戸畑港には、数日間いたが、そこで食品類や個人の私物等を買って出港した。
次に、唐津、長崎、枕崎と寄港したが、荒天のため回復を待った。
そこで、4~5日避難したあと、幸いに海上は穏やかであり、次の寄港地は、沖縄の那覇港だった。
那覇港は、皆初めてで珍しかった。
また2~3日滞在して、方々をゆっくり見学して出港した。
そして、次は、台湾の高雄港である。
私にとって、陸軍の軍属時代に高雄には二度行ったことがあり、懐かしかった。
高雄では、日本の最後の港だったので、航海に必要な物は総て積んで、船員も私物を買い込んで、長期の航海に備えた。
当時は、戦時中の事でもあって、目的地に到着するまでは、海軍関係の指示に従って運航しなければならなかった。
燃料や食料品等の補給も受けながら、航海を続けるように決められていたのである。
その後は、ルソン島に渡り、東部を南下して、ボルネオの東側からバンジェルマシンに入る予定であった。
が、思わぬ悪天候の大時化に遭遇した。
予定通りにはいかず、大変な事態に陥ったのである。
乗組員全員は、必死の覚悟で航海を続けねばならなかった。
針路の事を考える余裕もなかった。
ただ、風波の事のみ思いながら、風波を背にして、大嵐の中を航海を続ける他はなかったのである。
次に、唐津、長崎、枕崎と寄港したが、荒天のため回復を待った。
そこで、4~5日避難したあと、幸いに海上は穏やかであり、次の寄港地は、沖縄の那覇港だった。
那覇港は、皆初めてで珍しかった。
また2~3日滞在して、方々をゆっくり見学して出港した。
そして、次は、台湾の高雄港である。
私にとって、陸軍の軍属時代に高雄には二度行ったことがあり、懐かしかった。
高雄では、日本の最後の港だったので、航海に必要な物は総て積んで、船員も私物を買い込んで、長期の航海に備えた。
当時は、戦時中の事でもあって、目的地に到着するまでは、海軍関係の指示に従って運航しなければならなかった。
燃料や食料品等の補給も受けながら、航海を続けるように決められていたのである。
その後は、ルソン島に渡り、東部を南下して、ボルネオの東側からバンジェルマシンに入る予定であった。
が、思わぬ悪天候の大時化に遭遇した。
予定通りにはいかず、大変な事態に陥ったのである。
乗組員全員は、必死の覚悟で航海を続けねばならなかった。
針路の事を考える余裕もなかった。
ただ、風波の事のみ思いながら、風波を背にして、大嵐の中を航海を続ける他はなかったのである。