乗船する船は、200屯足らずの機帆船だった。
船名は、灘吉丸と云って、和歌山県の江住という港町のものであった。
その灘吉丸を、野村東印度殖産が購入して、南方のボルネオに回航するのである。
その契約を大阪の代理店で行う事になっていた。
そして、数日後、大阪の三軒家にある代理店の事務所で正式な契約が行われた。
戦時中の危険な時なので、給料は普通の船員よりも三倍位多く、そのうえ契約金と支度金も出て驚くほどだった。
他に、会社の女子事務員が、丁寧に一人一人の前に来て、お盆の上に、百円札を三枚(三百円)をのせて支給してくれた。
こうして、会社との契約は全て終えて、次に、大阪海運局で雇入公認も済ませた。
翌日には、神戸に回航して、皆が家族をよんで、暫しの別れを惜しんだ。
折り良く、中支の戦線から満期になって帰ってきた私の兄が、私が南方に再び行く事を知り、突然、久しぶりに会いに来た。
支度金や給料の前払いを貰ったばかりで、どうせ送金しようと思ったので、兄に二百円を渡して祖父母や兄弟達、あとの事を頼むと云って別れた。
その後、兄は、百島に帰ったと思っていたのに、そうではなかった。
後で聞いた話では、兄は、当分の間、家には帰らず、持ち前の性分で、思わぬ金が手に入って、棚からボタ餅気分で、神戸から大阪、京都と遊び廻り、家族の為に託したお金を殆ど使い果たしたらしい。
しかし、何故か、兄の事は憎み切れなかった。
兄は、生まれながらの遊び性とは言え、その後、兄は祖父母や兄弟達の面倒を見ねばならず、だから私も安心して南方に行けたと・・そんなふうに思い、兄のした事を許していたのかも知れない。
翌朝、私達の灘吉丸は、神戸を出港して、北九州の戸畑港に向かった。
戸畑にて、燃料や食料等を積んで、私は、民間人として、再び南方に向かう事になったのである。
船名は、灘吉丸と云って、和歌山県の江住という港町のものであった。
その灘吉丸を、野村東印度殖産が購入して、南方のボルネオに回航するのである。
その契約を大阪の代理店で行う事になっていた。
そして、数日後、大阪の三軒家にある代理店の事務所で正式な契約が行われた。
戦時中の危険な時なので、給料は普通の船員よりも三倍位多く、そのうえ契約金と支度金も出て驚くほどだった。
他に、会社の女子事務員が、丁寧に一人一人の前に来て、お盆の上に、百円札を三枚(三百円)をのせて支給してくれた。
こうして、会社との契約は全て終えて、次に、大阪海運局で雇入公認も済ませた。
翌日には、神戸に回航して、皆が家族をよんで、暫しの別れを惜しんだ。
折り良く、中支の戦線から満期になって帰ってきた私の兄が、私が南方に再び行く事を知り、突然、久しぶりに会いに来た。
支度金や給料の前払いを貰ったばかりで、どうせ送金しようと思ったので、兄に二百円を渡して祖父母や兄弟達、あとの事を頼むと云って別れた。
その後、兄は、百島に帰ったと思っていたのに、そうではなかった。
後で聞いた話では、兄は、当分の間、家には帰らず、持ち前の性分で、思わぬ金が手に入って、棚からボタ餅気分で、神戸から大阪、京都と遊び廻り、家族の為に託したお金を殆ど使い果たしたらしい。
しかし、何故か、兄の事は憎み切れなかった。
兄は、生まれながらの遊び性とは言え、その後、兄は祖父母や兄弟達の面倒を見ねばならず、だから私も安心して南方に行けたと・・そんなふうに思い、兄のした事を許していたのかも知れない。
翌朝、私達の灘吉丸は、神戸を出港して、北九州の戸畑港に向かった。
戸畑にて、燃料や食料等を積んで、私は、民間人として、再び南方に向かう事になったのである。