Casa Galarina

映画についてのあれこれを書き殴り。映画を見れば見るほど、見ていない映画が多いことに愕然とする。

悪霊島

2008-07-16 | 日本映画(あ行)
★★★★ 1981年/日本 監督/篠田正浩
「最も美しい犯人だったのに」


市川版にとらわれず、自分らしい横溝作品を作ろうという、篠田監督の並々ならぬチャレンジ精神がこの作品には宿っています。チャレンジすれば、おのずと良い方向に転がるもの、悪い方向に転がるものがあります。最も良い方向に転がったのは、岩下志麻の魅力を存分に味わえること。ある意味、本作は岩下志麻を観る作品、と言い切ってしまってもいい。

ニンフォマニアである巴御前、原作では次々と男を寝屋に誘い込み、安いポルノ小説のような描写になってしまいますが、岩下志麻の巴御前はエキセントリックな美しさを存分に発揮しています。しかも、話題となった自慰シーンは、原作にはありません。篠田監督は敢えてこのシーンを作品に加えている。それこそ、チャレンジでなくて、なんでありましょう。また、原作の巴御前は多重人格者でもありません。よって人格が入れ替わるという見せ場も岩下志麻の女優としての力量を見せるために作られたのかも知れません。

しかし、篠田監督は本作において「ヒッピー世代」にやたらと執着しているんですね。それが、私には大きな違和感となって残ります。本作は語り部である五郎が過去を振り返るというシーンから始まりますが、その冒頭で告げられるのがジョン・レノンの暗殺事件、以降髪を長く伸ばし見知らぬ母を捜すヒッピーの僕に時代は遡り、ラストで再び現代に戻ります。原作の五郎もヒッピー風の若者として紹介されますが、その程度です。ここにどうしても、高度経済成長期の日本(作品で言うところの現代)が失ってしまったもの、ヒッピー世代への郷愁を見せたいという意図があります。もちろん、これが凄惨な事件と相乗効果をもたらして、メッセージを発してくれれば何の文句もありません。しかし、私にはどうもこのモチーフが全体のバランスを損ねているようにしか見えないのです。この「ヒッピー世代」のこだわりの最たる物こそエンディングの「レット・イット・ビー」であり、この曲の採用が版権問題により長年DVD化を阻んできたのは何とも皮肉な話です。

しかも、原作で実に重大なエピソードを映画では削除しているんです。それは、語り部の五郎は、何と磯川警部の実の息子だった、というオチなんです。磯川警部が戦地にいる間、流産したと知らされていた子供が生きていた。その息子と事件を通じて出会う道しるべを作るその人こそ盟友金田一なんですよ。これは、原作ファンは、入れて欲しいエピソードだったんじゃないでしょうか。

岩下志麻が、市川版の美人犯人のいずれをも凌ぐ妖しさと美しさを発揮したのだから、ビートルズなんぞにこだわらず、とことん彼女を際だたせる構成にすれば良かったのに、とシリーズファンだから思ってしまいます。好きで好きでたまらない男を待ちこがれて狂ってしまった女が死んだ後、レット・イット・ビーを流されても、何だかなあという気分しか残らないのです。嗚呼、岩下志麻がもったいない。

八つ墓村

2008-07-16 | 日本映画(や・ら・わ行)
★★★★☆ 1977年/日本 監督/野村芳太郎
「隅から隅まで野村作品」


これは、横溝シリーズの一遍ではなく、「砂の器」「鬼畜」に並ぶ紛れもない野村芳太郎作品。本作の主要テーマは、辰哉という青年の過去を取り戻す旅です。そこには、過剰なおどろおどろしさも、同情すべき犯人もいません。死んだ母を思い出し、自分の汚れた血に思い悩むショーケンに大きなスポットが当てられるその姿は「砂の器」の加藤剛を思い出させます。そこに、芥川也寸志 のメロディアスな旋律がかぶさり、横溝ならぬ野村ワールドが広がります。やたらと夕暮れのシーンが多いのも、印象的ですね。すごく陰鬱な感じが出ています。

