福井県の山間部に位置する南条町(現:南越前町)の花はす公園から、日本海の見える河野村(現:南越前町)まで出掛けて参りました。
かつての河野村は、北前船船主の館のある港としても名を馳せていたようです。
ここは、右近家の裏手高台にある洋館から日本海の眺望です。
その後の船主右近家は、財を成す豪商と発展して、現在の損保ジャパンを創立したことでも名を残しています。
向こう側に島影のように見えるのが、敦賀半島の先端部分で、裏手には、夢のエネルギーとなるはずだった高速増殖炉「もんじゅ」が坐しています。
昔々、大昔、京の都のある畿内と越の国(北陸)との山間部での物資の移動(大量輸送)は、とりわけ冬の豪雪時季は、不可能でした。
それを回避したのが、この河野と敦賀までの廻漕ルート。
理にかなったルートだったと頷けます。
さらに、敦賀より向こうの京の都までの輸送ルートは、琵琶湖の水運を利用したとのこと。
その実質的な運送業を担ったのが、のちに商売の手本を示すようになる近江の人々です。
のちに「近江商人」と呼ばれます。
その近江商人が、商いの旗手として、さらにルートを進化、延長させたのが、江戸時代のこと。
北海道から日本海をぐるりと周り瀬戸内海に入り、大坂までの「北前船航路」です。
尾道も、北前船の寄港地として、大きく発展しています。
因みに、以前にも書きましたが、この「河野」という地名は、伊予の国(愛媛県)の河野水軍(村上水軍の源流)が謂れとなっています。
村上水軍が活躍するのは室町時代末期、それ以前、瀬戸内海を制覇していたのは、河野水軍でした。
鎌倉幕府を倒したあと、室町幕府を樹立する足利尊氏と新田義貞は、対立します。
足利軍の追われた新田義貞は、越の国(現在の福井市)の地で討ち死にします。
その際、先兵として戦に連れて来られたのが、河野水軍の水兵だとのこと。
そして、その末裔たちが、この地から船を操る「船乗り」として、全国津々浦々まで「北前船」の舵を取るようになったのが始まりだとのこと。
そう考えると、北陸と瀬戸内海は、大昔から案外と交流が活発だったのかもしれません。
越前海岸沿いにある河野村は、山間部の南条町と合併して、現在、南越前町となりました。
南越前町が誇る、もうひとつが、南条町にある世界の130種類にも及ぶ蓮が饗宴する「花はす公園」です。
子供の頃、「れんこん」の糸を引くのが大嫌いで、全く食べられない子供でした。
それが、何の切っ掛けは憶えていませんが、今は「れんこん」は、大好きです。
「蓮の根」と書いて、「れんこん」ですよね。
蓮の花は、鑑賞用とは言え、「れんこん」のイメージは、全くありません。
「はすうどん」、「はすそば」です。
うどん文化圏の海沿部、そば文化圏の山間部。
よい一日を満喫しました。