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うざね博士のブログ

緑の仕事を営むかたわら、赤裸々、かつ言いたい放題のうざね博士の日記。ユニークなH・Pも開設。

蔵書の整理ー文学書について

2016年06月03日 05時29分53秒 | 活字中毒の日々、そして読書三昧
この春の大清掃によって、わたしの書庫の蔵書の整理をして残した本について、二回目として文学書についてアップする。
 読書の習慣について、わたしはことさらに他人の前で喋ったりまた吹聴したりはしなかったが、なんと、本読みの人生を送って来たものと思う。
 若いころに物心両面に孤独で困窮の時期、わたしは 江藤淳 の角川文庫「小林秀雄」を読み、次に 小林秀雄 の評論集に魅かれてその奥深さと範囲の広さに著書を集めて読み、ひとりそれを何度も読み耽る。それから、 江藤淳 と 吉本隆明 に読書範囲が広がり、最後は 山本七平 の世界に入り込む仕儀になった。このブログのカテゴリーにもある通りだ。
 今回の処分ではかなりのジャンルと書籍を捨てたが、最後に残ったのはこの文学的な著書だけである。大東亜戦争もの、古典、蕪村、植生、美術書 の分野は残す。
 今では血肉化されて、あらためてつぶさに人に説明するのは、わたしとしては難しい。社会心理学的にはアイディンティティクライシス、当時、何度か世間からドロップアウトする危機があったはずだが、結婚し子供がいて自分の家を持てて普通の生活を曲がりなりにも維持できているのは、この著者たちの思考方法に救われたからにほかならないだろう。職安の紹介で異業種の造園業界に入って30年と半分は経過した。好きな道を選んだつもり、それで天性の職業に出会えたかは未だに即断できないが・・・・・。
 既にスタート時点から自立すべく道が決まっていたようだ。他を考えて、自分の頭で考えて生きていくことのなんと難しいことか。自分の気持ちに正直に生きていくことのなんと苦しいことか。               
                   
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その後の読書

2016年01月25日 04時45分27秒 | 活字中毒の日々、そして読書三昧
この季節、野外はいつも曇りがちでいつの間にか空からはひらひらと雪が舞う。暗鬱、やるせない気分である。休日はコインランドリーに行く、スーパーに食料を買いに行くか煙草を求めるか、だけである。寒いし、無為な日々、外出にも億劫になる。強いて訪ねる先もない。こんな季節は不活発な日常が続く。健康に良いわけはないが、やむを得ない。
 ベッドに布団と毛布を重ねてかぶりもぐりこむ。そうすると、わたしは年末からの読みかけ中の手軽な読書に行きつく。

 まず本屋で買ったばかりの未読の松本清張の 「梅雨と西洋風呂」松本清張 光文社文庫 を読む。松本清張は時代小説は忌避していて他は全部読んだつもりでいたが、光文社文庫はあのカッパノベルスでベストセラーだったものが文庫化されたもの。やっと読めるようになったという曰くつきのものか。逝去後の文春版の松本清張全集には入っているのだろうか。
「家族という病」下重曉子 幻冬舎文庫 2015年の年間ベストセラーだった本で売れているらしいが、簡単に読了する。内容は薄っぺらでどこがいいのかわからない。買ってまで読む本ではない。著者は元NHK女子アナウンサー。わたしに言わせれば単に本人の経験を述懐しただけのもので、いっそ、自叙伝などで密度濃く記述してほしいものだ。

 以前、秋のつくばで樹木医研修を受けた。その時の講師が出された 「桜」勝木俊雄 岩波新書 は好著で(この世界では珍しくて記述の仕方は練達しており、文章も出色の出来映えである。)、わたしはそこでしばらく前の 「桜の文学史」小川和佑 文春新書 を思い出した。“桜”を生態や植物学的な面と古書から現代にいたるまでの文学的な描写と鑑賞の視点から記したものだが、これに 山と渓谷社 の図鑑“日本の桜”を加えれば、現代では、“桜”の知識として万全な知識を得られることと思う。

 「シンクロの鬼と呼ばれて」井村雅代 新潮文庫 はシンクロナイズドスイミングの井村コーチのスポーツ指導方法に惹かれて読んだ。聞き書き風の本である。彼女は厳しい指導で中国でも日本でもメダル獲得をしていくのだが、どうしてか? 読後感じたのは、目的意識を如何に持たせて心身ともアスリート自身への自己に鍛錬させ得るか、であるらしい。持っている才能もだが、能力とは、努力の果てに得られるものらしい。

 「脳はこんなに悩ましい」池谷祐二・中村うさぎ 新潮文庫 は時間をかけて、先日読み終えた。飽きない、引き釣り込まれる。現代は、脳科学は学会でも最先端の分野である。池谷は多量の資料を渉猟し、読み下し、色々な所見を披露してくれる。それに対して、中村うさぎの真摯な態度で対談する姿は初々しく感じるほどだ。
                    