市川版における主役とは、犯人であり、金田一です。犯人にはいつもやむにやまれぬ動機があります。しかし、本作はどうでしょう。財産目当てというストレートな動機で、犯行が見つかったら般若の顔に一変し、ついでに尼子の怨念までしょわされています。原作とは全然違う。金田一だって、徹底的に影の存在です。物語が幾重にも重なる横溝作品。それらの中で最重要位置を占める、犯人と金田一への思い入れを本作はあっさりと捨ててしまっている。しかし、その分、戦国時代の落ち武者の殺戮シーン、そして要蔵の32人殺し。いずれの回想シーンも恐ろしさが際だっています。

市川版では、毒を盛られた人は口の端からつーっと血を流したりするんですけど、野村監督は容赦なく吐瀉物を吐かせたりするんです。別に殺しの美学なんて、どうでもいいって感じ。ひとえにこの気味悪さこそ、本作のもう一つの見どころと言えます。特に、頭に懐中電灯を付け走って行く山崎努を土手から捉えたシーン、あれは夢に出てきそうなくらい怖い。落ち武者の怨念から始まった呪いの連鎖を多治見家の消失でもって終わらせ、ラストに辰哉の生きる希望を見せる。橋本忍の脚本も完璧じゃないでしょうか。

ともかく、スポットの当てどころと落ち武者の怨念のケリの付け方など、原作を変えたことで作品としての深みは俄然増しています。でも、でも。シリーズファンとして、金田一の存在があまりにも薄いことが悲しい。この寂しさは、作品のクオリティの高さとは、また別物なんです。縁の下の力持ちどころか、ぶっちゃけ、いなくてもいいくらいのポジション。渥美清が金田一らしいかどうかと言う前に、この金田一のポジションの低さが本作品を諸手を挙げて褒めきれないもどかしさを生んでいるのです。

パイレーツ・オブ・カリビアン 呪われた海賊たち

2008-07-15 | 外国映画(は行)
★★★★ 2003年/アメリカ 監督/ゴア・ヴァービンスキー
「シリーズ1から見通してみて思うこと」



シリーズ中、このパート1が一番好きだという人も多い。その気持ちもわかります。でも、私は海の荒らくれどものやりたい放題のイメージが定着してしまったので、このパート1は、むしろうまくまとまり過ぎているとすら思えるんですね。全く、不思議なもんです。

確かに物語はコンパクトで見やすいです。エリザベスを中心に観れば、非常にオーソドックスなお姫様物語のようにも感じられます。幼い頃から心を通わせる男との身分違いの恋。そこに、親の決めた許嫁と突如現れた魅力的な不良男。不良男に惑わされるのは、まるでマリッジ・ブルーに陥った女の迷い心のようでもあります。しかし、最後には、自分の思いを再確認して彼と甘―いキスを交わす。物わかりのいい許嫁は身を引き、風のように現れたアイツは海賊船と共に海の彼方へ去っていくのでありました。めでたし、めでたし。

このようにエリザベス目線で考えると、なるほどディズニーらしい映画なのかも知れません。何せ元ネタがアトラクション。よくぞここまで膨らましたな、と感心します。しかし、ヒットしたおかげでパート2を作ることとなった。主人公のふたりはキスして一件落着となった物語を、再び解体しなければならない。そこで、予想外に人気となったジャック・スパロウから物語を広げてやろうということになったんでしょう。

善人か悪人かわからないジャック・スパロウというキャラクターが注目されたのは時代の必然でしょう。悪い奴がいて、ヒーローが退治する。その構図に、もはや小学生ですら嘘くささを感じ取っています。それほど、世の中の善悪の判断基準は曖昧になっている。悪いことをしても罰を受けるわけでもなく、平然とのさばる大人はごまんといます。でも、一方でそんな世の中だからこそ、映画の中では善悪がはっきりしていて、悪い奴が懲らしめられる方がスッキリするのだ、と言う人もいるでしょう。しかし、その虚構の世界はスッキリしても、映画鑑賞の喜びの一つである余韻を味わえない。ジャックという人間が抱える混沌、善も悪も呑み込んでしまう海の底の不気味さの方に私はリアリティを感じます。

おそらく、その根拠は「正義」の不在でしょう。海賊に正義なんてない。それが、見ていて気持ちいいんですね。だって、どっちにも寝返っちゃうんですから。「アラバマ物語」じゃありませんが、性善説に基づく正義を振りかざされることに、私は飽きてしまったし、昨今の映画の正義の表現に作り手が敢えて注入したい何らかの意図を感じ取ってしまう。誰の側にもつかない。ただ海に生きる。そのスタンスは、まるで西洋中心の経済システムから全く離れて存在する少数民族の姿のようでもあり、何が善で何が悪かわからない世の中を生き抜くしたたかさを感じるのです。海賊、バンザイ!

