九条バトル !! (憲法問題のみならず、人間的なテーマならなんでも大歓迎!!)

憲法論議はいよいよ本番に。自由な掲示板です。憲法問題以外でも、人間的な話題なら何でも大歓迎。是非ひと言 !!!

投稿がなさそうなので、また閑話休題  文科系

2006年11月12日 19時41分32秒 | Weblog
シーズンに入ったのできつめのトレーニングを始めました。週1.5回ほどのジムランニング(トレッドミルで1回7~10キロほど)を週3回ほどに増やし、毎年出場する二つの市の各1月と3月の10キロマラソンをターゲットとして詰めていきます。01年から始めて、最高49分22秒。昨年は53分44秒とちょっと悪かったので、今年は入れ込んでいます。
今の毎日のトレーニングはこんなふう。
6日、走行距離8キロ。7.4キロ時から10.6キロ時までのアップダウンLSDに加えて、11.4キロ時と11.6キロ時の各600歩(インターバルの緩い奴の積もり)。
9日、8.5キロを10キロ時までのLSDだけで。
本日12日、8.5キロを6日と同様に。ただし600歩走行は11.6キロ時、11.8キロ時、12.0キロ時にアップ。

なお、歳ですので、筋力トレーニングにはいつも留意しています。階段は1段おき登り(下りも度々)がほとんどですが、他に片足スクワット、ジャンプなどは毎日やるようにしています。

お話しできる人がいらっしゃったら、どうかお付き合いください。
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東海放送人九条の会発足  落石

2006年11月11日 20時15分16秒 | Weblog
今日、名古屋市の愛知青年会館で
東海放送人九条の会の結成総会がありました。
NHK・CBC・NBN・THKなど
東海地方の放送人が九条を守ろうと会を立ち上げたものです。
ちょっと遅きに失した感もありますが。
会員は、100人余り。
愛知大学の長峰助教授の記念講演がありました。
面白かったので、追々、紹介して行きます。

                 
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文科省のヤラセの「意味」   文科系

2006年11月11日 09時26分32秒 | Weblog
この問題自身の犯罪性を数え上げてみよう。
①自由な市民討論が期待された場を、己の権力を使って、己の利己的かつ国家犯罪的利益のために利用したということ。国家から独立しているはずの教育委員会と現場教師を、こういう画策のサクラに使ったのだ。
②文部科学省の権限拡大のために、子どもを巡る数々の問題を「利用」したに等しい行為であったということもある。
③以下の犯罪的行為もこの間に日の目を見た。それらが②の証拠でもある。
「イジメ自殺はない」と歴代文科省統計で処理されてきたこと。ヤラセにおける「国(文部省)の役割」の強調。履修問題では「教育委員会」に責任を転嫁し、あまつさえそこを脅すように「このままでは卒業させられない」、「必要な授業は70か、いや50か」などと他人ごとのように、どさくさにまぎれて、我田引水の利己的ご都合主義行為を振る舞ってきたこと。
④以上全てにおいて、地方自治体の教育委員会を顎で使ってきたくせに、その権限を縮小する方向を画策してきたこと。ちなみに教育委員会とは、戦前の国家主義的教育を反省して作られた「教育の地方分権」の象徴的存在なのであった。

何と言うことだろう。これら全てが、国家の教育に関わる最高の「指導・助言」機関の所業なのである。幹部達の総入れ替え以外に道はなかろうとさえ言えるような、役割や行為についての無自覚この上ない悪行と言える。
こういった「習慣」の中で育った幹部達は、本来の学校教育最高の指導機関という役割には全く相応しくないはずなのである。子どもたちや「教育」に対して全くの反面教師と言うべきではないか。
日本という国は、なぜ、どういう経過でこんな体たらくになってしまったのであろうか?
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保守系論客の歴史欺瞞・偽造を切る その9       千里眼

