ふくい、Tokyo、ヒロシマ、百島物語

100% pure モノクロの故郷に、百彩の花が咲いて、朝に夕に、日に月に、涼やかな雨風が吹いて、彩り豊かな光景が甦る。

初年兵時代 3 ~昭南島(シンガポール)へ~

2010年08月14日 | 人生航海
一日中、朝から晩まで休む暇もなく、厳しい訓練と演習が続いた。

とりわけ辛かったのは、食事と睡眠である。

腹が減る事は、勿論であったが、その日がどうにか終わって、室内の整理整頓を済ませたあと、やっと就寝する時間がくる。

消灯ラッパを聞く暇もなく、疲れが一度に出るのか、ぐっすりと寝込んで、あとは何も判らなくなった。

その侭夜が明けずに、寝かせて欲しいと、いつも思ったが、他に何が辛いと言っても、腹が減った時のひもじさである。

睡魔や空腹以上の生命維持の飢餓状態の辛さは、経験した者でないと分からないであろう。

たとえ、残飯や人の食い残しであっても、人間は生きるため、ひもじさに勝てず、夕食後の食器洗い場での新兵たちは、恥も外聞もなく、手づかみで食缶の残飯を取り合うほどだったが、惨めだったと云う他なかった。

さて、船舶工兵隊と言っても、本来は工兵部隊であり、一通りの教練科目も完全教えられた他に、塹壕掘りや高所での結束等、一応実地訓練も行われた。

このような厳しい訓練と演習が、炎天下の暑さの中で繰り返されたのである。

さらに突撃演習や実弾射撃も行われたあと、強行軍等の過酷な訓練を終えて、そのうちに一期、二期の検閲を終わる事が出来たのである。

そして、二つ星の一等兵に昇進した。

しかし、その年は、既に昭和20年に入り、時期が時期だけに、すぐに各方面へと出向命令が下った。

私は、特殊艇の乗組員として、昭南島(シンガポール)の船舶工作部に配属となり、そこで特攻艇の艤装を行う事になった。

艇長は、小田軍曹以下四人の乗組員であった。

艇長は、中隊の猛者であり、早稲田大学卒の知識も豊富な人格者のように思えた。

その為、皆に一目置かれていたらしかったのである。

初年兵時代 2 ~教育訓練演習~

2010年08月14日 | 人生航海
その後、「隣りの第一中隊に百島出身の赤松曹長殿がいるので、知っている人ならば直ぐに会いに行っても良い」と言ってくれたが、その時には、会いに行けなかった。

その人は、赤松伊勢夫さんで、その頃には兄嫁の兄さんであったのだが、その当時の私は、まだ何も知らなかった。

そうして、初年兵の教育が始まったが、入隊時の優しさとは打って変わって、毎日、厳しい日々が続くことになった。

我々クチンからの入隊者18名と少し遅れて入隊してきた初年兵30名の計48名を新規に教育班として構成されたのである。

第二中隊の初年兵の教育担当者は、今でもよく憶えている。

教官三宅少尉以下、班長井上文七軍曹、その補佐の巽兵長、溝辺上等兵、加藤上等兵の五名からなり、私達初年兵の教育係であった。

そして、愈々本格的に厳しい教訓を受ける事になる。

その後、私達のあとで入った初年兵には、沖縄の人達が多く、言葉に訛りがあり、話し難い点もあり、当分、その点で気を使ったものであった。

初年兵当時の教練の厳しさは、今更言うまでもないが、配属された船舶工兵は、特殊な部隊であった。

専門的な訓練も多く、普通の工兵とは違った。

大発艇・小発艇等の船舶の扱い方や機械の分解・組立まで習うので、当然、舟艇の操縦から取り扱いを全員が出来るようになるまで訓練が行われた。

その他に、船舶工兵の必須科目に手旗信号があって、毎朝の朝礼後には必ず訓練があったが、皆は苦手であった。

手旗信号は、自慢でもないが、私の得意であった。

軍属時代に、中支から南方においても、スラバヤやラバウルで、その仕事に従事していたので、教育班の中で誰よりも手旗信号は、一番上手であった。

その為、手旗の訓練は、私に任せられて、軍隊でも、特技は大事だと思ったものである。