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「脳はこんなに悩ましい」と「`昭和天皇実録'の謎を解く」を読む。

2015年12月07日 05時36分51秒 | 活字中毒の日々、そして読書三昧
この間は昼頃に当地に初雪が舞う。その前は朝方に零下2.4℃になった。そうすると休日は、急ぎの用事のないわたしは炬燵に入りっぱなしか、ベッドへもぐりっぱなしで寝ている。もちろん、ひとり身でだ。まるで、ミノムシ状態になる。
 そうなれば、やることは、生来活字中毒のわたしである。お金をかけずに、本を読むに限る。 
 この間買ったのは 「脳はこんなに悩ましい」池谷雄二/中村うさぎ 新潮文庫 であるが、面白い。両者とも発想と組み立てる論理がいい。わたしは生活破綻者まがいの 中村うさぎ さんのすさまじいまでの自分とは何かと追及する姿勢にいつも瞠目している。
 ほかに新版の「`昭和天皇実録'の謎を解く」半藤一利/保坂正康/御厨貴/磯田道史 文春新書 を読む。 先日の 山本七平「昭和天皇の研究」祥伝社新書 はまだ読み終わっていないがこの本に取りつく。昭和天皇の実像がよみがえってくるが、こういうことになるまで70年の月日がかかったことに驚くばかりだ。左翼陣営が天皇制批判するほど物事は単純ではない。実像はどうか。如何に、昭和天皇個人が時の軟弱な政府首脳との交渉や、強要する陸軍幹部をコントロールするためのなまじかではない悪戦苦闘ぶりが語られている。
 軍を統括する大元帥、立憲君主としての政府を代表する立場の二律背反する心境。昭和天皇は、唯一天皇として、軍人教育を受けたとされる。絶対的な孤独の立ち位置が続く、皇族は頼まず。ぶれない人格。
 とても、大部過ぎて、実際に宮内庁書陵部編集課の `昭和天皇実録' を読む機会には至らないであろうが。
 そういうことであったのかと、象徴天皇、昭和天皇陛下の戦後の国民に対する全国行脚や行動や挙措,姿勢に大いに納得がいく。

 同時代史として貴重な証言だろうか、対談集だから口語体で読みやすいので読書好きにお薦めしたい。
                   
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アメリカの戦争責任

2015年11月08日 08時35分16秒 | 活字中毒の日々、そして読書三昧
竹田恒泰さんの本、「アメリカの戦争責任」PHP新書 を読む。きわめて読みやすい。
 先日、近所のイオンの未来屋書店で思うような本が入手できずに来年の太陽太陰暦の暦とともにこの本を購入した。明治天皇の係累の人ということでテレビに出ていて、軽いキャラクターのみの人かと思っていたが、書店で見ていたらこんな本を出している。なんだなんだ、おまけに、山本七平賞も受賞された由。
 
 わたしは日本の歴史では、安土桃山時代と続いて関ケ原の戦い、明治維新、とそれに並んで大東亜戦争(第二次世界大戦)が重要でエポックメーキングな年代かなと思っていた。前の二つは時間軸が離れていて歴史の評価は定まっているが、大東亜戦争の敗戦はこれからの世代により客観的に決まってくるものと思われる。
 ここで、戦後最大のタブー「アメリカの戦争責任」と紹介されているが、要はアメリカの広島や長崎への原爆投下の責任の明確化を追求したもの、第二次世界大戦でヨーロッパ戦線ではドイツによるロンドン空襲、それに対する戦時復仇としての連合国側からのドレスデンへの空爆があった。その後アメリカによる、わが日本の地方都市70数か所への無差別な空襲が始まり、民間人100万が死亡した。
 最後には、計画的にそれまで焼夷弾投下などを避けて残していた都市、新潟、小倉を含めた4都市の内天候による視界が良かった広島や長崎へのそれぞれウラニウム爆弾、プルトニウム爆弾を投下した。その結果、民間人30万人以上が死亡した。
 投下直後にアメリカはその威力や放射能について終戦後現地入りし敏速に調査をしたが、そのデータは本国へ持ち帰った。そのあとの治療方法は日本任せにした。これらは時のアメリカのトルーマン大統領やバーンズ国務長官の判断によるものだが、国際情勢の上で米ソ冷戦の予兆もあり、アメリカ軍の損失を抑えることと日本の終戦を早めるためにとは言いながらも、竹田氏は、人類初の驚愕すべき原子爆弾という破壊兵器は人体実験だったのではと分析していく。
 明確に、日本各地への空襲や広島や長崎への原爆投下の大量殺戮は、人道上国際法違反でありながら、現代でもアメリカ国内の世論ではほおっかぶりしているらしい。この問題は、アメリカの開拓者精神や世界の正義を標榜することを良しとしながらも、そういうレベルではない。
 ただ、誤解をしてほしくないのは、アメリカによる戦後日本の復興についてはGHQによる占領下、援助物資や社会制度の改革や民主主義の導入は稀に見るありがたいものだったということを付け加えたい。
 いずれにしても、これからはこの視点からの議論の盛り上がりを期待したい。

