百島百話 メルヘンと禅 百会倶楽部 百々物語

100% pure モノクロの故郷に、百彩の花が咲いて、朝に夕に、日に月に、涼やかな雨風が吹いて、彩り豊かな光景が甦る。

北前船発祥の地。

2019年07月30日 | 百会倶楽部(日本「百」歴史探訪)

福井県の山間部に位置する南条町(現:南越前町)の花はす公園から、日本海の見える河野村(現:南越前町)まで出掛けて参りました。


かつての河野村は、北前船船主の館のある港としても名を馳せていたようです。


ここは、右近家の裏手高台にある洋館から日本海の眺望です。


その後の船主右近家は、財を成す豪商と発展して、現在の損保ジャパンを創立したことでも名を残しています。






向こう側に島影のように見えるのが、敦賀半島の先端部分で、裏手には、夢のエネルギーとなるはずだった高速増殖炉「もんじゅ」が坐しています。


昔々、大昔、京の都のある畿内と越の国(北陸)との山間部での物資の移動(大量輸送)は、とりわけ冬の豪雪時季は、不可能でした。


それを回避したのが、この河野と敦賀までの廻漕ルート。


理にかなったルートだったと頷けます。


さらに、敦賀より向こうの京の都までの輸送ルートは、琵琶湖の水運を利用したとのこと。


その実質的な運送業を担ったのが、のちに商売の手本を示すようになる近江の人々です。


のちに「近江商人」と呼ばれます。


その近江商人が、商いの旗手として、さらにルートを進化、延長させたのが、江戸時代のこと。


北海道から日本海をぐるりと周り瀬戸内海に入り、大坂までの「北前船航路」です。



尾道も、北前船の寄港地として、大きく発展しています。


因みに、以前にも書きましたが、この「河野」という地名は、伊予の国(愛媛県)の河野水軍(村上水軍の源流)が謂れとなっています。


村上水軍が活躍するのは室町時代末期、それ以前、瀬戸内海を制覇していたのは、河野水軍でした。


鎌倉幕府を倒したあと、室町幕府を樹立する足利尊氏と新田義貞は、対立します。


足利軍の追われた新田義貞は、越の国(現在の福井市)の地で討ち死にします。


その際、先兵として戦に連れて来られたのが、河野水軍の水兵だとのこと。


そして、その末裔たちが、この地から船を操る「船乗り」として、全国津々浦々まで「北前船」の舵を取るようになったのが始まりだとのこと。


そう考えると、北陸と瀬戸内海は、大昔から案外と交流が活発だったのかもしれません。


越前海岸沿いにある河野村は、山間部の南条町と合併して、現在、南越前町となりました。


南越前町が誇る、もうひとつが、南条町にある世界の130種類にも及ぶ蓮が饗宴する「花はす公園」です。




子供の頃、「れんこん」の糸を引くのが大嫌いで、全く食べられない子供でした。


それが、何の切っ掛けは憶えていませんが、今は「れんこん」は、大好きです。


「蓮の根」と書いて、「れんこん」ですよね。


蓮の花は、鑑賞用とは言え、「れんこん」のイメージは、全くありません。


「はすうどん」、「はすそば」です。




 うどん文化圏の海沿部、そば文化圏の山間部。


よい一日を満喫しました。


花火航路。

2019年07月30日 | 空木宝剣

夏の夜に 彩る平和 花火かな

江戸時代中期、浅野藩主の下で、東の両国、西の住吉(尾道)と称されたほどの花火大会が既に備後にあったとの事。(7月25日付け中国新聞)

(宇品港の花火)

夜空を震撼させる破裂音も、花火なら歓迎のたまや~かぎや~かな。

広島宇品港の花火10,000発に対して、尾道住吉さんの花火は13,000発。

経済力は、広島より尾道が近代までリードしていた名残である。

北前船がもたらした住吉花火。

余談。

昨日の決勝戦で広島商業に敗れた尾道高校。

44年前の秋、同じ敗戦を思い出した。