うざね博士のブログ

緑の仕事を営むかたわら、赤裸々、かつ言いたい放題のうざね博士の日記。ユニークなH・Pも開設。

現代の若者の困った気質

2009年07月27日 05時07分00秒 | 活字中毒の日々、そして読書三昧

 これはある抜き書きです。

『 ネット上には映画情報が氾濫し、誰も彼も作品を「評」し、点数を付けているのは驚くばかり。それ自体はもちろん構わないのですが、不当に低い評価のコメントには共通項があるのに気づきます。つまり無知の棚上げ。「最初から最後まで意味がわからなかった。見る価値なし」と、堂々たるものです。自らに非があるかもしれない、とは想像もしていない。
 背景など全く知らずともーたぶん感覚でー「わかる」のが当然、との認識なので、わからなければ相手が悪いという結論になってしまうのでしょう。わからないことを調べるのは億劫で嫌なのです。せめてプロの映画評論家の書いたものを読んで補えばと思いますが、それこそもっと嫌がる。なぜなら「純粋な見方」の邪魔になると信じているから・・・・。
 これに関しては若者ばかりを責められません。かつての淀川長治さんのように、映画が好きで好きでたまらない。自分が感じた面白さを是非とも周りに伝染させたい。権威主義的な専門用語は使わず語り口の妙で作品の良さを伝えたい、というカリスマ的伝道者がいなくなったからです。
 現代の若者たちは、自分たちが何かにつけて利用されていると感じています(案外それは正しいかも)。だから製作会社の意を汲んだ映画評に敏感だし、少なからぬ評論家たちが面白くもないものを面白いと誉め、二流品に傑作のお墨付きを与えることにもすでに気づいています。そんな提灯記事を読んで騙されるくらいなら、自分と等身大の素人のコメントの方が役に立つと思っているのです。
 でもそれではいつまでたっても同じ視点のままだし、わかることだけわかってお終いの鑑賞法から抜けられない。もっと広い視野と知識があれば、何倍も映画は楽しめるのに惜しいことではありませんか。』

 以上は、わたしが愛読している読書誌、月刊“本の話”今年の8月号(文藝春秋発行)の中野京子さん(作家・ドイツ文学者)の文章です。
 「純粋な見方」では見えないもの、という題で自著‘恐怖と愛の映画102’の自薦文の一部分です。

 わたしには、映画に限らず、ここには現代の典型的な若者気質を指摘しているように見える。ここでは、この「純粋な見方」なるものも、若者自身がみずから獲得してきたように思っているらしいのだが、わたしには単に家庭や学校にて(もしかして仕事先でも・・・)お仕着せで育てられて来たに過ぎないように見えるのだ。単に、あてがい扶持の人生しか生きていないのに。
 自活して、自分の手足で、自分の感情をぶつけて自分の頭で考えられたものとは似て非になる性質だ。人としての品性の低下を感じる。少なくともわたしにはこんなレベルの若者には信頼できないものを感じる。
 世間では、結局、教わっていないから知らない、だから関係ないしという、消極的で功利的な自己肥大型のいびつな社会人が増えるだけである。
      
 
コメント
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