パリ、ジュテーム

2008-07-13 | 外国映画(は行)
★★★★☆ 2006年/フランス 18監督からなるオムニバス(ガス・ヴァン・サント ブリュノ・ポダリデス ジョエル・コーエン イーサン・コーエン ウォルター・サレス ダニエラ・トマス クリストファー・ドイル イザベル・コイシェ 諏訪敦彦 シルヴァン・ショメ アルフォンソ・キュアロン オリヴィエ・アサイヤス オリバー・シュミッツ リチャード・ラグラヴェネーズ ヴィンチェンゾ・ナタリ トム・ティクヴァ フレデリック・オービュルタン ジェラール・ドパルデュー アレクサンダー・ペイン )
「きっとお気に入りの1本が見つかる」


ヨーロッパで最も好きな都市はバルセロナ。その次がパリです。カフェでぼーっとしながら道行く人を眺めているだけでとっても幸せ。だからね、ラストのアメリカ人女性キャロルがひとり公園でつぶやくセリフがもうこれはまるで私のことではないかしら、と言うくらいに染みてしまいました。
「私は喜びと同時に悲しみを感じていました。
それは大きな悲しみではありません。
なぜなら、私は生きていると感じたからです。」

本作は、まるで映像のガイドブックのように美しいパリを堪能できます。いろんな視点のものが出てきますが、やはり「旅人」としての視点に共感してしまいます。その中で最終話にしっぽりやられました。華やかなパリの街並みにひとり佇んだ時の、あの心地よい孤独感。それを見事に代弁してくれていたからです。ヨーロッパの旅は、なぜか無性に孤独を感じます。あれは、一体何でしょう?そして、その孤独感こそが生きている実感となり、再びヨーロッパを目指してしまうのです。

5分程度の作品なのに、全ての出演俳優たちがとても印象的な演技で魅了します。私のお気に入りは、ギャスパー・ウリエルとジュリエット・ビノシュかな。特にジュリエット・ビノシュは、この短い時間でこれほど魂込められるとは、さすがと唸りました。アルフォンソ・キュアロン監督の見事なワンテイクのオチ付きは拍手もの。オチをわかった上で見直すとかなり笑えました。

それにしても、驚いたのは英語のセリフがたくさん出てくることですね。もちろん、アメリカ人観光客という設定なら当然セリフは英語になるのですが、そういうことではなく、パリを舞台に撮る、となった時に迷わずじゃあフランス語で撮る、という感覚はもう古いんだな、と思わされたのです。ラストのアメリカ人女性の話でも、せっかく学んだフランス語が通じなくて困る、のではなく、フランス語で尋ねたら英語で返されてしまう、というシチュエーションなんですもん。パリも変わったなあ、なんてしみじみ。

各ストーリーを繋ぐ何気ないパリの風景。これが、とてもいい。特に夜の街がステキです。最後にパリに行ったのはもう10年も前のこと。仕事と子育てに追われて、年月は過ぎ…。パリに行きたくて行きたくてたまらない気持ちにさせられた1本でした。

71フラグメンツ

2008-07-12 | 外国映画(さ行)
★★★★★ 1994年/オーストリア 監督/ミヒャエル・ハネケ
「世界一周する71フラグメンツ」


<感情の氷河期三部作 完結編>
「コード・アンノウン」を観て何だかよくわからなかったと言う方は、この作品が良い肩慣らしになるのではないでしょうか。とにかく、ハネケの構築する力にただ驚くばかりです。天才ですね。才能ではなく、天才。私は彼のあまりにも冷徹な客観性とピースを積み上げて壮大な理論を作り出す様から、天文学者のようなイメージを持っています。

