うざね博士のブログ

緑の仕事を営むかたわら、赤裸々、かつ言いたい放題のうざね博士の日記。ユニークなH・Pも開設。

吉本隆明さんが死んだということ。

2012年03月21日 04時56分47秒 | 吉本隆明さんはどう考えるか・・・
春のお彼岸も、時系列上は過ぎたばかり。とうとう、今年は春一番も吹かなかった。このことを生物季節の指標に拠って判断し、今年の気候の変化を見ていくと通常の季節と比べたら、およそ三週間遅れだろうか。しかし、森羅万象の移り変わりのなかでこの壮大な自然現象は、これから遅れを取り戻すようにスピードアップしていくに違いないがいつまでに帳尻を合わせてくるのだろうか。
 最近は、寒気が残りながらも菜種梅雨めいた天気が続いている。
 わたし個人は、この頃、千葉市内のあるところの一本の太い 「河津桜」 の満開を見るのを楽しみにしている。ある都市型ホテルの車寄せの緑地にあり、それは移植物の樹木であろう。記憶では、電信柱より太い筈だったから、目通り1.0m以上となるだろうか、まあ、樹高は12,3mぐらいか。

 このあいだ、吉本隆明さんが死んだ。87歳ということで、まあ大往生の部類になるだろうか。
 この頃は、わたしにとって、吉本さんの老化についての書物が非常に参考になっていた。たいがいの人間の世界では(?)、または表現行為を業とする方々でも、高齢になればなるほど対社会的に沈黙するものである。それは幼いころから表現力を会得していた吉本さんならではのことであって、これには大変ありがたかった。
 世間的に活躍した人ほど、晩年は病気に伏したり、痴呆状態におちいり近況は無音になるものらしいが、このことはなんだか人物的にすばらしいことのように思える。若い時の心境は誰でも書けるが、なかなか老境を語れる人は少ない。書き残す人はいない。

 わたしの人生の中でも吉本隆明さんを実際に見たのはいつのことだろう。その当時、わたしは働きながら学ぶ意気揚々とした 「勤労青年」 であった。自分なりの生き方を探していて、挙げ句に世の社会問題という社会問題をいっぱい頭の中に詰め込んでいた。そんな問題意識ばかり豊富な田舎出の若者であった。そして、名利や出世など世俗的なものを嫌う若者であった。
 ・・・もっとも、その後、世の中を(自分の頭と)自分の足で歩く難しさゆえに、それから右往左往の生き方が延々とはじまったのであるが・・・・・。
  大学を中退し新聞販売店でアルバイトしていて20代初め、毛沢東が主導する中国の文化大革命のころか、昭和40年代後半、都内の○○会館で日本現代詩人会でのH氏賞授賞式の会場講演を聴きに行った時か。(調べると、1971 年 第21回 白石かずこさんが受賞の模様である。)
 壇上では40代の吉本さんが町工場の仕事帰りに寄ったという雰囲気で、武骨そのものの言葉で話していた。半袖のカッターシャツとズボンで痩せぎすの体躯、顔は容貌魁偉そのもの、あえて言うと、実直そのもので男性的魅力にあふれている。話の中身は過激であって、先鋭的なもの。わたし個人の心境としては、どうやら、アジられてもいたらしい。
 わたしには、パラダイムというか、その時代の核心に触れている思いが強かった。時代への臨場感。おもわず‘警察権力’がその会場にいないか、ひとり合点しつつ周りを警戒しながら聴き入る。

 《場合により書き継ぎます。》
          
 
コメント
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