 残っている戦後のタブーはシベリア抑留の強制労働などの実態調査とソ連の責任、それに補償問題と、大東亜戦争戦後の戦没者の国による解明と遺骨収集作業の迅速な完全実施であるとわたしは思っている。
                
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伊藤比呂美さんの 「女の一生」 を読む

2014年11月19日 05時07分08秒 | 活字中毒の日々、そして読書三昧
昨日、夕方過ぎ、帰り際にコープのスーパーに寄り、煙草、コーヒーに入れる牛乳、レーズン入りの食パン、それに思いついて神宮館の平成27年の暦をもとめた。すでに歳末が迫っている。毎日の通勤に際し田舎の山間部を走るが、わたしはいつも乗り合いのライトバンの運転をする。コースは片道40キロ弱の距離、上り下りやカーブが多くて、助手席に乗るよりもわたし自身にとってもいいのだ。身体を揺さぶられるより揺さぶる方が好き、か?

 それはともかく、この間の日曜日に伊藤比呂美さんの 「女の一生」 を読み終えた。これは週刊文春で酒井順子さんが薦めていた本、久方ぶりに岩波新書を手に持った。わたしにとって、岩波書店の出版物はここ数十年来、大嫌いであったがやむを得ない。
 この本はわたしにとっては読みやすく書き流したという印象もあるが、(章立てとか記述にも安易さを感じるが、)詩人で女性特有の書きっぷりには好感が持てる。なにより感覚主体の文章だからだろうか。60年ほどの波瀾万丈の人生を経てきているらしいが、男とは違って身構えないし理屈っぽくないし、今までの実体験をもとに表現されていていい内容だ。ウソのない仮借のない表現、人生というか来し方について率直という微妙な境地の核心を語っているように見受けた。
 読書の世界では性別は無関係でありこの本を特に女性にわたしも薦めたいが、どうだろう、さしあたって、家内になるのだが。
           
       
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北大路魯山人の本

2014年02月04日 05時55分52秒 | 活字中毒の日々、そして読書三昧
 
 わたしの場合の読書はだらだらとした状態で向かい本を読む。若いころは学ぶという修練ために熟読に熟読を重ねて読み終えたら、どこの章や段で何が書かれ何が強調されていたか、そのページを大体暗記していたもの、それほどに自分自身に強いたぐらいだ。究極の本の虫か、活字中毒か。しかし次第に、本に耽溺する弊害もありそうだ、ということも分かってきた。
 そんなときに若いころには読書日記をつけて気に入ったフレーズを書きうつしたり感想をまとめたり、分からない漢字やことわざを調べておく。なんだか、今に至るも、そんな他愛もないことがわたしにとって習慣化している。普段は蒲団に入りごろ寝しながら読むのが最高だ。
  今は北大路魯山人の 「魯山人の世界」白崎秀雄・ちくま文庫 を3カ月ほどかけて読み終えることになった。次は、取り寄せておいた同じ著者の伝記 「北大路魯山人」上下 にかかる予定だ。 実は若い時分に「北大路魯山人」を読んだ記憶がある。多分、20代半ば頃、結婚前、大学に入りながらも授業に出ず、生活費に困窮しバイト生活を送っていたのだ。
 書画、篆刻、焼物、料理、漆器などを才能豊かに玄人はだしで作品を製作、生み出していく。芸術家か。掛け値なしの正真正銘の天才である。創造する心持の見事さに圧倒される。それはおびただしいジャンルと物的数量だ。今の骨董の世界ではどういう情勢になっているか寡聞にして知らないが、テレビ東京「開運!なんでも鑑定団」にも正当な骨董品としてたまに出品される。ただ、性格は狷介で傲慢、圭角があり人間性の上で毀誉褒貶がある、それゆえにどこへいっても嫌われた人物だ。だが、北大路魯山人の作品は残る。これからも、後世に間違いなく残っていくだろう。
 わたしにとって、この魯山人の生き方、若いころの誰もが持つ強烈な自我意識に惹かれたし、すごいことをやる人には性格分析上では二面性があるなあ、とそんなことが見えてきた頃だ。
 ここで、読書習慣として言いたいことはわたしは二度読みはしなかったということ、本は書き込みや汚れるまで徹底すること。近年はそうでもないが、一回しか読まずあとは振り向かないとしてきたことだ。本は人から借りるとか、図書館を利用するのは邪道だ、自分のお金で新刊本を購入する。そんなこだわりがあった。
 さて、こんど、再読してどんな感想を持つことだろう。
        