本作を観て我が家にあるおもちゃを思い浮かべました。これは、建築をやっている夫が気に入り息子にプレゼントしたもので、「STUDY ROOM」という教育玩具を販売するショップで買った物です。(化石や恐竜の模型なども置いてある店で息子は大好きでしたが、なぜか最近クローズしてしまいました)そのおもちゃの材料は、直径1センチほどの白いゴム製のリングと長さ10センチほどの竹ひごだけ。リングには6箇所の穴が空いてあり、そこに竹ひごを突き刺します。そうして、3つのリングと3本の竹ひごで、基本形となる正三角形を作ります。で、どんどん正三角形を繋げていくと、最終的には大きな球体ができあがるのです。

球体の表側の白いリングと裏側の白いリングは、場所こそ遠くに離れていますが、何本かの竹ひごをルートにしっかりと繋がっています。しかも、そのルートは1方向だけではなく、何方向も存在している。球体なのですから、どんなルートを通ろうと、必ず目的の白いリングが目指せます。しかも、それぞれのリングは各ルートで中継地点としての役割も担っているのです。ここで、ハネケの示す断片は白いリング。観客が断片同士を何とか繋げようと試みるのが、竹ひごを刺していくという作業。そして、最終的にできあがる球体は、地球だと考えてみると、何だか楽しくありませんか。

さて、この初期三部作では、全てラジオニュース及びテレビニュースがとめどなく流されています。それらは文字通り、世界の出来事と「個」の距離感を示し続けているのでしょう。この物語は最終的に登場する人物たちが偶発的に銀行強盗事件に遭遇してしまいます。それは、単純に言えば世界は繋がっているということなのでしょうが、ハネケが示す断片は、さらに別の繋がりを示唆し続けているので、我々のイマジネーションもぐんぐん広がらざるを得ないのです。不法滞在で逮捕される貧しい子供が万引きをするのはディズニーの絵本です。カメラは意図的にドナルド・ダッグの表紙を映していますので、これはアメリカを中心とする消費社会を示しているのでしょう。アメリカを意識しているのは、そこかしこで見受けられ、強盗事件が起きた後のニュースがマイケル・ジャクソンの児童虐待の報道であることからも明らかです。日本の寿司を食べてみたらどんな味だったか、なんてニュースも流れてきます。

このように、銀行強盗事件へと集結するという基本路線はあるものの、断片が内包しているものは別のルートからまた違う断片を我々に想像させ、その作業は観客の意思次第で無限に行うことができると言っても過言ではありません。これはもう、いつまでもしゃぶり続けることのできるキャンディのようなものです。しかも、中にはピンポンのレシーブ練習を延々と続けているというどこに繋げていいか分からない断片すら紛れ込んでいます。だから、観客は最終的に、球体を作れなくてもいいんです。おそらく、それはハネケの頭の中にしかないのでしょうから。でも、どこかで竹ひごを繋げるという作業の面白さが分かったら、きっとあなたもハネケ作品の虜です。観れば観るほど、竹ひごを繋げるのも上手になってくるはずです。

とうもろこし、採ったど~

2008-07-11 | 野菜作りと田舎の食
もう、辛抱できずにとってしまいました。

ヒゲは茶色くなってるし、もういいんじゃないの~。なんて。

で、くるくる皮をめくると、ありゃちょっと歯抜けが(笑)。

まあ、いいんです、いいんです。

2本採りましたよ。
今晩は、これをゆがいて食べます。楽しみ~

プレステージ

2008-07-10 | 外国映画(は行)
★★★★☆ 2006年/アメリカ 監督/クリストファー・ノーラン
「作品そのものがイリュージョン」


ラストのどんでん返しにあっさりやられた。時間軸が前後することに加え、数々の伏線が張られているが、見ているのがしんどい作品かと言えば全くそんなことはない。今から随分昔の時代とは言え、目の前で繰り広げられるイリュージョンに目を奪われるし、アンジャーとボーデン、希代の奇術師2人のとことん裏をかく駆け引きから目が離せない。実に見応えがあり、映画館で見れば良かったなあ、と後悔。

