ふくい、Tokyo、ヒロシマ、百島物語

100% pure モノクロの故郷に、百彩の花が咲いて、朝に夕に、日に月に、涼やかな雨風が吹いて、彩り豊かな光景が甦る。

再度南方へ 3 ~民間人として~

2010年08月02日 | 人生航海
乗船する船は、200屯足らずの機帆船だった。

船名は、灘吉丸と云って、和歌山県の江住という港町のものであった。

その灘吉丸を、野村東印度殖産が購入して、南方のボルネオに回航するのである。

その契約を大阪の代理店で行う事になっていた。

そして、数日後、大阪の三軒家にある代理店の事務所で正式な契約が行われた。

戦時中の危険な時なので、給料は普通の船員よりも三倍位多く、そのうえ契約金と支度金も出て驚くほどだった。

他に、会社の女子事務員が、丁寧に一人一人の前に来て、お盆の上に、百円札を三枚(三百円)をのせて支給してくれた。

こうして、会社との契約は全て終えて、次に、大阪海運局で雇入公認も済ませた。

翌日には、神戸に回航して、皆が家族をよんで、暫しの別れを惜しんだ。

折り良く、中支の戦線から満期になって帰ってきた私の兄が、私が南方に再び行く事を知り、突然、久しぶりに会いに来た。

支度金や給料の前払いを貰ったばかりで、どうせ送金しようと思ったので、兄に二百円を渡して祖父母や兄弟達、あとの事を頼むと云って別れた。

その後、兄は、百島に帰ったと思っていたのに、そうではなかった。

後で聞いた話では、兄は、当分の間、家には帰らず、持ち前の性分で、思わぬ金が手に入って、棚からボタ餅気分で、神戸から大阪、京都と遊び廻り、家族の為に託したお金を殆ど使い果たしたらしい。

しかし、何故か、兄の事は憎み切れなかった。

兄は、生まれながらの遊び性とは言え、その後、兄は祖父母や兄弟達の面倒を見ねばならず、だから私も安心して南方に行けたと・・そんなふうに思い、兄のした事を許していたのかも知れない。

翌朝、私達の灘吉丸は、神戸を出港して、北九州の戸畑港に向かった。

戸畑にて、燃料や食料等を積んで、私は、民間人として、再び南方に向かう事になったのである。