うざね博士のブログ

緑の仕事を営むかたわら、赤裸々、かつ言いたい放題のうざね博士の日記。ユニークなH・Pも開設。

身近な大震災の爪痕

2011年04月08日 05時41分13秒 | 東日本大震災のこと

 今日は、実は、お釈迦様の誕生日、花まつりの日、本来はそういう寿ぐ日である。
 昨日の夜半(23:37)は久々の大きな余震が起きた。当地は震度4になる。立て揺れが非常に長くて一分弱つづいた。震源地の宮城県沖ではマグニチュード7.4の模様だ。この余震で、広範囲に被害があったかもしれない。相もかわらずおどろおどろしい日々がつづいていて、さすがのわたしも気持ちが萎えることである。

 身近な話をする。
 大震災直後にかつての同級生から安否確認の電話がありわかったことが,ある。この地震でわたしの同級生が2人、まだ行方不明だ。40年ほど前の面識のみなのであるが、わたし自身には若いころの面影はあざやかだ。わが田舎の町は純農村地帯で、人口は9000人、江戸期には仙台藩にあたるが岩手県になっている。この町は盛岡市を源流とする北上川が流れていて盆地状のわずかばかりの平地では稲作が盛んであり供出している。ここは宮城県との県境に位置しており、200mほどのつらなる低い山並みを越えていけば、車で30分程度の近くに、今回の災害にあった気仙沼市や南三陸町があり、いわば隣町だ。報道では、現在、わが町ではこの被災地に毎日飲料水をタンク車でピストン輸送している。
 当時の中学校の同級生は3クラス編成で110名余りか。一人は、卒業まじかに宮城県石巻市内に転校していった男性、この時は会社の業務中であったらしい。もう一人は女性で、岩手県陸前高田市内の農家に嫁入りしていて、畑作作業中に津波にあったらしい。夫婦ともども消息が分からずじまい、息子は無事だったらしい。現在のところ、どちらも避難場所には見当たらずである。
 まあ、わたしの田舎は今回の地震での大きな土砂崩れはなかったらしくて、数日間の停電とガソリン、油不足で車が動けなかったようだ。親戚関係は無事であったが、広い岩手県内でも南部藩であった久慈市寄りの北部に位置する野田村に嫁いでいた姪が、村役場の一階部分が津波にあい、自家用車を持って行かれたらしい。同村も村全体はかなり被災しており、いまだにインフラの復旧も進まず、なかなか通信事情が悪い。
 わたしの母の弟である叔父に電話したら、ずいぶんと様子が分かってきたが、現在83,4歳になる今までこんな大きな地震はなかったと言っていた。昭和42年、わたしが高校二年生の時に母は肝臓がん系にかかり53才でなくなり、10年ぶりに聞く一回り年下の叔父は、妙にかん高い地声で言葉数少なく低い声で語ってくれた。電話の後に、わたしは寄る年波と共にもっとも近い血のつながった係累に対し、往時への懐かしさよりも広がる複雑な思いに沈みこんでしまう。
 昨年まで同じ職場で働いていたOさんは単身赴任していて、家族を残していた住居が被害にあった。そこは仙台市中心部にある。8階建てマンションの2階に住んでいて居室部分にひびが入り、危険この上ないので親のほうへ仮住まいになったそうである。管理組合としても一時的な補修ではおさまらず、建替えにしても、将来の方向性が見えてこない。未完済の住宅ローンもあり、本人は自己破産宣告を考えているようだ。
ほかには、仙台市若林区内の子供さんのマンションに身を寄せている、高校時代の古文のM先生がいる。かなりの老齢の女性で、わたしの実母の入院中、そしてなくなったときに一緒になって心配してくれた恩師だ。
 それから、福島県の川俣町に住み40代の遅い結婚後、長年ピストンリングの設計技術を担当していたのだが、今はいわき市で介護の仕事をしているらしいSさん、これは転居通知に電話番号がなくて安否確認できずにいる。
     
