一日中、朝から晩まで休む暇もなく、厳しい訓練と演習が続いた。
とりわけ辛かったのは、食事と睡眠である。
腹が減る事は、勿論であったが、その日がどうにか終わって、室内の整理整頓を済ませたあと、やっと就寝する時間がくる。
消灯ラッパを聞く暇もなく、疲れが一度に出るのか、ぐっすりと寝込んで、あとは何も判らなくなった。
その侭夜が明けずに、寝かせて欲しいと、いつも思ったが、他に何が辛いと言っても、腹が減った時のひもじさである。
睡魔や空腹以上の生命維持の飢餓状態の辛さは、経験した者でないと分からないであろう。
たとえ、残飯や人の食い残しであっても、人間は生きるため、ひもじさに勝てず、夕食後の食器洗い場での新兵たちは、恥も外聞もなく、手づかみで食缶の残飯を取り合うほどだったが、惨めだったと云う他なかった。
さて、船舶工兵隊と言っても、本来は工兵部隊であり、一通りの教練科目も完全教えられた他に、塹壕掘りや高所での結束等、一応実地訓練も行われた。
このような厳しい訓練と演習が、炎天下の暑さの中で繰り返されたのである。
さらに突撃演習や実弾射撃も行われたあと、強行軍等の過酷な訓練を終えて、そのうちに一期、二期の検閲を終わる事が出来たのである。
そして、二つ星の一等兵に昇進した。
しかし、その年は、既に昭和20年に入り、時期が時期だけに、すぐに各方面へと出向命令が下った。
私は、特殊艇の乗組員として、昭南島(シンガポール)の船舶工作部に配属となり、そこで特攻艇の艤装を行う事になった。
艇長は、小田軍曹以下四人の乗組員であった。
艇長は、中隊の猛者であり、早稲田大学卒の知識も豊富な人格者のように思えた。
その為、皆に一目置かれていたらしかったのである。
とりわけ辛かったのは、食事と睡眠である。
腹が減る事は、勿論であったが、その日がどうにか終わって、室内の整理整頓を済ませたあと、やっと就寝する時間がくる。
消灯ラッパを聞く暇もなく、疲れが一度に出るのか、ぐっすりと寝込んで、あとは何も判らなくなった。
その侭夜が明けずに、寝かせて欲しいと、いつも思ったが、他に何が辛いと言っても、腹が減った時のひもじさである。
睡魔や空腹以上の生命維持の飢餓状態の辛さは、経験した者でないと分からないであろう。
たとえ、残飯や人の食い残しであっても、人間は生きるため、ひもじさに勝てず、夕食後の食器洗い場での新兵たちは、恥も外聞もなく、手づかみで食缶の残飯を取り合うほどだったが、惨めだったと云う他なかった。
さて、船舶工兵隊と言っても、本来は工兵部隊であり、一通りの教練科目も完全教えられた他に、塹壕掘りや高所での結束等、一応実地訓練も行われた。
このような厳しい訓練と演習が、炎天下の暑さの中で繰り返されたのである。
さらに突撃演習や実弾射撃も行われたあと、強行軍等の過酷な訓練を終えて、そのうちに一期、二期の検閲を終わる事が出来たのである。
そして、二つ星の一等兵に昇進した。
しかし、その年は、既に昭和20年に入り、時期が時期だけに、すぐに各方面へと出向命令が下った。
私は、特殊艇の乗組員として、昭南島(シンガポール)の船舶工作部に配属となり、そこで特攻艇の艤装を行う事になった。
艇長は、小田軍曹以下四人の乗組員であった。
艇長は、中隊の猛者であり、早稲田大学卒の知識も豊富な人格者のように思えた。
その為、皆に一目置かれていたらしかったのである。