。よって人格が入れ替わるという見せ場も岩下志麻の女優としての力量を見せるために作られたのかも知れません。

しかし、篠田監督は本作において「ヒッピー世代」にやたらと執着しているんですね。それが、私には大きな違和感となって残ります。本作は語り部である五郎が過去を振り返るというシーンから始まりますが、その冒頭で告げられるのがジョン・レノンの暗殺事件、以降髪を長く伸ばし見知らぬ母を捜すヒッピーの僕に時代は遡り、ラストで再び現代に戻ります。原作の五郎もヒッピー風の若者として紹介されますが、その程度です。ここにどうしても、高度経済成長期の日本(作品で言うところの現代)が失ってしまったもの、ヒッピー世代への郷愁を見せたいという意図があります。もちろん、これが凄惨な事件と相乗効果をもたらして、メッセージを発してくれれば何の文句もありません。しかし、私にはどうもこのモチーフが全体のバランスを損ねているようにしか見えないのです。この「ヒッピー世代」のこだわりの最たる物こそエンディングの「レット・イット・ビー」であり、この曲の採用が版権問題により長年DVD化を阻んできたのは何とも皮肉な話です。

しかも、原作で実に重大なエピソードを映画では削除しているんです。それは、語り部の五郎は、何と磯川警部の実の息子だった、というオチなんです。磯川警部が戦地にいる間、流産したと知らされていた子供が生きていた。その息子と事件を通じて出会う道しるべを作るその人こそ盟友金田一なんですよ。これは、原作ファンは、入れて欲しいエピソードだったんじゃないでしょうか。

岩下志麻が、市川版の美人犯人のいずれをも凌ぐ妖しさと美しさを発揮したのだから、ビートルズなんぞにこだわらず、とことん彼女を際だたせる構成にすれば良かったのに、とシリーズファンだから思ってしまいます。好きで好きでたまらない男を待ちこがれて狂ってしまった女が死んだ後、レット・イット・ビーを流されても、何だかなあという気分しか残らないのです。嗚呼、岩下志麻がもったいない。

八つ墓村

2008-07-16 | 日本映画(や・ら・わ行)
★★★★☆ 1977年/日本 監督/野村芳太郎
「隅から隅まで野村作品」


これは、横溝シリーズの一遍ではなく、「砂の器」「鬼畜」に並ぶ紛れもない野村芳太郎作品。本作の主要テーマは、辰哉という青年の過去を取り戻す旅です。そこには、過剰なおどろおどろしさも、同情すべき犯人もいません。死んだ母を思い出し、自分の汚れた血に思い悩むショーケンに大きなスポットが当てられるその姿は「砂の器」の加藤剛を思い出させます。そこに、芥川也寸志 のメロディアスな旋律がかぶさり、横溝ならぬ野村ワールドが広がります。やたらと夕暮れのシーンが多いのも、印象的ですね。すごく陰鬱な感じが出ています。

市川版における主役とは、犯人であり、金田一です。犯人にはいつもやむにやまれぬ動機があります。しかし、本作はどうでしょう。財産目当てというストレートな動機で、犯行が見つかったら般若の顔に一変し、ついでに尼子の怨念までしょわされています。原作とは全然違う。金田一だって、徹底的に影の存在です。物語が幾重にも重なる横溝作品。それらの中で最重要位置を占める、犯人と金田一への思い入れを本作はあっさりと捨ててしまっている。しかし、その分、戦国時代の落ち武者の殺戮シーン、そして要蔵の32人殺し。いずれの回想シーンも恐ろしさが際だっています。

市川版では、毒を盛られた人は口の端からつーっと血を流したりするんですけど、野村監督は容赦なく吐瀉物を吐かせたりするんです。別に殺しの美学なんて、どうでもいいって感じ。ひとえにこの気味悪さこそ、本作のもう一つの見どころと言えます。特に、頭に懐中電灯を付け走って行く山崎努を土手から捉えたシーン、あれは夢に出てきそうなくらい怖い。落ち武者の怨念から始まった呪いの連鎖を多治見家の消失でもって終わらせ、ラストに辰哉の生きる希望を見せる。橋本忍の脚本も完璧じゃないでしょうか。

ともかく、スポットの当てどころと落ち武者の怨念のケリの付け方など、原作を変えたことで作品としての深みは俄然増しています。でも、でも。シリーズファンとして、金田一の存在があまりにも薄いことが悲しい。この寂しさは、作品のクオリティの高さとは、また別物なんです。縁の下の力持ちどころか、ぶっちゃけ、いなくてもいいくらいのポジション。渥美清が金田一らしいかどうかと言う前に、この金田一のポジションの低さが本作品を諸手を挙げて褒めきれないもどかしさを生んでいるのです。