★市民による市民のためのメディアを目指すJANJAに佐藤弘弥氏が野村監督について次のような記事を載せている。共感するところが多く紹介したい。(ネット虫)http://www.news.janjan.jp/culture/0910/0910282335/1.php
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野村克也伝説の誕生
今年のパ・リーグ、実に面白かった。その最大の功労者は、野村克也楽天監督(74)だ。球界では長老の年齢だが、その野球に対する情熱は、ますます熱くなっているのを感じる。
野村監督は、「ワシは野球以外趣味がない」という位の「野球狂い」の人だ。「狂う」位の思いがなければ、4年前、パ・リーグのお荷物球団でしかなかった「楽天球団」を、4年で優勝争いをする球団にまで押し上げることはできなかった。
彼は自らを「月見草」と呼び、一方野球エリート「長嶋茂雄」、「王貞治」(所謂「ON」)を「ひまわり」と表現して、違いを際立たせた。実に巧い表現だ。そして球界を盛り上げるために、ヒール役を平然とこなし、ON相手に憎まれ口を幾度も叩いた。しかし個人成績を、ONと比較して、三冠王やホームランなど、ONに負けない成績を残している。野村氏個人にしてみれば、人気球団「巨人」の中心選手が、日本を代表する選手と言われることに対する「負けるものか」という敵愾心(てきがいしん)こそが、彼をここまで支えてきたのだろう。
ヤクルトの監督時代(1989-1998)は、古田敦也捕手を徹底的に鍛えて、チームを日本一に幾度も導く常勝チームにした。多くの選手の能力を見抜いて、日ハム稲葉篤紀外野手(ヤクルト時代の愛弟子)や今年の楽天躍進のカギとなった田中将大投手を一流選手に育て上げた手腕は日本野球の歴史の中でも屈指のものだ。
また峠の過ぎた選手を生かす手腕は「野村再生工場」と呼ばれた。この手腕は、西武球団のプレーイングマネージャーだった時代(1976)、200勝投手の大投手江夏豊を押さえで使うことを納得させ、その年最多セーブを受賞した。後に江夏投手は「優勝請負人」と呼ばれるまでになった。
この4年の楽天球団躍進の原動力は、ベテラン山崎武司を四番として定着させ、その気にさせたことだろう。中日を離れた時には、引退近しと呼ばれた同選手を4番打者として使い切ったその手腕は、苦肉の策とは言え、他の監督ではなしえなかったことだ。
そしてともかく、野村監督は、2009年ペナントレースにおいて、4年前には、誰もが認めるお荷物球団楽天球団を、パ・リーグの優勝を争うまでのチームに仕上げた。これは凄いことだ。連日試合後のインタビューは「野村のぼやき」と言われ、勝っても負けてもお茶の間の野球ファンを楽しませた。
日ハムとのパ・リーグ決戦では惜しくも敗れたが、かつての弟子で日ハムの中心選手稲葉篤紀や日本一の投手ダルビッシュらは、現場の監督引退をする敵監督野村克也を、優勝を遂げたグランドの真ん中のマウンドで、胴上げをして、その球界への貢献を讃えた。野村克也監督の最後にインタビューが奮っていた。
曰く「人間は何を残すかで評価が決まる。人を残すのが一番。そういう意味では、少しは野球界に貢献できたのかなと思う」
この言葉と球界への長年の貢献により、まさに野村克也は球界の至宝というよりは、日本の野球文化が作り上げた伝説の人となった。
<追記 楽天球団とロッテ球団関係者への苦言>
少し、本記事の趣旨とは離れるが、パ・リーグの二球団経営者に言いたいことがある。ひとつは楽天球団だ。それは野村監督契約延長問題が、戦いの最中に洩れたこと。もうひとつは、ロッテ球団が、バレンタイン監督の契約延長をしない旨の発表を、開幕前に発表したことだ。ふたつとも球団経営のセオリーを外した大失敗である。
それはファンの気持ちや選手の気持ちを考えれば、すぐに分かることだ。人馬一体ではないが、監督と選手が、気持ちをひとつにして、140試合もの長丁場の一戦一戦を、それこそ必死で戦うからこそ、成績が積み上がって行くのだ。後にも先にも、ロッテ球団が、開幕前にこのような無礼な発表をすることは、バレンタイン監督への侮辱もあるが、ファンへの裏切り行為であった。案の定、ロッテ球団の不振は眼を覆うばかりだった。楽天球団の野村監督への仕打ちも、球団経営のセオリー無視であることを肝に銘じて、今後このような不手際がないようにしてもらいたい。
