いよいよ、宇品港からの移動となった。
初めは行き先を明らかにせず、南支の広東とかと聞いていたが、台湾の高雄に行く事になり、乗船する船名も決まっていた。
大阪商船の佐倉丸で通称「サ型」と言って佐渡丸、讃岐丸、相模丸、佐賀丸・・他に何隻もあったが、当時の新型貨物船で20ノット以上の速力があり、その頃では優秀な貨物船だった。
当時、大阪商船の大の字マークは有名だったが、黒く塗られていた。
私達軍属隊は約50名で編成されていて、停泊部隊の分隊であったが、私達が乗船した佐倉丸には他の兵隊も多く乗船していた。
数日後、台湾の高雄港に入港して、その日に下船となったのである。
そして、トラックに乗せられて、着いた所は、とある小学校だった。
そこで当分滞在したのである。
しかし、その後の事は一切分からずに、ただ待機という他に何も知らされないまま、何事もなく毎日を過ごしたのである。
そんな退屈な日々が当分続いて、早く行き先が決まればよいと思っていた。
それから、しばらく過ぎたある日、広東方面に行くと聞いたが、行く先も何も分からないままに、その夜のうちに全員乗船して、翌早朝に高雄を出港した。
一昼夜ぐらい航走して、何処かに停泊したように思ったが、上陸の気配は全くなく、詳しい事は何も知らされず、船内にて二日間ほど待機して待った。
そして、再び行く先が変更になったのである。
此処まで来て、また、宇品に引き返すと聞いたのである。
いかに、軍の作戦と云えども、無駄な事をするものと思った。
そんな日々の折り、あの昭和十六年十二月八日を迎えたのである。
日本海軍が、ハワイの真珠湾攻撃を行ったのを機に、アメリカ、英国に宣戦布告を遂に発したのである。
戦争となる事は、既に予期した事であって、宇品港では慌しさも増して、軍人、軍属の移動も目立っていた。
日本全国が、一致団結して、非常事態にあたり戦争に備えていたのであった。
初めは行き先を明らかにせず、南支の広東とかと聞いていたが、台湾の高雄に行く事になり、乗船する船名も決まっていた。
大阪商船の佐倉丸で通称「サ型」と言って佐渡丸、讃岐丸、相模丸、佐賀丸・・他に何隻もあったが、当時の新型貨物船で20ノット以上の速力があり、その頃では優秀な貨物船だった。
当時、大阪商船の大の字マークは有名だったが、黒く塗られていた。
私達軍属隊は約50名で編成されていて、停泊部隊の分隊であったが、私達が乗船した佐倉丸には他の兵隊も多く乗船していた。
数日後、台湾の高雄港に入港して、その日に下船となったのである。
そして、トラックに乗せられて、着いた所は、とある小学校だった。
そこで当分滞在したのである。
しかし、その後の事は一切分からずに、ただ待機という他に何も知らされないまま、何事もなく毎日を過ごしたのである。
そんな退屈な日々が当分続いて、早く行き先が決まればよいと思っていた。
それから、しばらく過ぎたある日、広東方面に行くと聞いたが、行く先も何も分からないままに、その夜のうちに全員乗船して、翌早朝に高雄を出港した。
一昼夜ぐらい航走して、何処かに停泊したように思ったが、上陸の気配は全くなく、詳しい事は何も知らされず、船内にて二日間ほど待機して待った。
そして、再び行く先が変更になったのである。
此処まで来て、また、宇品に引き返すと聞いたのである。
いかに、軍の作戦と云えども、無駄な事をするものと思った。
そんな日々の折り、あの昭和十六年十二月八日を迎えたのである。
日本海軍が、ハワイの真珠湾攻撃を行ったのを機に、アメリカ、英国に宣戦布告を遂に発したのである。
戦争となる事は、既に予期した事であって、宇品港では慌しさも増して、軍人、軍属の移動も目立っていた。
日本全国が、一致団結して、非常事態にあたり戦争に備えていたのであった。