アンジャーとボーデン、ふたりのキャラクターをもっと明確に描いてくれたら、導入部からもっとノリきって見れたのに、とその点がやや残念。アンジャーが「陽」なら、ボーデンは「陰」。この陰と陽をくっきりと浮かびあがらせて欲しかった。というのも、脇を固める役者がとてもいいから。特にマイケル・ケインとデヴィッド・ボウイ。「確認」と「展開」、そして「偉業」へ。マジック理論のシーンを始め、マイケル・ケインのおかげで作品に知的なムードが漂う。それに、その存在感からどこかで寝返るんじゃないか、何かヒミツを握っているのではないか、と常に探りながら見てしまった。そして、テスラ博士を演じるボウイがすごくいい!凡人を寄せ付けない風格があって、何だか宇宙人みたい。

人を騙す快感と言うのは、一度味わうとやめられないんだろう。大勢の観衆を驚かせて、スポットライトの中で拍手喝采を浴びたら、全てを犠牲にしてもいい。それほどの悦びがあるのだろう。しかし、一番騙したかったのは、互いのライバル。日記を手に入れたり、恋人を送り込んだり、こりゃまるでストーカーだな。原作はページ数が膨大だと言うことですが、よくぞまとめたという感じ。クリストファー・ノーランお得意の時間軸をいじる見せ方も、もしかしたらラストのオチを気づかせない手段の一つかも。これ、時間通りに進めば、オチに気づく人もっと増えるんじゃない?(たぶん、私は、それでもコロッと騙されると思うけど)

物語で示されるマジックも、そしてこの作品のどんでん返しも、共に「なんだ、そんなことだったのか!」というシンプルなタネであるところが、実に小気味いい。あまりにも単純な仕掛けだからこそ、騙された方も快感。こんなに気持ちよく騙されたのは本当に久しぶり。終盤にかけてのSF的な展開も、全く違和感なし。幻想と現実がないまぜとなって、観る者を圧倒し続ける展開の中で、この驚愕的な科学理論がちゃんと物語に収まっている。おまけにアンジャー殺しの犯人は誰かというミステリーまで加わり、ボリューム満点のフルコースを頂いたような満足感。

ラブソングができるまで

2008-07-09 | 外国映画(や・ら・わ行)
★★★★ 2006年/アメリカ 監督/マーク・ローレンス
「この役を引き受けたヒュー・グラントが偉い」


私はターゲットど真ん中なので、出だしのPVですっかり爆笑でした。ルックスは、デュラン・デュランに似てる~。まあ、あの時代はこんなバンドだらけでした。なぜか、カルチャー・クラブのボーイ・ジョージがクスリか何かで捕まって、懲罰として作業服でゴミ拾いの社会奉仕させられていたのを思い出しました。日本だと、トシちゃんをモデルに作れそうですが、某事務所がうるさくて無理でしょうね。

ラブコメは、あまり見ませんのでドリュー・バリモアはおそらく「E・T」以来です。ちょっと身振り手振りがオーバーだし、コメディ女優的な枠組みの中に入りすぎていて、今イチでしたが、他の作品を見ていませんので即断するのは止めておきます。むしろ、ソフィーの抱えるトラウマがありきたりだな~。こういう設定、他の映画でも見たことあるかも。また、ふたりが結ばれていくプロセスも、予想通りというか、甘いというか、生ぬるいというか。よく言えば、このある程度予測できる部分が安心して見られるというところですかね。

しかし、私はこの作品を大いに評価します。それは、作り込みの本気度です。ラストのコンサートシーン。ド派手な演出でめちゃ気合い入ってます。冒頭とラストの音楽に気合いを入れることで、お気軽でポップな80年代サウンドから、今風のヒップホップサウンドへと、流行音楽の橋渡しが冒頭からラストへときちんと繋げられている。しっかりと音楽を描くことで、時代のギャップ感を見事に再現している。そこがとてもいい。「バブルへGO!」のショボさを思い出してしまいました。