2006年11月11日 09時24分46秒 | Weblog

 
 史上初めて講和条約に戦争責任を明記したのが、ヴェルサイユ条約であつた。第231条で、ドイツの開始した戦争を国際法上の違法行為と断定し、この違法な行為によって生じたあらゆる損害と損失に対するドイツの戦争責任を規定した。
 第227条でドイツ皇帝ウィルヘルム二世の裁判を、第228条では、「戦争の法規慣例」に違反した者としての軍事裁判を、第232条で賠償問題を規定している。このように、戦争責任の認定、責任者の処罰、被害者に対する保障、が一体のものとして、戦後処理の大きな柱の一つになっていた。

 日本はこの条約を承認し、調印しているのだ。しかも軍事裁判には、英仏米伊日の五ヶ国で構成するとし、日本もその構成に加わっていたのだ。
 保守系論客は、極東軍事裁判を論ずるとき、この歴史事実を意図的に無視する。この歴史事実に触れると、彼らの論理が成り立ちえなくなるからだ。
* ヴェルサイユ条約に日本は調印し、その戦争概念の変更を受け入れ、戦争責任の存在、戦争犯罪の考え方を受け入れたことになる。
* しかもその軍事法廷の構成に参加することになった。

 保守系論者はこのことを意識的に忘却し、極東軍事裁判は「勝者が敗者を裁いたもの」で、「一方的に、戦勝国の論理を押し付ける『裁判』のどこが平和主義なのだろうか?」(小林よしのり)と言う。
 ヴェルサイユ条約の条項によれば、侵略戦争を起こしたものが、その戦争責任を問われるのは、第一次大戦後の戦後処理のなかで、国際的に認められた国際法に順ずる当然の内容であった。「勝者」と「敗者」ではない。「侵略した者」と「それと戦った者」なのだ。形の上では、「勝者」と「敗者」と見えようが、その本質は違うのである。

 しかも、満州事変から日中戦争・太平洋戦争と、日本はまっしぐらに戦争の道をつき進んだ。第一次世界大戦後の世界の国際協調の雰囲気のなかで、それは始まった。第一世界大戦が悲惨な状況をもたらしたことに対する反省から、60カ国が直ちに調印した1928年 ケロッグ・ブリアン条約、国策の手段としての戦争放棄を約束する不戦条約が成立した。並行して、ワシントン会議、ロンドン会議と軍縮会議が開かれた。このような国際協調のなかで、日本は侵略戦争の道を進むことになったのだ。

 日本のポツダム宣言受諾にともない、その第10項を受けて、極東国際軍事裁判所条例が、1946年4月に定められた。その条例に基づいて極東国際軍事裁判が開廷されることとなった。
 あらかじめ断っておくが、私はこの裁判の過程をすべて正しいとは思わない、個々の罪状の取り扱いがすべて正しかったとは思わない。裁判の場合には、合法か違法かを明らかにすることが求められ、二者択一を迫られる。普通の刑事裁判とは異なり、歴史的評価を問われる裁判では、二者択一が困難な内容があることは、容易に想像される。(裁判内容について、私自身が詳細に検討したことがないので、明確にどうこうと指摘できないが)。ただ、言えることは、第一次世界大戦後においては、侵略戦争を始めたものは、その戦争責任を問われるのは、当然のことである、ということである。日本自身も第一次大戦については、それを認めたのである。

 では、パール判事の無罪という少数意見について見ていこう。田中正明著「パール判事の日本無罪論」(小学館文庫)のなかに、彼の意見書の内容が、ときには引用の形で、多くは内容紹介の形で、その5分の1ほどが記されているそうである。この著作を読むと、パール判事の意見のおおよそのことは摑めるが、何か欠けているような気もする。が、原文にあたらないかぎり、はっきりしたことは言えない。

 彼の主張の重点は2つある。一つは、「法の不遡及原則」である。二つ目は、「既存の国際法秩序では裁けない」。この2点で裁判そのものが成立しないのだから、A級戦犯として起訴された者は無罪である、とする。もちろん、満州事変から太平洋いたる戦争の過程とそれにかかわる各個人についての分析は彼もおこなっている。が、彼の見解の中心内容は以上のとおりである。