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有吉佐和子の「恍惚の人」を読む

2013年12月05日 05時24分47秒 | 活字中毒の日々、そして読書三昧

 先日思い出して、有吉佐和子の「恍惚の人」を読んでみた。大衆通俗小説である。この本はもうすでに何十年前になったベストセラー本で有名だったが、試みに今回新潮文庫の奥付きを見ると、昭和47年6月出版、10年後の昭和57年5月に文庫化されている。その後、連綿と増刷していて平成24年1月には64刷となり、今でも読まれているのは大したものである。
 当時、わたしは二十代前半、実は小説も無縁な気がするのと、‘ベストセラー’嫌いという生来の天の邪鬼で読まずにいて、今回が初読になる。映画では徘徊老人の森繁久弥と立花昭子役の高峰秀子が主役で共演したのだが、当時はなんとなく気味が悪くおぞましい感じが先に立っていて見ていない。
 しかしそれにしても、立花昭子はどこにでもいる仕事を持つ主婦で登場してくるが、ストーリーの後半になるにしたがい神々しい存在になってくる。
 このごろ、わたしにも、いつか、このように訪れるであろう最悪の老後に複雑な思いを馳せる。
            
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松本清張の「小説日本芸譚」

2013年01月01日 06時08分14秒 | 活字中毒の日々、そして読書三昧
あけましておめでとうございます。1月1日の今日は、まず、読書ネタから始まります。
 ここでは、松本清張の短編集である、「小説日本芸譚」のなかから 世阿弥 のことを取り上げる。内容は極めて分かりやすい、これも松本清張の才筆の賜物と言えるかもしれない。今まで現代物はいざしらず、わたしは、時代考証とは別にその人間模様の真実味に疑問を感じ松本清張の時代物の小説は忌避していたものである。ついでに言うと、あの、司馬遼太郎のベストセラー小説も平板であり猥雑で複雑怪奇なリアリティが描かれておらず、ほんとかいなといかがわしいものだと以前から感じている。読んで分かりやすくて面白ければいいってものでもないだろう。
 それはさておき、世阿弥の「花伝書」は世間の一般常識的には大仰な話題に思われるかもしれないが、以下の記述には、技をなりわいとする人間の老年期に至った心境に触れていたので抜き書きしておく。素直に理解できて、なんとなく、熟読玩味したいセンテンスだ。 
 

 「花伝書」
  能はさがらねども、力なく、ようよう年闌け行けば、身の花もよそ目の花も失する

 もしこの頃まで失せざらん花こそまことの花にてはあるべけれ

 まことの花の残りたるしては、いかなる若きしてなりとも勝つことあるまじき也

          
 
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大東亜戦争(太平洋戦争)のこと ①戦役

2012年10月09日 07時00分00秒 | 活字中毒の日々、そして読書三昧
 
 大東亜戦争(太平洋戦争)のことを書く。
 わたしは数年来、書籍では文学者のいわゆる戦記物、それから軍体験のルポルタージュや記録物を読んできた。それにくわえ、わがPCで簡単にDVDが見られるようになって、出回り始めたアメリカの実写記録やプロパガンダ映画を編集しているDVDの安価なものを収集し見てきた。
 今回はTVなどで大々的に宣伝していたある通販会社の 「太平洋戦争」全10巻を入手。1巻あたり60分前後の収録時間だ。完払いまでは分割払いで二年かかる勘定だ。

 戦後生まれのわたしでも、第二次世界大戦のことには興味がある。ここで、まとまらないままに各戦役を羅列する。わたしたちのかなしい経験である個々の戦役の分析は、いつの日にかおこないたいものだ。わたしたちの親たちが悲惨過ぎて口にできず胸奥にしまっていたもの、それに戦友として海外に遺骨として残されていること。陸海軍官僚の思い上がった戦争指導方針、それに新聞報道に見られるマスコミの犯した犯罪。などなど、悲痛な思いとともに振り返りたい。

 戦役としては時系列に見ていくと、ノモンハン事件 盧溝橋  ハワイ真珠湾攻撃 マレー半島進攻 ミッドウェー海戦 アッツ島玉砕 ニューギニア ソロモン諸島のガダルカナル ラバウル ポートモレスビー攻撃 インパール作戦 ギルバート諸島のマキン、タラワ玉砕 マーシャル諸島 トラック諸島 マリアナ沖海戦 サイパン グアム フィリピン海戦、レイテ沖 硫黄島 沖縄本島 であろうか。

 大東亜共栄圏  絶対国防圏 「ろ号」作戦 「捷一号」作戦 
 シベリア抑留  米軍の日本占領政策  終戦ではなく敗戦ということ

 特に分析した内容の本としては、以下の2冊、どちらも同じ防衛大の教授他6氏によって討議の末にまとめられたものである。特筆すべき内容だ。
 「失敗の本質」--日本軍の組織論研究 中公文庫
 「戦略の本質」--歴史に学ぶ逆転のリーダーシップ 日経ビジネス人文庫

