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100% pure モノクロの故郷に、百彩の花が咲いて、朝に夕に、日に月に、涼やかな雨風が吹いて、彩り豊かな光景が甦る。

軍属時代 12 ~流行歌~

2010年06月02日 | 人生航海
その頃になると、中支方面では、いつしか落ち着いていたのか、揚子江流域では平穏が続いていた。

機帆船も安慶、蕪湖、南京、武漢三鎮までにも航行するようになっていたが、九江の配属機帆船も、いつのまにか減少して次第に何処かへ移動して、任務も終わったのかと思った。

が、実は木造船は、真水には案外弱く、船体の腐食が激しくなり、ドッグや造船所に入り修理をしていたのである。

その為、上海付近の造船所か、わざわざ内地まで帰って修理を行う船もあったので、船の数は減ったように思えたのである。

座礁した時、水牛に船を引かせたり、何とか難を逃れた事もあった懐かしい思い出もあった。

いつも揚子江の濁り水を見ながらの毎日だったが、番陽湖に行くと河の流れもゆるく、その為は、いつでもある程度水が澄んでいたので、ここに行くと必ず循環水をドラム缶に入れて入浴した。

それが、皆の楽しみだった。

また、支給される麦や乾燥食品が残るので、食料品も豊富にあった。

農民が卵や野菜をジャンク舟に積んで来ては、何かと交換を求めてきた。

よく物々交換をしたものだが、時には一斗缶に一杯の鶏卵と交換したりした。

そんなふうに歳月は流れて、揚子江にて既に二年が過ぎる頃になると、船員や工員に移動の噂が出始めた。

何隻かが何処かに配属替えになる噂や若い船員には、陸上で工員を募っている話もあった。

近いうちに移動する噂もあった。

しかし、停泊場からの別命がない限りは、待機している他にすることはなく、上陸して街に出て、日本人の食堂で食事したり、レコード等などの買い物をしていた。

その当時の流行歌は、「支那の夜」とか「蘇州夜曲」、そして「人生の並木道」も流行していた。