九条バトル !! (憲法問題のみならず、人間的なテーマならなんでも大歓迎!!)

憲法論議はいよいよ本番に。自由な掲示板です。憲法問題以外でも、人間的な話題なら何でも大歓迎。是非ひと言 !!!

10月30日のつぶやき

2009年10月30日 22時43分43秒 | Weblog
友達の母親が92歳で死んだ。スゴイ人だったという。

母の事を思い返してみた。
余り思い出せない。
でも苦労と忍耐はしたとは思う。

早く死に過ぎたのかも知れない。
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 つまらない国会審議を少しでも面白く聞くために           天木直人のメールマガジン より

2009年10月30日 22時17分07秒 | Weblog
★その通りだと思います。つづきはhttp://www.amakiblog.com/blog/で(天木ファン)
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「あなた方に言われたくない」

 およそ国会審議の冒頭で、野党の代表質問にこう答える総理答弁は、おそらく先にも後にもないだろう。

 この鳩山総理の答弁に、歴代総理を始め自民党の政治家たちはグウの音も出ない。

 これを聞いた全国の国民はもはや自民党の復権はないと思ったに違いない。

 これを報じるメディアもまた、いくら自民党の復権を望みたいと思っても、これでは無理だというあきらめたに違いない。

 そうなのだ。どのように民主党の足を引っ張って見たところで、代わりになる政権担当能力のある政党がなくなった今となっては、民主党は一大国民政党となったのだ。

 だから政権を奪い返し、あるいはそれを阻止して政権を維持する、とのせめぎあいである政局は、当面なくなったのである。

 しかし、政局は終わったけれど、政治は終わらない。

 鳩山民主党のこれからの課題は、国民のために政治をどこまで実現できるかである。

 鳩山民主党政権と民主党議員が向かい合わなければならない相手は、もはや野党や野党政治家ではない。

 メディアでもない。

 一般国民なのだ。

 だからこれからの野党議員が国会で質問すべきは、自らの政党の復権を目指して行う質問や、来年の参院選挙目当てで自らの政党の存在感をアピールする為の質問ではない。

 国民の側に立って、国民の聞きたい質問を、国民に代わって質問することだ。

 私のいうオンブズマンとしての政党、権力政党に対する監視政党こそ今は必要なのだ。

 その立場に立てば、聞くべき鋭い質問は山ほどある。

 鳩山首相が答えに窮する質問は山ほどある。

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揚げ足取り政党?         ネット虫

2009年10月30日 13時08分58秒 | Weblog
今朝の朝日新聞にこんな記事が出ていました。

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『共産「何でも反対」脱却!!志位氏、鳩山政権を「支援」の姿勢』

「揚げ足取り、何でも反対という立場ではない。今までとはスタンスが違うんです」。共産党の志位和夫委員長は29日、衆院代表質問後の記者会見で「揚げ足取
り」からの決別を宣言した。

志位氏は代表質問で政権交代が実現したことを「日本の政治にとって前向きの大きな一歩」と歓迎。会見でも自公政権下とは違って「現実に政治を前に動かしたい」と語り、鳩山政権を「後方支援」する姿勢を鮮明にした。

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びっくりしました。

公党の委員長が記者会見で、「今までは揚げ足取りばかりやっていた」と認めてしまったのです。「何でも反対だった」と自白してしまいました。これはきちんと記録に残し、記憶にとどめておく必要があります。政治理念で行動したのでも、国民の生活に関してどのように責任ある立場をとってきたかでもなく、「揚げ足取り、何でも反対でやってきた」というのですから。今後は違うのだといいますが、状況が変われば、また揚げ足取り専門になるということでもあるでしょう。

以前、自民党政治家などから「共産党は何でも反対」と言いがかりをつけられた時に、「そんなことはない」と反論していたはずです。全国の党員も懸命に「共産党は何でも反対なのではない」と有権者に訴えていました。ところが、委員長がこんな発言をしてしまったのです。

まあ、日本の政治文化ならこれでも許されるのかもしれません。まともな政治がなされている社会なら、政党の自殺行為です。有権者を馬鹿にしてきたと公言しているのですから。前から少し問題の委員長だとは思っていましたが、まさかここまでとは。--と、これも揚げ足取り?
コメント (6)
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新政権の威力(9) 政治理論も変わらねば  文科系

2009年10月30日 01時26分15秒 | 国内政治・経済・社会問題
日本共産党員には正義感が強く、誠実な人が圧倒的に多いと、僕は観てきました。かれこれ40年の、彼らと親しくつきあってきた歴史から知ったことでして、その思いは今も同じです。だが、誤りが多いのにちっとも責任を取らない中央を信じ過ぎている感があって、ちょっと頭が固い。今の情勢下では特にそれが露呈されているんじゃないかと、9月以来のこのブログをずっと読みながら考え込んできました。その次第を書いてみたいと思い立ちました。

