夜に入り、高雄港の岸壁に接岸中の輸送船に全員が乗船を終えた。
船内は、多くの物質と人員で身動きも出来ぬほどであった。
船倉内は、三段作りで千人以上の兵隊が乗れると言う事だった。
そして、夜が明けぬうちに台湾高雄を出港して、フィリッピンのルソン島のリンガエン湾に向かったのである。
リンガエン湾に到着後、約50数隻の大船団を組むことになったのである。
数日後には、日本海軍の巡洋艦、駆逐艦、駆潜艇等の十数隻の艦船に護衛されて、フィリッピンのリンガエン湾から南方に向けたのである。
いわゆる、ジャワ島上陸作戦の開始となったのである。
主力部隊は台湾第四十八師団であったが、勿論他の部隊も多く参加した事は言うまでもなく当然の事だった。
船団の隊列は、二列縦隊で航進して、約500メートルぐらいの間隔を保ち、左右前後に護衛艦の守られていた。
悠々と航進を続ける大型輸送船団の威風堂々たる光景は、まさに壮観であり、日本国の威力の象徴だった。
既に制海権は我が方にあったので、時折高度で飛んで来る敵方の偵察機が気になるぐらいで、それほど怖いとは思っては無かった。
むしろ目に見えない潜水艦からの攻撃が不安だったのである。
船団の速力は、約10ノットを保ち、ジャワ島を目指して一路南下を続けた。
航進中のある朝・・船倉の底に兵隊が落ちて死んでいると、皆大騒ぎになった痛ましい事故があった。
所属の隊長と船長の指示により、遺体は水葬の儀に付されたのである。
初めて観る水葬式であった。
誰も悲しい別れの出来事で、遺体は日章旗に包まれて船尾から静かに海に降ろした。
見送る人々は全員合掌すると、長声一発汽笛を吹奏して見送ったが、悲しい別れであった。
他船も無線で知ったのか、遠くから寂しく汽笛の音が聞こえてきた。
遠洋航路での水葬の話はよく聞いていたが、私は、この時初めて水葬の儀に立ち会ったのである。
船内は、多くの物質と人員で身動きも出来ぬほどであった。
船倉内は、三段作りで千人以上の兵隊が乗れると言う事だった。
そして、夜が明けぬうちに台湾高雄を出港して、フィリッピンのルソン島のリンガエン湾に向かったのである。
リンガエン湾に到着後、約50数隻の大船団を組むことになったのである。
数日後には、日本海軍の巡洋艦、駆逐艦、駆潜艇等の十数隻の艦船に護衛されて、フィリッピンのリンガエン湾から南方に向けたのである。
いわゆる、ジャワ島上陸作戦の開始となったのである。
主力部隊は台湾第四十八師団であったが、勿論他の部隊も多く参加した事は言うまでもなく当然の事だった。
船団の隊列は、二列縦隊で航進して、約500メートルぐらいの間隔を保ち、左右前後に護衛艦の守られていた。
悠々と航進を続ける大型輸送船団の威風堂々たる光景は、まさに壮観であり、日本国の威力の象徴だった。
既に制海権は我が方にあったので、時折高度で飛んで来る敵方の偵察機が気になるぐらいで、それほど怖いとは思っては無かった。
むしろ目に見えない潜水艦からの攻撃が不安だったのである。
船団の速力は、約10ノットを保ち、ジャワ島を目指して一路南下を続けた。
航進中のある朝・・船倉の底に兵隊が落ちて死んでいると、皆大騒ぎになった痛ましい事故があった。
所属の隊長と船長の指示により、遺体は水葬の儀に付されたのである。
初めて観る水葬式であった。
誰も悲しい別れの出来事で、遺体は日章旗に包まれて船尾から静かに海に降ろした。
見送る人々は全員合掌すると、長声一発汽笛を吹奏して見送ったが、悲しい別れであった。
他船も無線で知ったのか、遠くから寂しく汽笛の音が聞こえてきた。
遠洋航路での水葬の話はよく聞いていたが、私は、この時初めて水葬の儀に立ち会ったのである。