 この戦争で日本は昭和16年から3年半で死者数では300万人とされる。

 歴史というものは、ものごとを国の内外における死者数の多い少ないで見るとよくわかる。民主集中制を標榜する中国の文化大革命は1966年から10年で3000万人が殺されたりして死んでいる。言わば内乱の時代だ。日本の時代は70年安保である。
 このころはわたしも人民服を模し好んで菜っ葉服を来ていて、「人民中国」を定期購読し赤い手帳「毛沢東語録」を入手し、若さをもてあそぶ変な時代であった。
 ところで、最近の中国は第二次世界大戦前の日本や欧米列強のように帝国主義国家になっている。無分別な膨張主義の根っこにあるのは野蛮な中華思想だ。国内感覚イコール国際感覚だとする野放図なお国柄。民主主義などは無縁な国。なんだか悪い意味で、遅れてきた国という感じだ。 
 もうひとつあげると、北朝鮮ではここ最近の餓死者数が200万人にのぼるとされている。どちらの国も恥ずべき国情として一般に公開していないが、その真実は漏れてくる情報によって時系列的に明らかである。国際間の現実感覚よりもイデオロギーをかさぶたを重要視するごとくに時の政治担当者が歴史的事実をつくりかえている。「歴史認識」という得手勝手なデマゴーグをまき散らす。すべからく他者を攻撃することのみ、無自覚な自分自身のみを良しとし、国民として国民たらしめているアイデンティティをつかめずにいる人たち。共産党独裁ならではというこのような全体主義国家は、隣国として大変つき合いづらい。
 いづれにしても、国民を公開銃殺したり、平気で死なせたり飢えさせる国家は最低である。
          
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中村うさぎさんのコラム記事

2012年05月15日 04時15分18秒 | 活字中毒の日々、そして読書三昧

 わたしは、週刊文春にとってここ数十年来の読者だ。最新の週刊文春記事(2012.5.17号)に中村うさぎさんのコラムがあり、わたしは毎回うなずきながら愛読させてもらっている。自他ともへの仮借ない筆法にこの人の資質を買っている。真摯な執筆姿勢。身銭を切っての奔放とも見える日常生活の数々。自我についての追及はキリキリする。読者としては、痛いしまた小気味いい。自分自身の自我を切り刻んでいく。お為ごかしは一切なし。
 今回は木嶋佳苗の手記を題材にしたもので、タイトルは 「上から目線」な手記 である。最近の中村うさぎさんは、うらわ地裁で裁判もおこなわれており、この木嶋佳苗の際だった特異な個性について記している。
 でもわたしには、この強欲で木嶋佳苗なるものの自己中心的で即物的な自我について、なにやら、現代人特有の性質におもわれてならない。好悪のみで簡単に社会を他人を判断し他罰傾向ばかり強くて、本質の自分自身をなおざりにし、日常の消費行動に明け暮れする人々。それに幸せをもとめる人々。多くの同世代の人たちは、多分、悪い実例を見たと意識無意識にかかわらず無視しているだろう。

 このごろ、単に文字という表現手段をたまたま得たばかりに無内容な若い世代の文章が新聞などマスコミに見かける。表現のコツを知っているだけで、実は言うべきものはなにもない。当然、それは一過性の文章で、そこには矜持も羞恥心もない。消極的に生きてきたくせに、頭でっかちとほんのわずかばかりの感覚と経験のみではしょうがない。
 中村うさぎさんは、知ったかぶりの知識や理屈でなくみずからの感覚と思考で生きる。

         
  
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最近の読書の傾向、“「反原発」の不都合な真実”など・・・

2012年03月17日 18時49分40秒 | 活字中毒の日々、そして読書三昧
 
 わたしは、相も変わらず乱読傾向が強いのだが、最近の読書メモをまとめておきたい。

“現代語訳 渋沢栄一自伝” 守屋淳編訳 平凡社新書
 本屋の店先で見かけて購入。あれっこんなに薄っぺらな内容でいいのか。わたしがおもうのには 渋沢栄一 は産業界のみではなくて、業績、実務的な部分とか、ある意味で資本主義経済を根づかせたともいえる人物だ。もっと文系の人間が関心を持っていただいて研究するべきだろう。歴史家ももっと、面倒がらずに時代背景とからめて複眼的に読んでほしい分野の本だ。

“楡家の人びと” 北杜夫 新潮文庫
 昨年から読みはじめてやっと中巻にいたる。これは上中下の三冊。世評と比べて、わたしにはなんだか穴慢な内容に感じる。文章が理知的過ぎるのか。いっこうに進まない。