アメリカ人の発音で愛の言葉をつぶやくと、生っぽいというか、もっちゃりしていると言うか、恥ずかしくてダメなんですが、イギリス英語だと何か軽やかに聞こえちゃう。ヒュー・グラントは得してますね。それにしても、あの腰フリダンスはおかしすぎる。しかもこれ、アメリカ映画でしょ?落ちぶれたイギリスのポップスターでアメリカでドサ廻りしてるなんて設定、よく考えるとすごい失礼なオファーじゃないですか?でも、彼の演技のとことんぶりがこの作品を支えているのは間違いなく、その懐の大きさと芸風の幅広さに大いに感心しました。えらいよ、ヒュー。

楽しむ程度に収穫

2008-07-08 | 野菜作りと田舎の食
ちょっと仕事が忙しいと、すぐに更新を忘れるな~
あっと言う間に1週間くらい経ってしまう。
さて、こちらは昨日の収穫。
ミニトマトが順調に来ています。
実はあれから、イタリアントマトは青枯れ病で枯れてしまいました。
やっぱりね、一番強いのはミニトマトですよ。
ベランダでコンテナガーデンなんかでお勧めされるのがようくわかる。
そして、真ん中にあるのが枝豆。
いやあ、うまかった!
あのね、枝豆は収穫目的というよりもマメ科の植物は土に良いってことで
トマト苗の間に3つほど植えているだけなんですよ。
でも、早めに植えて虫の被害が少なかったからなのか、そこそこ採れました。

そして、こちらは一昨日の収穫。

ズッキーニ、きゅうりが順調。
そして、万願寺とうがらし、ピーマンが初収穫。

でも、昨晩からのすさまじい雨で無事に生育が進むかかなり心配。

ボラット

2008-07-07 | 外国映画(は行)
★★★ 2007年/アメリカ 監督/ラリー・チャールズ
「私も警察を呼びます」


ちっとも笑えませんでした。アメリカの欺瞞を暴くですと?だったら、もっと正攻法でしましょうよ。ボラットは、カザフスタンからやってきたレポーターのフリをしているんですよね。フリをしている人がカマをかけて相手の反応を引き出すというのは、見ていてあまり気持ちのいいものじゃありません。

そもそもフェイク・ドキュメンタリーの体裁ですから、そこに遭遇するアメリカ人の全てがやらせでないと、どこまで言えるのでしょう?侮蔑の言葉に怒って席を立つフェミニズム研究者に「そこで怒ってくださいね」と指示しているかも知れません。意気投合する大学生たちに「一緒に馬鹿騒ぎしてくださいね」とお願いしているかも知れません。あくまで、この映画は本当に起きたことと言っています。実際に訴訟問題も起きているのだから、そうなんでしょう。しかし、出発点において自分自身が本性を偽っておいて、後の出来事は本当にあったことです、と展開するのはモノ作りをするものとして、虫が良すぎませんか?

じゃあ、百歩譲って、この映画に対して不快だと思う人、その不快に根ざすものを顕わにするための映画だとしましょう。でも、私がホテルスタッフなら、ホテルにパンツ一丁で現れたお客さんをもてなす自信はありませんし、大事な商品を壊されたら弁償してくれといいます。正直、この映画の何が面白いのか、全くわかりません。

やわらかい生活

2008-07-06 | 日本映画(や・ら・わ行)
★★★★☆ 2006年/日本 監督/廣木隆一
「やわらかく行くのはムズカシイ」


廣木監督は、しのぶちゃんを好きになってしまったのかしら?と思えるくらい、寺島しのぶが愛らしい。躁鬱病を抱える袋小路な女としては、ちょいとカワイすぎるんですよ、導入部。人生行き詰まった女に対しては、監督はもっとサディスティックに行った方が、面白いんだけど。とか思いつつ観ていると、タイトルが「やわらかい生活」でした。そう、きりきりしないで、何とかほんわりやって行こうと、がんばっている女の物語。ほんわりの向こうにあるのは、薬漬けのどうしようもない自分。その辺が、少しずつ、じわりじわりと透け始めてくる。そしたら、優子という女がだんだん愛おしく見えてくる。

本当は蒲田という場所に馴染みがあれば、もっと楽めるんだろうな。だけど、タイヤの公園とか、蔦の象さんの家とか、なんだこりゃ?みたいな異質なものが街に馴染んでるでしょ。それが優子にとって、とっても居心地いいんだろうなっていうのは、伝わってきた。それって、すごく大事なんだよね。昔、「ざわざわ下北沢」って映画を見て、下北沢なんて行ったことのない私は、とっても内輪なノリですごくヤな感じだったの。好きな人だけで盛り上がってちょーだい、みたいな。

