ふくい、Tokyo、ヒロシマ、百島物語

100% pure モノクロの故郷に、百彩の花が咲いて、朝に夕に、日に月に、涼やかな雨風が吹いて、彩り豊かな光景が甦る。

黙祷

2010年08月06日 | 千伝。
まだ、社会に出たばかりの20代の頃、選んだ仕事は、ジャーナリズムの旗の下、マスコミという出版界の企業組織の末端に身を置くものだった。

当時、仕事柄、さまざまな世界を覗く機会も得たが、個人的には、東友会(東京都原爆被害者団体協議会)の行事にも参加していた。

被爆者の会員の多くは、教員の方が多かった。

つまり、政治、イデオロギーが、平和運動の軸になるのである。

或る時、会合で、そのような趣旨批判をした時に、弁達者の方々から吊るし上げのような口撃を受けた思い出がある。

1945年(昭和20年)8月6日・・あの日、あの時、母は、ヒロシマに居た。

地獄絵図の世界に踏み入れた母は、被爆者になったが、幸運にも生きながえることができた。

そして、あの日に、一瞬にして踏みにじられた数えきれない消えた命の嘆き、声にならない命の響きに黙祷。

そして今、ただただ黙祷の鼓動が、平和への祈りとなり、イデオロギーを超えて、世界の核兵器廃絶が実現となることを願います。合掌。

ボルネオ編 3 ~バリックパパン~

2010年08月06日 | 人生航海
バンジェルマシンに到着後、私達船員の待遇は予想外によく、皆は来て良かったと喜んだ。

しかも、私達乗組員全員に、衣類他多くの品物が支給されて驚いた。

その時は、民間人だったので、軍隊とは、こんなに差があるのかと思ったものである。

これが、至り尽くせりの待遇というものかと思ったである。

そして、灘吉丸も見事に改装されて、見違えるほどに綺麗な船に出来上がったのである。

軍属時代にマレー語は、少しぐらい話せるようになっていたので、その点は便利だった。

だが、会社の人が言うのには、「ここでは、日本人は威厳を持ってふるまうように。たとえ自分の手が届くものでも、使用人に命じるように」との事だった。

戦争とは、惨めなものであり、ここまで人間性まで変えるものかと思うと、何だか気が引けた。

今だから、言える事かもしれないが、その後、戦争殺人に加担した私も、日本人の一人として反省しなければならないのは当然だろう。

そして、一段落して、現地人の船員を四人増やして、いよいよ、ボルネオ島東部に位置するバリックパパンに向けて、出港する事になった。

バリックパパンの港は、軍事的にも重要な港であり、石油の生産地で積出港であった。

そこでも、大変な歓迎を受けた。

その後は、このバリックパパンの港が、我々、灘吉丸の主な積み出し基地となっていた。