 「法の不遡及原則」について見ていこう。ポツダム宣言が出された1945年7月、これを日本が受諾することによって極東軍事裁判の法的基礎が成立した。「法の不遡及原則」によって、その7月26日におこなわれていた戦争、つまり太平洋戦争に限るべきだ。それ以前の行為については、さかのぼるべきではない、とする。彼の意見書そのものを引用しよう。「本裁判所が裁判できるのは1945年9月2日の降伏によって終結を見た戦争の継続期間中、もしくはその戦争に関連して犯された犯罪に限るべきある」
 この見解は、法の原則から見て、一見正しいように見える。が、侵略戦争の責任を問うというこの裁判の本質から外れている、裁判を矮小化する見解と言わざるをえない。

 次に「既存の国際法秩序では裁けない」とする彼の見解を見ていこう。「国家の主権が依然として国際関係の根本的基礎であるかぎり、国家の憲法を運用するにあたってなされた諸行為は、依然として国際制度上においては、裁判を受けるべきものではなく、かような資格で職権を遂行した個人は、依然として国際法の圏外に置かれるということを、本官は忘れることはできない。‥‥国家主権はきわめて重要である」としている。
 分かり易く言い直そう。国家主権を最高絶対のものとしている今日の国際社会にあっては、国際法も条約もすべて国家を対象にしており、適用は国家にあり、個人には及ばない、ということである。現在の国際法の発展の程度では、個人の罪は問えない、とするものである。

 これで分かるとおり、見事なまでに、第一次世界大戦の戦後処理、ヴェルサイユ条約の内容をネグっている。国際的に承認された条約の内容とその精神はどこへ行ったのか。彼が、狭い法解釈論の枠のなかで考えていることよくが示されている。

 この投稿を書くのに相当の苦労をした。いろんな本を読み返し、インターネットでいろいろと調べ、手間隙を相当掛けさせられたが、私自身の勉強にはなった。が、きわめて不十分な内容であることは、自覚している。もっともっと調べなければと思っている。ただ、言えることは、私が漠然と感じていた、保守系論客の見解が世界史的視野に欠けているという想い、これだけは確かめることができたと思っている。
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”日記”の後日談の日記  文科系

2006年11月11日 07時15分28秒 | Weblog
4日には、こういう予定を書かせて頂いた。
「さてこれからあと2回。1度は、15年も年上の僕の恩人のような友人を亡くした、その奥さん(この方も友人である)の慰藉の会で。彼女が埼玉から当県を来訪し、独身時代の彼女が高校で数学を教えた教え子達が準備した『囲む会』なのである。(中略)そして最後が、ある高校学園祭のPTA模擬喫茶店で友人のフラウトトラベルソの伴奏。これは気楽に楽しめそうだ。曲目も、宵待草、浜辺の歌、ゴセックのガボット、などである」
まず嬉しかったのは、二つとも指は震えなかったことだ。学園祭の方は安定剤も控えてみたのに。

「囲む会」の方は、一つ良いアイディアが浮かび、実行した。参加者の1人が公民館のクラブでオカリナを吹いていると聞きつけたので、彼に合奏を持ちかけたのである。「版画の同好会の発表も間近く、時間がない」と渋っていた彼だったが、「覚えている既習曲なら良いよ」と電話で答えてきたので、急遽電話作戦会議。「見上げてごらん夜の星を」ができると言う。ただし僕のその楽譜はハ長調、彼の楽譜はヘ長調。僕の楽譜のギター和音をヘ長調に書き直して合奏することになった。理論上はこういう事があるとは知っていても、僕としては生まれて初めての「変調書き換え」の試みと伴奏である。半信半疑のままに当日を迎え、楽屋裏で初めての手合わせ。音合わせ(オカリナは固定音だから、ギターの調弦)のあと、見事1度で成算が見えたのだった。オカリナはそれぞれの音に結構「幅」、フラツキがあって、なかなか調弦が難しかった。
合奏も独奏も、そして会の最後に参加者全員で「見上げてごらん夜の星を」を二人の伴奏で歌い上げたことも、全てうまくいったのだった。「めでたし、めでたし」である。みんなの顔がそう語っていた。
終わりにこんな申し出が二つあった。一つは、来年1月3日の同窓会にもまた来て欲しいと。もう一つは相棒のオカリナ発表会がこの19日にあるということ。もちろんそこにも聴衆として出向くことになった。