寺島しのぶは、同性を何となく納得させちゃうようなものを持ってる女優だな、と思う。人物設定として、自分の好き嫌いはあっても、見ているうちにその人物が抱えるものがわかってくる。不思議な女優です。豊川悦司のあの足の長さは、作品によっては裏目に出ませんか?もちろん、ファンとしては大きな魅力の一つなんだけど、この作品で言うと、久しぶりのショートヘアでしょ。余計に足の長さが目立って、目立ってしょうがない。その足の長さがね、どうも気のいい博多弁の従兄弟というイメージを遠ざけてしまう。スタイル良すぎるのも罪ですね。カラオケフルコーラス歌ってまして、意外とキーが高いのでビックリ。しかも、お上手。このただ歌っているだけのシーン、だんだん2人の距離が縮まるのが感じられてなかなかよいです。

原作の絲山秋子、「沖で待つ」を読みましたが、働く女のしんどさをひりひりと感じさせる作家です。描写はとても生っぽいんだけど、主人公の内面はとても乾いている感じで、独特の作風でした。この元ネタの「イッツ・オンリー・トーク」も読んでみようと思います。

初雪の恋 ~ヴァージン・スノー

2008-07-05 | 外国映画(は行)
★★☆ 2006年/韓国 監督/ハン・サンヒ
「ファンの方のみご覧下さい」


キム・ギドクやポン・ジュノを見た後で、こういう映画を見ると、ある意味韓国映画の懐の広さというのをつくづく実感。なんとまあ、薄いこと、薄いこと(笑)。凍結した雪道で長靴が滑って、つる~っとすべっていくような表面だけをなぞらえた作品。でも、脚本は日本人なんですね。何とも冴えない日韓合同作品。主演のイ・ジュンギと宮崎あおいのファンの方がご覧になればよい映画ではないでしょうか。

日本人と韓国人が恋に落ちるという設定でまず考えられるのは、日本と韓国の間に長年横たわる感情の溝ですが、本作ではそれについて一向に触れません。まあ、常にそれを持ち出すとどの作品も似たり寄ったりになるので、敢えて外したというならそれでも構いません。ただ、韓国に帰ってきた彼が日本人の女の子に恋をしていたという事実に対して、家族や周りの人々がノーリアクションだったとは到底考えられません。また、ミンと七重、それぞれ家族関係において悩みを持っているのですが、ここの描き方が弱いのなんの。高校生時代のミンくんの演技も、観ている方が恥ずかしくなるような大げさな演出で閉口。批判はこれくらいにして、ちょっと別のこと。

これは、韓国映画だという思いで見始めたせいか、宮崎あおいが目鼻がキリリと際だつ韓国の美人女優とはまるで別人種のような存在に見えます。これは、主演のイ・ジュンギが女形のような美形なので、余計にそう見えたのでしょう。宮崎あおいを活かすならば、韓国サイドはもう少し親しみのある庶民的な俳優の方がしっくり来たと思います。まあ、キャストありきで作られたであろう作品に、このような話をしてもあまり意味がないかも知れませんね。

グエムル 漢江の怪物

2008-07-04 | 外国映画(か行)
★★★★★ 2006年/韓国 監督/ポン・ジュノ
「こんな怪物映画、見たことない。ソン・ガンホ最高!」


ハリウッドに対抗するために作られたモンスターパニック映画だと思っていた私は阿呆でした。ポン・ジュノの才能が見事に光る傑作。なぜ映画館で見なかったのだろうと、今ひどく後悔しています。従来のパニック映画のセオリーとは全くかけ離れた構成で、こんなに個性に満ちた怪物映画にはお目にかかったことがありません。

怪物に殺された人々の家族が公民館のような場所に集められ遺影を前に号泣したり、長男をバカにしてはいけないと父親が子供に説教したり、非常時にはアメリカのいいなりになってしまったり。随所に、同じアジア人としてのメンタリティに訴えかけてくるものがあります。これはハリウッド映画では絶対に味わえない感情です。加えて、薬の散布に反対して学生達がデモ活動を行うなど、韓国らしい描写が強烈なオリジナリティとなっています。