①資本主義は「眼前の」社会悪の最大元凶であるし、一般にそうであることが多い。これを僕は認めます。よって日本の大企業がそうであることが多いということも、同じです。ただだけど、その中心に座っている人々個人を悪くだけ言うそういうやり方には、僕は全くなじめませんでしたし、ましてやこれを犯罪人に対するような口調で語るやりかたにはもっと馴染めませんでしたとは、告白しておきます。体制、立場を告発するのであって、個人を告発するのではない。カール・マルクスはこの二つを厳然と区別してきたかと思います。これは、人のヒューマニズムが試されるというかなり重要なポイントのはず。

さて、今現在、経団連と政権党との間には、明らかに自民党時代とは違って一定の溝があります。その証拠は例えばこれ。国家戦略局と同等に大切な行政刷新会議に経団連(会長など)を初めて誰も入れなかった。戦略会議の方も多分そうなるはずです。自民党のこういう組織には必ず経団連重鎮が入っていました。
この事実を日本共産党はどう見るのでしょうか。いつか民主党も財界に飲み込まれるかも知れないという主張には頷く点がないではないとしても、今現在のこの瞬間のことを語っている積もりです。
ついで、アメリカ帝国主義についてです。サブプライムバブル破裂以来、アメリカはどんどん世界的影響力が無くなっており、これからは更に急速になくなっていき、多分もう後戻りはないだろうと、僕は考えています。安保理常任理事国もいずれ変化していくことでしょうし、それ以上に国連総会の役割が増えていくと僕は考えています。ちょうどアナン事務総長がイラク戦争開戦に反対したような、そんな動きが加速していくはずです。こういう動きにつれて、日本へのアメリカの発言力もどんどん弱まっており、日本の対米主体性が大きくなっていくはずだと考えています。

さて、これらの状況は何よりも、サブプライムバブル破裂でもたらされました。「100年に1度」かどうかは置くとして、まー戦後世界・日本に続いた状況が現在は全く変わってきたということを言いたいのです。アメリカの経済、物作り、「世界の金集め金融業」はがたがた、日本も、護送船団方式輸出にはもう今までのようには頼れないはずです。

②次に言いたいことはこういうことです。
①のようなことを重視して理論というものを見ていけば、例えばこんな「政治的大命題」も加わってくるはず、だと。「普通選挙制度」が生まれた国、政治は、それ以前の国、政治とは全く違います。そういう国ではまた、資本主義用語で敢えて語りますが「人間の命の値段」、人権も全く変わってきたはず。社会的相対的に安い人の値段も、随分高くなったということですね。切り捨てごめんができる世の中ではなくなったということです。これらの概念の政治に占める位置づけは、今の日本では資本主義とか、アメリカ帝国主義とかと同等の重要なものになったと、僕は考えています。こういう動きと共に政治に公正さが求められるようになったとも考えています。

人間が思考を整理し、進めていく概念というものには、より抽象的という意味でより上層の概念と、より下の概念とがあるはずです。生物、動物・植物、哺乳類、類人猿、人類、日本人というように。この上下は価値の上下ではありませんし、本質性の上下を語っているというわけでもありません。いわば物事のどの側面に目をつけているかで、「価値」も「本質」も変わってくるということでしょう。例えば、こういうことです。上の例すべての中で「細胞」というものに目を付けるならば、前半の方を分析しなければ、後の方も分からないことでしょう。が、言語とか意識とかに目を付けるならば、類人猿ぐらいから後を研究しなければならないはずです。
世界に新しい質が生まれた時には、それに目を付けなければ世界は見えないと言いたかったわけです。「普通選挙」や「人権」が現れた世界は、マルクス・レーニンの時代とは違うはずです。現代国家を分析する場合に、資本主義やアメリカ帝国主義は「細胞」的なものと言えましょう。が、細胞論だけで人類、日本人が分かるわけではないと言いましょうか、「普通選挙」や「人権」や「公正さ」がこれらに相応しい重要な位置を占めて政治思考の中に座ってこなければ、「言語」の視点なしに人間を研究するようなものではないかと、言いたいわけです。
政治学的には「国家道具主義」を、哲学的にはその客観主義を批判したいという所以です。前者は国家の土台からの相対的独自性の軽視があると、後者は土台だけから政治を見過ぎていて政治的実践の単純化があると、そういう主張でした。

以上の論点でもって自民党と民主党との違いを語るならば、こういうことになりましょう。普通選挙を事実上無視できた自民党だから、人権も公正さも無視できたのであると。ですが民主党はその初めから、普通選挙を無視できない存在でここまでやってきた分、人権を、つまり弱い人をも見なけばならない存在だということです。生物一般にとって「細胞」は細胞であるようにやがて、長く政権にいるならば民主党も次第に初心を忘れて変質していくかも知れません。だけど今は、普通選挙でもって国家を動かす発言力をさしあたり4年間だけは保証された新政権なのです。そう思ってみると、いろんな事実、「策略」、「ばらまき」「口だけ」も新鮮に見えてくるはずだと僕は思うのですが、どうでしょうか。
コメント (2)
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