 
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浦安の液状化を見に行く-その1 新浦安駅周辺

2011年03月31日 03時44分56秒 | 東日本大震災のこと
 先日、仕事の帰途に、地縁のあった千葉県浦安市内の新浦安に行った。わたしなりに、気になっていたのだが、3月11日に起きた今回の大震災の爪痕を身近に感じるためにである。
 実は液状化被害についてこの目で見るのは初めてで、街の状況は、シルト(微砂)っぽく海底の泥が混じっているらしく白っぽい砂埃でまみれ、風が吹くと空中に舞い上がるだろう。市道の表面は波打っており舗装部分との継ぎ目からクラック(亀裂)が入り、地下埋設関係も歩道は特にひどく、上水道のほかに下水の人孔(マンホール)全体は上昇し大きいところでは1mにも及ぶ。推測するに、地中部では巨大な力がはたらき、長い距離にわたり地下の布設管も持ちあげられて下水管自体も断裂しているようだ、当然、使用不可能だ。全体的に、どこもかしこも地盤一体が不同沈下の現象を呈している。
 あちらこちらの道路では、調査業務関連の人たちに加えて、水道、下水道、都市ガス、電気、舗装、土木関連の災害協力作業の業者が車両を持ち込んで応急処理の作業をしているのだ。これでは、この地域のこれからのインフラの本格整備の先が思いやられる。
 なんだか、業務的な報告書のようで気が引けるが、とりあえず、見てきた画像をズラズラとアップする。ここでは未編集ながら2,3回にわたって掲載する予定だ。
 なお、写真上でクリックすると画像を拡大して見ることができます。

 撮影日時: 平成23年3月28日(月曜日) 16:00→17:30
 天候: 晴れ 無風

 まずはJR京葉線の新浦安駅の東京湾側方面(海側)、入船口側の駅前あたり、連絡するペデストリアンデッキ・スロープ・屋外エレベーターとポケットパーク、交番の入っている駅商業ビル(ここには、建物の外壁に垂直面緑化が設置してある)、バスターミナル、それに広場である。
                   
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号泣と沈鬱と、そして鎮魂を、東日本大震災

2011年03月19日 17時55分45秒 | 東日本大震災のこと

 これはまったく個人的なことですが、東日本大震災について、3月15日のブログに記事を書き込んだ通り、重苦しい心理の内側でわたし自身の意識に震災前、震災後という、区切りが生まれつつある。いまだ曖昧模湖ながらも、わたしは、思いを新たにしなければならない。

 とはいっても、現実的な対応として、わたしには現在の仕事や生活環境の事情で災害救助の活動はできない。こんな場合の無償ボランティアの実際面については、経験上、少々知っているが、いまは物理的、時空的に無理な状態だ。せめて、宅配便による物品として東北方面の交通事情が解決していき次第、身近な親戚関係ではあるが津波に遭った岩手県内にいる姪に、栄養価が高くてすぐ食べられるわたしの住む地元特産の落花生をキロ単位で送る予定である。

 ところで、けさほど、体調不良の中、たまっている仕事に出かける電車の車中で、たまたま、浮かんだ駄句を以下につらねたい。内容はいたって極私的な述懐そのもの。無益な妄想の表現であることは、重々、承知の上である。

  *わがみちのく 母のふところにたてまつるなり

  *春まだ来 おどろおどろし あめつちを怨む

  *はかなくも みずくしかばねに 春の海

  *遠きまなこ 無口の民らに 草木萌ゆ

 房総の千葉のわが町では、早くも辛夷の白い花がひっそりちらほらと咲き始めた。やがて、そして、いよいよ百花繚乱の世、万緑の季節がくるらしい。もうすぐ、彼岸の中日。が、寒い彼の地は遅い春の時候である。凶事に対し、わたしは森羅万象の移り変わりがこの世に吉祥をもたらすことをひたすら信じる。

 

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落ち着かない日が続くのですが、

2011年03月19日 05時47分00秒 | 東日本大震災のこと

未曾有の災害、東日本大震災でわたしの身の回りは落ち着かない日が続く。随分と余震が続く。このあいだ、未熟で青臭い日本政府と東電のお粗末極まりない方策によって、突発的に「計画停電」なるものが始まる。今の働き盛りの世代には、タイムスケジュールに沿ったかたちの事前の関係者、関係機関との打ち合わせとか、根回しとかが不得手のようで、本当に困ったことである。相手を思いやったり忖度したりできず(想像力不足である)、あるのは相手を言い負かそうとする巧みなディベートと自己主張のみだ。結果的には全体の不利益につながるのに・・・・・。