何より、ポン・ジュノらしい作風を、怪物映画と言うジャンルでフルに発揮できていることが驚き以外の何ものでもありません。例えば、怪物は一旦おいといて、主人公カンドゥにフォーカスしてみましょう。彼は勇敢に怪物と戦ったにも関わらず、娘が生きていると訴えても誰も耳を貸してくれず、ウィルス保持者として警察には追いかけ回され、しまいには病院でひどい目に合う。こんなにキツいブラックコメディってあるでしょうか。しかし、とことん間抜けな男を主人公に持ってくることで、極限に追い込まれた人間の描写が圧倒的にリアルなものになり、役人や軍人どもの横暴ぶりを笑いとして昇華させることができます。また、妙に間の抜けた設定だからこそ、その後迫り来る恐怖との落差がさらなる臨場感を生み出します。ライフルの弾の数を数え間違ったがために、我が父を恐怖に陥れてしまった、その切なさたるや…。

こうして主人公をとことんバカな奴に描くユルいムードを表面的に装いながらも、病院のビニールシート越しに不気味に映る顔のショットとか、怪物と併走して走るカンドゥだとか、力強くて印象的なカットは枚挙にいとまがありません。特に「殺人の追憶」でも多用されていた人物のアップ、とりわけ幾度となくカメラに迫られるソン・ガンホの表情が秀逸です。本当に彼は凄い役者です。ラストのアメリカ軍の発表を映すテレビのボタンを無造作に足の指で消すという何気ないシーンにも、ぐっと胸をつかまれます。ペ・ドゥナのラストカットもしびれました。このジャンルの映画で5つ星の作品は、後にも先にも、もう出てこないんじゃないか。そう思わされるほど、良かったです。

ゾディアック

2008-07-03 | 外国映画(さ行)
★★★★☆ 2006年/アメリカ 監督/デビッド・フィンチャー
「力強いビートに身をまかせる157分」



当初尺の長さに躊躇していたのだけど、その長さを全く感じさせない素晴らしい作品。ゾディアック事件を取り巻く人物達の焦燥と混乱を描いていますが、それだけで観客をぐいぐい引っ張るというのはとても難しいこと。というのも、この手の映画は、どうしても「犯人は誰か」に注目してしまうものだから。しかも、最初の事件が起きてから、ラストに至るまで非常に長い年月が流れている。なのに、ダラダラとした感じが全くしない。

例えば、いきなり「4年後…」なんてテロップが流れても緊張感が途絶えないのです。普通なら、「えっ、4年もすっ飛ばしちゃうワケ?」なんて、しらけた気持ちが起きるはず。でもね、それがないの。この作品には、ビートの刻みを聞いているような心地よさがあるんです。例えば、太鼓やドラムなどのお腹にずっしり来るパーカッションの音楽ってあるでしょう?ずっと一定のビートで力強くて、鮮やかで、いつまで聴いていても飽きない音楽。暗号をグレイスミスが解読するシーンなど「解けた!」という飛び抜けた演出もされていないし、ゾディアックが標的に忍び寄る様、特に赤ん坊を連れた女性に近づくシーンなども、じわりじわりと恐怖が忍び寄ってくる。その一定のリズム感が実に心地よくて。

ジェイク・ギレンホール、マーク・ラファロ、ロバート・ダウニー・Jr。三者三様、それぞれの人生が狂い始める様を見事に演じています。ある意味、この3人の役どころに誰か大物スターが入り込んでいたら、非常にバランスが悪くなったでしょう。ゾディアックというシンボルを中心にして、すばらしいトライアングルを形成しています。それぞれの運命の歯車は決して良い方向には回らない。図らずして悲劇のレールに乗ってしまったことを、中盤辺りですでに観客は予期し始めます。それでも、我々は固唾を呑んでその行く末を見守らねばならない、そんな使命感すら感じさせられました。犯人が捕まろうが死のうが、そんなことは途中でどうでもよくなり、ラストまで緊張感と共にゾディアックに翻弄される3人の男達の生き様を食い入るように眺めてしまったのです。