“「反原発」の不都合な真実” 藤沢数希 新潮新書 
 この本は讀賣新聞の日曜日の読書欄で、脳研究者で知られる東大准教授の池谷祐二さんが紹介していた。彼曰く「脳は近視である。・・・そもそもリスク誤認は脳の標準仕様(デフォルト)だと思う。」

 原子力発電という科学にたずさわる技術者や研究者は、現在の「反原発」の風潮に対し及び腰である。今までこの産業は保護されて来て甘い世界であったが、説明責任もあり、きちんと主張すべきだ。著者の藤沢氏は経済分析、統計学というロジックのみで、原子力発電推進とここまで自論を展開してくれた。きわめて分かりやすい本である。
 現代、世間とは多人数の様々な感情論で形成されるとはいえ、冷静に事実やデータ集積と分析を積み重ねてエネルギー産業自体の育成を再検討願いたい。官庁の安易な補助金や東電の収益構造は見直すこと。そして何よりも、どうか、この先端技術を扱う当事者は倫理的に対応していただきたい。
 多分、今起きている福島原発事故の悲しい余波は、わたしたちにとって、世界でも、未曾有の不幸な経験の中にいる。そして、世界では、その後の対処方法・技術を真剣なまなざしで見つめているのだ。
 わたしとしては、テーマからややそれるが以下のセンテンスを記憶にとどめたい。
 
 『どうもITや通信の分野での識者は、ムーアの法則のようなコンピューターやソフトウェアの技術革新のスピードと、エネルギー産業の技術革新のスピードを混同する傾向があるようです。エネルギー産業も、コンピューター産業と同様に半導体技術を多用しますし、ソーラーパネルなどは半導体そのものです。しかし信号だけを処理すればいいコンピューターと、巨大なエネルギーそのものを直接扱うパワーエレクトニクスは、全く似て非なるものなのです。そこのところを誤解すると、非現実的な議論になってしまいます。』

“戦略の本質” 日経ビジネス人文庫
 戦争論や戦略・防衛論の6人の専門家が大東亜戦争の分析をおこなったこの本は先に出版された “失敗の本質” の第二部とでも称すべき内容の本か。
 数年前にわたしは、フィリッピンのコレヒドールやレイテ沖、インパール、ノモンハン戦役など、やたらと戦争本や戦記物を読みこんでいたが、ついには “失敗の本質”中公文庫 にたどり着いた。その時この本をいい加減にめくっていた。今回は新たに手に入れた太平洋戦争のDVD全体を通観するにあたり、精読を試みたいものだ。
         
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林芙美子の浮雲を読んで、

2012年02月22日 05時52分36秒 | 活字中毒の日々、そして読書三昧
暦の上では「雨水」が過ぎた。わたしの密かな願いでは、当地では20日位には、南風の春一番が吹くかなと思っていたがかなわず、今年はいまだに寒い天候が続いている。これからの、暖かくなる度合いの今度の目安は3月5日の「啓蟄」だ。
 わたしの近況は、先月来回収してきた弟の遺品のものを手元で整理している。わずかに図書券一枚のみで金銭めいたものはない。ほかに未使用とおもわれるXPのパソコンや道具箱など雑多であるが、つたない初心者向きの園芸本、星、野鳥の本もあり、中には珍しくも文芸作品の文庫本があった。

 先日、その林芙美子の風俗小説‘浮雲’を読む。じつは、この本は書痴のわたしとして新規に購入して読むレベルではない。奥付に鉛筆の手書きで 180と書いてある。どうやら古本屋で買ったらしくて、活字が小さく紙質も茶色くわら半紙のように変色し、丁寧にあつかわないとテイッシュペーパーのように破れやすい。どうもこれは戦後1950年代のベストセラーであったらしくて、その後、東宝映画にもなったようだ。作品は名匠・成瀬巳喜男監督で、高峰秀子と森雅之のキャストである。
 内容は、戦中に農林省から仏印(フランス領ベトナム)へ林業技術者として派遣され(軍属)、敗戦で引き揚げてきた元役人が主人公で、言ってみれば、それぞれが浮気者の男女が戦後混乱の世相のなかで転変し、身を滅ぼしてしていくストーリーである。

 そこで、最後は鹿児島県の屋久島が舞台となる。屋久島は一日ごとの天候の変動が大きくて安定せず、しかも国内有数の雨の多い島で知られる。たまたま以前、造園業界の集まりで‘縄文杉’ツアーで行った先の旅館が安房港近くの「屋久島ロイヤルホテル」で、ここは林芙美子のこの小説執筆の滞在先であった。その由来が大きな看板で建物につけてあったのだ。わたしが行った季節は、屋久島の登山には一年で一番時期がいいと言われた6月の入梅直後の頃である。そこをステイ先にして、早朝暗いなか、おにぎりなど二食分を持って隊列を組んで出発する。それは、やはり雨もやいで、まず森林鉄道のトロッコレール跡を歩き、原生林の山中に渓谷やつらなる巨岩や急峻な山肌などの登山路で‘縄文杉’を見るまでは実に片道6時間であり、日頃の運動不足がたたり、わたしは下山もおぼつかなくていて翌日から数日間は身体がぐだぐだに疲労困憊したものである。

