ふくい、Tokyo、ヒロシマ、百島物語

100% pure モノクロの故郷に、百彩の花が咲いて、朝に夕に、日に月に、涼やかな雨風が吹いて、彩り豊かな光景が甦る。

初年兵時代 1 ~入隊時~

2010年08月13日 | 人生航海
船舶工兵第十連隊本部の第二中隊が、正式な配属先名である。

部隊長は、陸軍中佐横尾紋太郎、中隊長は岡本良春中尉、小隊長はクチン以来の教官でもあった三宅少尉で幹部候補出の若い将校であった。

入隊日は、中隊から盛大な歓迎を受けて、軍隊とは思えないほどの親切さであった。

班長や教育兵からも色々と優しく教えられて、その日は、赤飯と頭付きの魚で祝ってくれたのである。

その晩は、初年兵の名簿を見て知ったのか、下士官や古年兵からの呼び出しもあった。

何の用事かと思い、大声で「班長殿に言われて参りました・・・・」と言って何人かの下士官を訪ねた。

「お前は百島の生まれか。俺は福山だから今後何かあった時には、心配せず俺に言って来い。悪いようにはしないから」と云い、「三班には沼隈の武田班長もいるから、今度会いに行って来い」とも云って呉れた。

他にも何人かの上司にも呼ばれたが、皆からも同じ様な事を聞いたのである。

その晩は、早く休ませてくれた。

翌日、教育班長の井上文七軍曹から、入隊時に持っていた貴重品は、全て預けるようにとの通達があった。

私も、自分の腕時計や野戦郵便貯金の通帳等を預けることになったのである。

あの時、班長が、私の通帳の預金高を見て、ひどく驚いたのである。

「お前には、何故こんなにお金があるのか? 部隊の将校でも、これ程の貯金はない」と言われて、説明するのに困った。

「私は、入隊前の会社でダイヤモンドを持っていたのですが、入隊して持っていても仕方ないので、売却して貯金したのです」と云った。

その為、貯金が三千円以上になったと、入隊前の事情を説明したのである。

ボルネオ編 11 ~初年兵~

2010年08月13日 | 人生航海
まもなく入隊日も決まり、愈々バリックパパンを出発する際には、会社関係者、船長、船員の皆に見送られて、軍人として、永の別れを告げて、前線に向かったのである。

日本軍人としての誇りを持って、国の為とか陛下の為とか云って、皆が表向きは、喜び勇んで出征して行ったのである。

それまでは、民間人として自由に過ごしていたが、それからの先の軍隊の厳しさは、誰もが知る処でもある。

覚悟は出来ている積もりでも、本心は、不安だった。

現地入隊者は、バリックパパン地域の方面から約30名ぐらいいたと思う。

客船で、ボルネオ島西部の赤道直下のポンチャナに一旦上陸して、そこでまた多くの現地入隊者が集まった。

そこで改めて、配属先と部隊名も決まった。

私たち初年兵が配属された班部隊は18名だったが、内17名が、大学卒や中卒又は専門学校卒であって、私のみが、小学校卒であった。

その為か、教官は、その班を幹部候補生班として訓練と教育を行うとした。

教官は、「君一人資格は無いが、決して差別しないから。皆と一緒に頑張れ」と私に言ってくれた。

初年兵への訓練と教育は、想像もつかぬ程に厳しかった。

そんな厳しい日々を辛抱して、まもなく当時の昭南島(シンガポール)に渡ったのである。

そうして、ジョホール駅から汽車に乗り換えて、マレーシアの現在の首都クアランプール駅に着いた。

愈々本隊の部隊があるポートセッテンハムにある本隊の第二中隊に配属されることになった。