さて木曜日は、高校文化祭PTA模擬喫茶店でフラウトトラベルソとの合奏。フルートの元祖、音の優しい木管楽器である。2部に分けて同じ曲目をやったのだが、前半は教頭先生が、後半は校長先生が最後まで聞いていて下さった。数ある店の中でなのだから、お母さん達みんながとても嬉しそうだったのが印象的だった。2部の方は店内の座席もいっぱいで、立ち見(立ち聞き)も多く、大盛況のフィナーレとなった。そして、相棒のお子さんがもう卒業するのに「来年も来てくれ」と言われたということを伝えられた。こちらも、暫くは僕の「季節的恒例行事」になるようだ。

さて、こんなことがあると明日からの練習も気が入るというものだ。もともと「より美しく弾くこと」にはえらく執着してきたんだけれど、さらにさらにということである。
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「軍事関連株売り進行」・・悪い奴ほど?      まもる

2006年11月10日 12時34分55秒 | Weblog
 ロイター通信によると、米中間選挙前に、民主党の勝利を予想した投資家達が議会での軍事費の見直しを見越してロッキードやボーイング社の株を売り始め、それらの軍事需産業の株価が大幅に下げているそうである。この背景には米議会が過去5年でイラクとアフガニスタンで五千七百億ドルの支出を承認していて、このため軍事関連株はイラク戦争以来二倍に上昇しそれを見越した投資家は大もうけを続けていたそうである・・が。
 ココに来て民主党の勝利の予想で投資家にとっては暗い影が射し始めてきたので、早々に売りに出たと言う訳らしい。
ソレを見て軍需産業の関係者は「民主党も国防費を削減すれば、国防で弱腰といった批判が出てきて、大統領選に不利になるから民主党になっても軍事費の削減は無いと必死の説得キャンペーンをしているとか。

 年金生活の一日本人としては関係のなさそうなお話しなのだが、吉とでるか、凶とでるか? でも何か関係あるのかな。
いずれにしても、戦争でお金儲けをしようとする方々は変わり身も早くて感心しました。
      
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敦煌を訪ねて その2          飛天

2006年11月10日 05時16分54秒 | Weblog
 平成4年というと、まだ敦煌への観光客が少ない頃であったので、中国人ガイドは本当に親切であった。初日、莫高窟を鑑賞したあとホテルに帰ってから、砂漠に落ちる夕日を見たいなと呟いたら、ガイドが「連れていってあげましょう、夕食の後に迎えに来ます」と言う。事前の計画には入っていないので、無料のサービスである。しかも、はるばると遠路、陽関まで連れて行ってくれたのだ。陽関の狼煙台の横の高台でじっと夕日が沈むのを待つことになった。その壮大な落日の美しさ、雄大な景色であった。今は、ここに休憩所と土産物屋、回廊風の建築物などが作られ、索漠とした砂漠のなかという印象は無くなってしまっている。観光客が増えると、どうしてもそういう現象が起こる。残念である。

 玉門関の風景も忘れられない。漢の武帝のとき、大宛(フェルガナ)遠征の指揮官李広利将軍は兵力不足と判断し、引き返してきたのに対し、武帝は激怒して、中国内への帰還を禁じ、玉門関に部下の数万の兵とともに留めた。砂漠のなかで、数万の兵が駐屯することがなぜ出来るのか、と私は疑問に思っていたのだが、それは可能であったのだ。大きな湖があったのだ。そのほとりに玉門関があったのだ。それゆえ、数百の人々の住む町も形成できたのだ。今は一人の住民も居ないが。
 5種類の水鳥が空を舞い、湖畔には無数の野兎の糞が散らばっている(雨が降らないので腐らずに残っている)。魚も豊富なようだ。