        
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「表裏井上ひさし協奏曲」と編集者の犯罪

2012年01月17日 05時42分23秒 | 活字中毒の日々、そして読書三昧
今は寒い時期、21日の「大寒」に向けてますます寒くなる。それから以後は、徐々に徐々に春の暖かさがきざしてくる。
 正月休みは北杜夫の「楡家の人びと」を読み続けていた。その途中、わたしは以前から西舘好子さんの「表裏井上ひさし協奏曲」を何軒かの書店で探していて、その本を最近やっと入手し、ついつい一気に読んでしまった。初めは東北の田舎者と江戸っ子気質の二人の知り合ったいきさつ、そして夫婦生活、後半部分は売れっ子作家になった私生活のおどろおどろしい暴露内容であり、読了まで二日間かな。(この入手難について、わたしはひょっとして、版元や書籍流通の問屋レベルで自己規制していたのかなあ、と思ったほど。)
 文章は西舘さんの手なれた叙述で進んで行くのだが、その内容には家庭や家族のことで身につまされる部分が出てくる。人のなせる所業。小説家稼業は一般的に人格破綻者がなるもの、というのは本当だ。表向きは対外的に戦後の世界平和運動への啓蒙や参加を呼びかけながらも、その実態は残酷な夫婦間のDV、人権無視のオンパレード。わたしに言わせれば、なにが遅筆堂だ、井上ひさし自身の品性の下劣さにはあきれる。どうやら大作家にはこういう裏面が古来からありそうだが、小説や戯曲をつくることが仕事である場合おうおうにしてあることである。どんな職業であれ男が女に、このような非力な者に物理的な力を振るってはならないのだ。
 しかし、ここでは出版社に勤める担当編集者の犯罪を取り上げる。どんどん執筆させて本をいっぱい売らんかなという販売ポリシーで、新潮社、文藝春秋、講談社は夫婦間のDVをそそのかしその事実を陰湿に隠ぺいするのだ。わたしはなにも知的職業に従事するものが正しいことを標榜することに賛成するわけではなくて、どういう場合でも日常感覚から判断することにしている。
 どんな職業でも、“仕事だから”と言って(所詮、金儲けや出世のために)、それを免罪符にするのはご免だ。振り返るとわたしには、世の働き盛りの年代で、他人から仕事ができるとおもわれている人ほどその性向があるらしく感じる。卑近ないい方になるのだが、それなら他人に害を及ぼすのではなくて、わたしはみずからに責めを負わせることだろう。
 井上ひさしファンや読書好きが本のみを読んで単に読書感想を云々するのであれば、この西舘好子さんの「表裏井上ひさし協奏曲」の一読も併せてすすめたい。しかし、もともと、世の中はこのような虚構の世界で成り立っているのではなく、日々泣いたり笑ったりする生身の人間の暮らしで成り立っているのだ。

 わたしは、人形劇「ひょっこりひょうたん島」のNHKテレビ放送で育った世代。そのあと「四千万歩の男」など1,2冊は読んでいて「吉里吉里人」だけはぜひ読みたいものだと思っているが、でも、井上ひさしのお里が知れたようで、そのユーモアや作り話の世界に興醒めしそうだ。
                
       
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『こちら葛飾区亀有公園前派出所(こち亀)』のコレクション

2011年12月12日 05時57分48秒 | 活字中毒の日々、そして読書三昧

 こんな年にもなって、わたしにも唯一マンガを読む時がある。秋本治さんの『こちら葛飾区亀有公園前派出所(こち亀)』である。現在は177巻めだ。しかし、このマンガは、最近、色んな風に編集して発刊しているようで、わたし自身、実に、戸惑ってしまう。これは思うに、売らんかなという集英社周辺の販売方針でもあるらしい。
     
 昨日、わが書庫を調べてひっくり返してみると、第1巻は1977年7月31日の発売となっていて、その頃わたしは結婚前で、当然、子供が生まれる前からのマンガである。第1話は「始末書の両さんの巻」。一冊大体8話のようで、34年間ものあいだ、なんとなんと、連綿と続いてきたのだ。わたしの場合、数冊をのぞきほぼ全巻そろっている。
               
