百島百話 メルヘンと禅 百会倶楽部 百々物語

100% pure モノクロの故郷に、百彩の花が咲いて、朝に夕に、日に月に、涼やかな雨風が吹いて、彩り豊かな光景が甦る。

南洋編 7 ~スラバヤでの日々~

2010年06月28日 | 人生航海
当時から、スラバヤは国際貿易港であり、ジャワ島では、第二の立派な貿易港でもあった。

(現代のスラバヤは、インドネシア最大の貿易港でもあり、最大軍事港でもある。)

港の前にマズラ島があり、天然の良港でもある。スラバヤの門港であるタンジョンペラと市街地を結ぶ大きな広い幹線道路が通っていた。

(因みに、当時のインドネシアの首都はバタビアと呼ばれて、現在のジャカルタであり、門港は、タンジョンプリオクと言った。)

我々停泊場部隊の主な業務は、スラバヤ港に出入港する船舶に関する管理であった。

また中継地として糧抹、衣服、弾薬、医薬品、嗜好品等々までを扱い、その他にも給油、給水等々・・船舶関係の総ての積荷に関する管理業務でもあった。

私の居た信号所は、港内が一望できる中央埠頭突堤の本部建物の屋上にある立派な櫓(やぐら)であった。

この階下には、停泊場の事務所があって、武市軍曹を長に、他に港湾係の兵隊が二人常駐していた。

此処での私の初めての仕事は、港内の見張りと船舶との連絡で、時には高速艇で各船舶を廻り、命令書を渡すこともあった。

船団が入港する時は、港の入り口まで高速艇で急行して、停泊位置を指示・誘導もして忙しい時もあった。

つまりは、出入港船の動静管理が、私の信号員としての主業務であったのである。

スラバヤに到着早々に「私が、何故信号員に選ばれたのか?」と不思議に思った。

武市軍曹に訊くと、「他に適任者がいないからだ」と言われた。

広島の宇品では、各軍属関係者の特技等の総てが詳細に報告されているとの事。

私の場合も、手旗信号が特技である事も、勿論事務員としての登録もあって、総てが本部からの書類履歴に記載されているとの事だった。

あの時、宇品で多勢の中から三人が事務員として採用された事が、私の運勢を変えて幸運を与えてくれたのかと思った。

それとも、亡き両親や祖父母のご加護なのか、それ以後、いつでもどこに在っても、私を見守ってくれていると信じたのである。

「親の恩は、山より高く、海より深し」と言う。

この箴言は、誠に尊いものだと・・私は、いつまでも思うのである。

十八歳の春、私にとってのスラバヤでの日々は、とても幸せな日々だった。