うざね博士のブログ

緑の仕事を営むかたわら、赤裸々、かつ言いたい放題のうざね博士の日記。ユニークなH・Pも開設。

現代の若者の困った気質2

2009年08月03日 03時42分05秒 | 活字中毒の日々、そして読書三昧
もうすぐ、立秋。ここ数日、夏風邪にやられている。鬼の霍乱っていうやつだ。
 ここに現代の若者の特徴を描写、分析した文章がある。わたしなどに言わせれば、一番誠実な生き方は自分にとって、自分ならどうするだろう、というスタンスを何があっても維持するべきことだろうと思うが、現実的に他人との比較と競争に追われすぎているように見える。そしてその時に誤った、ひとりよがりの自己認識に囚われているのに気づきもしないし、あるいは知らないふりをしている。
 下の文章で引き出されてくるテーマは仮想世界にいつまで満足できているか、この不健全な世界をいつ崩せるかである。
 形而上的にも現実的にも、時間は過ぎる、人は変わる。
 どうしたらいいか。右顧左眄しないで、自分をかりそめにも第三者的に客観視すること、つらくなったらやめればいいし、だが、できればその習慣を身につけること。そのうちに自己矛盾と他者の距離に感づくはずである。そしてそこで、生のほかならぬ一人だけの得られた貴重な経験・感覚を、正確に他人に表現できるかである。
 それこそが、社会における一人一人の生きることに通じることになるのだが。
 どうか、文章後段にあるようなナショナリストにはならないでいただきたい。

 『とにかく何らかの共同体に帰属していないと「バスに乗り遅れる」ということだけは彼らにもはっきりわかったのである。でもそのときに彼らがメンバー登録しようとするのは、家族でもないし、同業者集団でもないし、政党でもないし、地域社会でもない。
 彼らがメンバーになろうとするのは、「想像の共同体」である。なぜなら「想像の共同体」は干渉しないし。抑圧もしないし、苦役も課さないからである。あまりに広大な共同体であるせいで、他の成員と顔を合わせる必要もないし、固有名を名乗る必要もない。誰も頼ってこないし、誰の尻拭いをする必要もない。
 想像の共同体に帰属しているのなら、ひとりでいるのと変わらない。

 ナショナリズムを彼らが選ぶのは、「原子化された個であることの不利」を共同体に帰属することで解消したいが、共同体に帰属することで発生する個人的責務や不自由についてはそれを引き受ける気がないからである。
 エゴイストとして自己利益を確保しながら、かつ共同体のフルメンバーであることの「分け前」にもありつきたいと望む人たち。
 そういう人々がナショナリストになる。

参考本;「吉本隆明1968   鹿島茂」
     「ひとりでは生きられないのも芸のうち  内田樹」』

      

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