 わたしたちの行動パターンにも男女差はあるようで、何かを蒐集する癖は男のみのもので、かたわらの女たちはそれを見て驚きあきれてしまうものらしい。ことに役に立たないものに男どもは熱中する性がある。しこうして、悲喜劇のもとにもなる。
 わたしの場合は、ほかに、DVD関係では、映画で「アルフレッド・ヒッチコック監督」や「フーテンの寅さん」になってしまう。これらは細大漏らさず手元にあり、平積みすると、背丈までもいかないにしても、今や書庫や押し入れに満杯だ。もちろん、植物蒐集も似たり寄ったりで、そのわたしの最近の最大のコレクションが「ギボウシ」ということになる。元来、わたしは物持ちはいい方でそんなこんなでいずれ山のようになっていく。
 マンガについては、現在はこれのみであるが、以前は(若い頃という意味だが)少年誌ではなくて週刊誌のビックコミック2誌を定期購読していたもので、そのなかの 「あぶさん」や「三丁目の夕日」や「さんだらぼっち」「浮浪雲」、「のたり松太郎」、「ゴルゴ13」を愛読していて、特に「ゴルゴ13」などは意気がって単行本を集めていた。

 しかし、長年のこち亀ファンから言わせると、『(こち亀)』映画バージョンは良くない。アニメ、テレビから映画化したのだが、わたしは、多分、金輪際、映画館に足を運ぶことはない。主役の両津勘吉役は香取信吾では野性味がなくて騒がしいばかりで薄っぺらでありミスキャスト、ラサール石井が適役、相方の女性、秋本・カトリーヌ・麗子役の香里奈は取ってつけたようで品がない。中川圭一役は速水もこみちでは大柄すぎて演技にシャープさが欠ける、クール過ぎるかもしれないが及川光博でどうだろう。大原部長に、伊武雅刀はまあまあ良しとする。
            
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西條八十の評伝を読む

2011年11月11日 05時54分20秒 | 活字中毒の日々、そして読書三昧

 わたしはこの間、たまたま時間が空き途中で近場の本屋に寄った。先日もらった商品券を使い切るのに、目的のDVD(男はつらいよ・・・)のほかに、ほかに適当な本を探していたら西條八十の本が見つかったので一緒に購入した。
 「流行歌 西條八十物語 吉川潮著--ちくま文庫」という本だ。これは評伝的な内容で読みやすいが、わたしは数年前に読んだ「西條八十 筒井清忠著--中公叢書」を思い出した。この本は叙述に難があった。そこでわたしにはめずらしいのだが、書庫を探して現在、再読中のところである。

 わたしは、西條八十については、まず最初におびただしい流行歌の作詞によって知っていた。「かなりや」 「東京音頭」 「旅の夜風」 「誰か故郷を想わざる」「若鷲の歌」 「同期の桜(二輪の桜)」 「蘇州夜曲」 「青い山脈」 「越後獅子の唄」 「王将」 「夕笛」という具合だ。(ちなみに、わたしは戦前に作られた「蘇州夜曲」を一番に推す。)
 さて、わたしは、西條八十の詩について、27歳のころの詩であるこれを評価したい。大正8年発刊 詩集『砂金』所収。

○桐の花

 おもひ出でゝは
 あるも怖ろし
 大理石の湯槽のなかに
 忘れたる、その
 桐の花。

 夜更けて
 尼等ひとしく
 庭に下り額をあつむ。

 誰びとの
 犯せし罪ぞ
 月の暈
 ほのかなるころ。

 うつろなる
 石の湯槽に
 桐の花
 媚きわたる。

 童謡も作るし文学史の資料でも、アルチュール・ランボオやボードレールなどの翻訳・研究者としてフランス文学にも顔を出してくる。なんとなくわたしも整理してみると、文化的な分野での多面性が分かってきた。
 こういう人物の類型はきわめて日本人には珍しくて一般世間では不思議な扱われ方をされてきた。器用と言えば言えるのだが、理系でいえば江戸時代の平賀源内のように、である。日本ではひとつの専門分野のみで評価されがちな社会構造を持つ。専門分野がいくつもあると、その業績面でなくて人格的にのみ評価されるようで正当にとらえられない。むしろ、軽視や蔑視の対象になる。ここでも、日本人が嫉妬やねたみに端を発する属性的に持っているいやらしい「ムラ社会」意識がはたらくのだ。もともと、種々の視座をもたない専門分野に棲息する「ムラ社会」ではそこに制度的なヒエラルキーが強力にはたらく。したがって、なかなか、全人的な評価はされにくい。
 勿論、わたし自身はこんな視野狭窄的な視点は頼まれてもとらない。人間は、本来、多面的で複合的であり、むしろ、こんな「ムラ社会」を軽蔑しているのだが。
 ちなみに、社会的に職業としてはフランス文学専門の早大教授で、詩人、作詞家である。 

 ところで、わたしは以前から作曲家・船村徹の 「演歌巡礼 苦悩と挫折の半世紀」講談社1983年 という本を古本屋で探しているがなかなか見つからない。わたしの50代くらいからこの人の演歌のメロディーがスーッとからだの中に入るようになり、どういうことなのか、船村徹の生い立ちを調べるようになった。
 どなたか、この本をお持ちの方は譲っていただきたい。
          
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