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野村克也伝説の誕生
今年のパ・リーグ、実に面白かった。その最大の功労者は、野村克也楽天監督(74)だ。球界では長老の年齢だが、その野球に対する情熱は、ますます熱くなっているのを感じる。
野村監督は、「ワシは野球以外趣味がない」という位の「野球狂い」の人だ。「狂う」位の思いがなければ、4年前、パ・リーグのお荷物球団でしかなかった「楽天球団」を、4年で優勝争いをする球団にまで押し上げることはできなかった。
彼は自らを「月見草」と呼び、一方野球エリート「長嶋茂雄」、「王貞治」(所謂「ON」)を「ひまわり」と表現して、違いを際立たせた。実に巧い表現だ。そして球界を盛り上げるために、ヒール役を平然とこなし、ON相手に憎まれ口を幾度も叩いた。しかし個人成績を、ONと比較して、三冠王やホームランなど、ONに負けない成績を残している。野村氏個人にしてみれば、人気球団「巨人」の中心選手が、日本を代表する選手と言われることに対する「負けるものか」という敵愾心(てきがいしん)こそが、彼をここまで支えてきたのだろう。
ヤクルトの監督時代(1989-1998)は、古田敦也捕手を徹底的に鍛えて、チームを日本一に幾度も導く常勝チームにした。多くの選手の能力を見抜いて、日ハム稲葉篤紀外野手(ヤクルト時代の愛弟子)や今年の楽天躍進のカギとなった田中将大投手を一流選手に育て上げた手腕は日本野球の歴史の中でも屈指のものだ。
また峠の過ぎた選手を生かす手腕は「野村再生工場」と呼ばれた。この手腕は、西武球団のプレーイングマネージャーだった時代(1976)、200勝投手の大投手江夏豊を押さえで使うことを納得させ、その年最多セーブを受賞した。後に江夏投手は「優勝請負人」と呼ばれるまでになった。
この4年の楽天球団躍進の原動力は、ベテラン山崎武司を四番として定着させ、その気にさせたことだろう。中日を離れた時には、引退近しと呼ばれた同選手を4番打者として使い切ったその手腕は、苦肉の策とは言え、他の監督ではなしえなかったことだ。
そしてともかく、野村監督は、2009年ペナントレースにおいて、4年前には、誰もが認めるお荷物球団楽天球団を、パ・リーグの優勝を争うまでのチームに仕上げた。これは凄いことだ。連日試合後のインタビューは「野村のぼやき」と言われ、勝っても負けてもお茶の間の野球ファンを楽しませた。
日ハムとのパ・リーグ決戦では惜しくも敗れたが、かつての弟子で日ハムの中心選手稲葉篤紀や日本一の投手ダルビッシュらは、現場の監督引退をする敵監督野村克也を、優勝を遂げたグランドの真ん中のマウンドで、胴上げをして、その球界への貢献を讃えた。野村克也監督の最後にインタビューが奮っていた。
曰く「人間は何を残すかで評価が決まる。人を残すのが一番。そういう意味では、少しは野球界に貢献できたのかなと思う」
この言葉と球界への長年の貢献により、まさに野村克也は球界の至宝というよりは、日本の野球文化が作り上げた伝説の人となった。
<追記 楽天球団とロッテ球団関係者への苦言>
少し、本記事の趣旨とは離れるが、パ・リーグの二球団経営者に言いたいことがある。ひとつは楽天球団だ。それは野村監督契約延長問題が、戦いの最中に洩れたこと。もうひとつは、ロッテ球団が、バレンタイン監督の契約延長をしない旨の発表を、開幕前に発表したことだ。ふたつとも球団経営のセオリーを外した大失敗である。
それはファンの気持ちや選手の気持ちを考えれば、すぐに分かることだ。人馬一体ではないが、監督と選手が、気持ちをひとつにして、140試合もの長丁場の一戦一戦を、それこそ必死で戦うからこそ、成績が積み上がって行くのだ。後にも先にも、ロッテ球団が、開幕前にこのような無礼な発表をすることは、バレンタイン監督への侮辱もあるが、ファンへの裏切り行為であった。案の定、ロッテ球団の不振は眼を覆うばかりだった。楽天球団の野村監督への仕打ちも、球団経営のセオリー無視であることを肝に銘じて、今後このような不手際がないようにしてもらいたい。