送別会の翌日、別れを惜しみ、揚子江を下った。
私は曳船に乗り数日後に上海に着いたが、早速、大型船の甲板に海上グレーンで吊り上げられて積まれた。
そして、四日目には、早懐かしの広島の宇品港に入港したのである。
そして、宇品に入港すると、目の前にある似島で検疫を終え、宇品の運輸部に復帰した。
転用軍属として、引き続き所属することになっていたのである。
当時の日本軍の行動は、全く知る由もなかったが、中国大陸でも陸軍部隊の移動が秘密裏に行われていた頃である。
既に、風雲急を告げ一触即発の時で、非常事態に至り、まさに真珠湾攻撃直前の太平洋戦争前夜とも言える時代だったのである。
広島は、古く日清、日露戦争の時代から大本営が置かれ、日本軍の玄関口としての役割を果たしてきた。
それ故、多くの軍人達が指揮を執り行ってきた処であり、広島の宇品港は、日本中から多くの兵隊や物資を戦地に送り出していた。
特に、陸軍の移動拠点であり、太平洋戦争でも先端基地として重要な港であった。
その宇品にいて、帰国早々早くも私達軍属にも何処かに移動するであろうという噂があったのである。
私は曳船に乗り数日後に上海に着いたが、早速、大型船の甲板に海上グレーンで吊り上げられて積まれた。
そして、四日目には、早懐かしの広島の宇品港に入港したのである。
そして、宇品に入港すると、目の前にある似島で検疫を終え、宇品の運輸部に復帰した。
転用軍属として、引き続き所属することになっていたのである。
当時の日本軍の行動は、全く知る由もなかったが、中国大陸でも陸軍部隊の移動が秘密裏に行われていた頃である。
既に、風雲急を告げ一触即発の時で、非常事態に至り、まさに真珠湾攻撃直前の太平洋戦争前夜とも言える時代だったのである。
広島は、古く日清、日露戦争の時代から大本営が置かれ、日本軍の玄関口としての役割を果たしてきた。
それ故、多くの軍人達が指揮を執り行ってきた処であり、広島の宇品港は、日本中から多くの兵隊や物資を戦地に送り出していた。
特に、陸軍の移動拠点であり、太平洋戦争でも先端基地として重要な港であった。
その宇品にいて、帰国早々早くも私達軍属にも何処かに移動するであろうという噂があったのである。