 そんなことで、わたしは今週の月、火曜日は電車が動かずして、出社もかなわず。そのあと乗る駅と路線を探し乗り換えと乗車時刻を見て、どうやらこうやら、都内の会社に通う。その間、わたしの家族は遠方まで徒歩や自転車で行ったり同僚の車に乗せていってもらったり、なんとか通勤している模様だ。ガソリンも軒並みスタンドが売り切れで閉まっている。ついでに言うと、建築工事の現場も土を掘り山留めをともなう工事は全面ストップ、絶対的な軽油不足で重宝なユンボ(バックホウ)、発動発電機などの建設機械は動かせなくて作業も休止状態だ。

 今、家庭にいても、仕事に行っても余震が未だに続いている。確かに、一週間も続くのは異常だ。そして、このあとも房総沖地震が予想されている? そのエネルギーは震度2、3から震度4ぐらいの感じだが、その間断時間が長くなってきて少し安心している。

 昨日の朝に総武線に乗り換えるべく駅のホームで待っていたら自分の感覚がおかしい。なんだか揺れている、まわりの物や電車の架線を見ても揺れていない。足もともがふらつく感じだ。わたしは慎重に混雑している車両に乗り込んで鎮まるのを待つ。頭内が妙な感覚、わたしには老人特有の脳の病気の発症経験がなく、これはめまいか、メニエール病か。会社のパソコンでインターネット検索したら、“地震酔い”という症状であるらしい。どうもこのことはトラウマになるらしい。わたしにしてみればそんなことはよくあることで、どうでもいいのだが。

 わたしのような東北の片田舎で育った人間は文明の機器などなくても、種を播き食物を育てる耕すための土くれさえあればなんとか飢えずに生きていける。出身をたどれば百姓の小倅だ。いざとなれば、商店なぞの商品がなくても済ませる、しがない農耕民族のなれの果てだ。わたしはもともと、自分の五感を頼りにするアナログ重視の古い人間。だがしかし、はたして、こんな日がいつまで続くのであろうか。

           

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今度の大地震のその日は・・・

2011年03月15日 18時50分31秒 | 東日本大震災のこと

今度の大地震について、わたし自身のその日の行動や感想を書きたい。

 3月11日の午後2時46分は江東区内の会社にいた。ラーメン構造で鉄骨造りの一階の事務所で4月に予定されている現場の準備作業で資料整理に当たっていた。そこで、いきなり、ゆさゆさと大きな横揺れが始まり、危険を感じて前面の路上に飛び出す。わたしは、なんどか数分刻みで出たり入ったり繰り返す。3時7分には突き上げる縦揺れがあり横揺れがある。道路(区道)から見ていたら、貨物線越しの遠方の40階建てと思われるタワー状のマンションがローリングしている、多分1,5mくらいは左右に振れている。ベランダには入居者の姿は見えない。歩道の電柱はぎしぎし音を立てて揺れ、電線はバシャッバシャッと波打っている。事務所内の停車中のライトバンは前後に音を発し飛び出しそうだ。社の人たちもあっけにとられて苦笑いをしているが、所在なさげだ。わたしは落下物の危険を避けるように空中をみながら、かろうじて隣地の野天の駐車場に立ち尽くす。車は何事もないように通過するが、歩行者はびっくりしている。卒業式帰りの女子学生は泣きそうな顔でかがんでいる。耳鳴りとか加齢化によって、自分の三半規管の機能に自信を持てなくなっていたわたしには、ほとんど船酔いの境地であった。心許ない体の揺れに不安をおぼえるのだ。それに、もともとわたしは地震に過剰に反応する気味があるらしい。よく言えば敏感でもある。なぜかというと、それは小さい頃の、田舎の経験によってである。1960年に起きた、 「三陸チリ地震津波」 が起きた頃の世の騒ぎをおぼえているからである。チリという地球の反対側から津波が押し寄せる恐怖がどんなものであったことか、当時、わたしは小学校の低学年であった。同じ時代に、愛知県では伊勢湾台風もあった頃。それは、50年前の話である。

