まだ、社会に出たばかりの20代の頃、選んだ仕事は、ジャーナリズムの旗の下、マスコミという出版界の企業組織の末端に身を置くものだった。
当時、仕事柄、さまざまな世界を覗く機会も得たが、個人的には、東友会(東京都原爆被害者団体協議会)の行事にも参加していた。
被爆者の会員の多くは、教員の方が多かった。
つまり、政治、イデオロギーが、平和運動の軸になるのである。
或る時、会合で、そのような趣旨批判をした時に、弁達者の方々から吊るし上げのような口撃を受けた思い出がある。
1945年(昭和20年)8月6日・・あの日、あの時、母は、ヒロシマに居た。
地獄絵図の世界に踏み入れた母は、被爆者になったが、幸運にも生きながえることができた。
そして、あの日に、一瞬にして踏みにじられた数えきれない消えた命の嘆き、声にならない命の響きに黙祷。
そして今、ただただ黙祷の鼓動が、平和への祈りとなり、イデオロギーを超えて、世界の核兵器廃絶が実現となることを願います。合掌。
当時、仕事柄、さまざまな世界を覗く機会も得たが、個人的には、東友会(東京都原爆被害者団体協議会)の行事にも参加していた。
被爆者の会員の多くは、教員の方が多かった。
つまり、政治、イデオロギーが、平和運動の軸になるのである。
或る時、会合で、そのような趣旨批判をした時に、弁達者の方々から吊るし上げのような口撃を受けた思い出がある。
1945年(昭和20年)8月6日・・あの日、あの時、母は、ヒロシマに居た。
地獄絵図の世界に踏み入れた母は、被爆者になったが、幸運にも生きながえることができた。
そして、あの日に、一瞬にして踏みにじられた数えきれない消えた命の嘆き、声にならない命の響きに黙祷。
そして今、ただただ黙祷の鼓動が、平和への祈りとなり、イデオロギーを超えて、世界の核兵器廃絶が実現となることを願います。合掌。