 わたしは落ち着きもなく、電気機器の電源を落としたりドアを開け放しにしておいてから、事務所を出たり入ったりし、テレビやラジオが身近になかったので、インターネットで地震の規模や地理などを調査検索し情報を集めた。わが田舎である、岩手県の三陸沖で地震と津波が発生したとのことである。そのうちに、やがて、都内の電車などの交通機関も途絶えた。高速道路も閉鎖した。夕方にやっと家族と連絡をとり無事と無事故を確認した。即、勝手に会社に泊まると決め、明日帰ることになると伝えた。わたしはどちらかといえば長い間にわたり遠距離通勤だ、その場合の対応は慣れている。それから隣のコンビニでパンと、普段はめったに食べないカップ麺をもとめる。

 その日、わたしの郷里にも連絡をとるが、とうとう電話は通じずじまい。わが山峡の町は県境に位置する。今回の一番近い被災地は宮城県の南三陸町だが、地震そのものでなくこれは津波による被害だ。そこからひと山越えたところなので、災害があるとすれば土砂崩れなはずだ。大まかな土地勘とともに、わたしはその地形を思いうかべて、なんとなく大丈夫そう、との感触を得る。しかし、最大の被災地の気仙沼にしても、今は、車で30分の距離だ。のちほど、無事を確認する。

 夜の8時台に最寄りの地下鉄の駅に行くと、半ばシャッターが下りていて閉鎖状態である。釜屋掘通りと明治通りの道は、都心と反対方面へは無数の車で渋滞し、歩道は帰宅する人であふれている。ときおり、救急車がサイレンと大きなスピーカーを鳴らし通り過ぎていく。そんな状況が連綿と続いている。町の飲食店はにぎわいざわめいている。その光景は、まるで、お祭りが終わった直後の夜のようだ。

 孤独は馴れている方だが、その夜はぽつねんとわたしひとり。わたしは寝るのに椅子では落ち着かず。床に古い図面の束を敷き、手近かにある他人の作業着を大量にかぶり横になる。窮屈そのものだが、文句を言うのはわたしらしくない。さいわい、電気の暖房のエアコンは効いている。それから、一時間ごとに襲う大揺れにわたしはヒヤヒヤ、辟易しながらも眠れず、2,3時間ほどのうたたねの後、早朝の4時に目が覚める。

 7時15分、朝帰りのため、会社を出発、動き始めた電車でそれぞれの駅で30分以上待たされ、地元の駅より三つ目の手前の駅で下車し、家内にメール連絡し迎えに来てもらい、帰宅する。時刻は10時45分。不機嫌なわたしは、家で心細くしていて心配していた家内に当り散らす。

 地震規模は震度5強、マグニチュードは空前絶後の値を示し、始めは7.9、それから8.2 、8,8、そして未曾有の9.0に変更になった。名称は “東北地方・太平洋沖地震” から、 “東北・関東大震災”、 “東日本大震災” と変わりつつある。被害の程度は、過去にも江戸時代から頻発したが明治以降の3度の 「三陸チリ地震津波」を 、簡単にクリアする大災害になった。規模は最終的に神戸の 「阪神淡路大震災」 の7000人近い死者数を軽く超えて、30000人はいくに違いない。三陸の風光明媚な天然の良港であるリアス式海岸は、各町ごとに孤絶されたエリアになってしまった。過疎ではあるが、今まで営々と整備してきた地域住民にとって、木造の住まいや海藻や魚介類の養殖の栽培漁業、沿岸漁業のなりわいの問題があり、地震発生後は、まずは津波防潮堤建設、港湾整備などのインフラ整備の問題が立ちふさがる。その対価としていくら公共的な費用の補助があったにせよ、いづれ個人や自治体が長期間の借金を世負うことになる。昔から地震、雷、火事、親父、と言い古されているが、こんどの天災はおどろおどろしくさまざまで悲惨な事実群とにまみれていて酸鼻な大事件である。わたしの想像でも、この世のものと思えない最悪の事態の出来だ。

 なんだか、わたし自身に、震災前と震災後という意識上の区切り方が定着しそうである。被災地へのアクセスが悪すぎて、今回の場合は都市化された神戸と異なりボランティア活動への一般参加は無理であるが、これまで生きてきたわたしの人生観上、なんだか、今後はそうなるように思う。だが、いまだに、被災地も関東でも余震はつづく。今度災害に遭われた方々へは、死者へのご冥福をお祈りしたい、今後、生存者の皆さんは自殺したり絶望せず、復旧への意志をかき立てて生き抜いていってもらいたいものだ。    

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