 ここ玉門関と陽関から先が、西域ということになる。中国と西域の境なのだ。二人の詩人の詩をここで紹介しよう。

 従軍行  王昌齢           元二の安西に使いするを送る  王維

青海の長雲 雪山暗し         渭城の朝雨 軽塵を浥す 
                     (いじょう)(けいじん)(うるお)
孤城遥かに 望む玉門関        客舎青青として 柳色新たなり
  (はる) (のぞ)             (せいせい)(りゅうしょく)(あら)
黄砂百戦 金甲を穿つ          君に勧む 更に尽せ一杯の酒
(こうさ)     (うが)             (すす)(さら)(つく)
楼蘭を破らずんば 終に還らず     西のかた陽関を出づれば 故人無からん
           (つい)                  (い)  (こじん)
 
 二人とも唐代の詩人である。王昌齢の詩は、玉門関を出て楼蘭征討に向かった兵士のことを歌っている。王維の詩は、西安の渭城の柳の下で、西域に旅する知人元二を送るため酒を酌み交わしたことを歌っている。陽関を出ると知人に会うことは決してないのだと。ついつい、私はこうした漢詩を思い出し、感慨にふけったのであった。

 西千仏堂も訪れて欲しい場所だ。その下に小さなオアシスがある。そこには、幹を抱えきれないほどの楊柳の巨木の林がある。樹齢何百年かは分からないが、数百年は優に過ごしてきた巨木であろう。そのほとりで横になり、ひやっとした爽やかな空気に包まれ、敦煌の歴史に想いを馳せるとよいのだ。悠久の時の流れを感じさせる私の大好きな場所である。想いから醒めたら、そのオアシスの傍らを流れる党河に出るとよい。上流にダムを造ったため、党河は完全な枯れ川になっている。その川岸にタマリスクの群落を見ることができる。ヘディンの記録にしばしば描かれているその木の群落をここで見ることができるのだ。
 そのオアシスから河岸段丘の急崖を上るとき、かっての洪水のあとを見ることができる。

 登り道を造るために削られた崖面に、こぶし大の丸い礫に混じって、大きな径30センチもありそうな礫石が混じっているのだ。このような大きな礫石を押し流すほどの洪水が敦煌を襲ったのだ。漢代の敦煌の町は洪水で全滅したのだが、砂漠気候でありながら、敦煌周辺では洪水がしばしば起こる。平成6年の敦煌訪問のときには、その直前に大きな洪水が起こり、莫高窟への道の途中の橋が流されていた。
 
 観光客の訪れることもないダムを訪れることを薦める。その水が敦煌の農業と人々の生活を支えているのである。重機のない時代にこのダムを建設するのは、相当の難工事であったろう。殉難碑を見ると18歳の若者を始め数十人の犠牲者名が刻まれている。

 私は敦煌が好きなのだ。すでに再度の訪問を計画している。何度でも訪れたいのだ。
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敦煌を訪ねて その1          飛天

2006年11月09日 19時32分12秒 | Weblog
 私の書斎兼オーディオルーム、兼寝室(いびきがひどくなって、寝室を追い出され、やむをえずソファー・ベッドで寝ている)の壁面に、数点の絵が飾られている。そのなかに、李振甫の321窟の復元模写「飛天」がある。仕事や読書に疲れた私をこの絵がどれほど癒してくれたことか。

 敦煌莫高窟の壁画のなかの飛天は、初期にはずんぐりとした体形で衣の裳すそは短い。唐代に入ると、体は細くなり裳すそは長く空中にたなびくようになり、非常に優美になる。
 そのなかでも、321窟の飛天がもっとも美しい。私にとっては、この李振甫の作品は大事な宝物なので、ホワイト・チークの額縁を特注して、それに収めて飾ってある。

 若い頃、私はシルクロードに憧れていた。不思議なことに妻もそうだったようで、シルクロードについての同じような書物を読んでいたのだ。そのころ、普通の日本人が海外旅行に出かけることは、夢のまた夢というような時代であった。
 植民地支配の片棒を担いだ父のこともあり、私は中国への旅はできないと思っていた。が、平成3年に仕事の関係で、上海、南京、揚州を旅した私は、その後、たびたび妻とともに海外旅行とくに中国へ出かけるようになった。その最初に選んだ行先が敦煌であった。
 
 平成4年、私たちは高校生と中学生の息子二人を連れて、敦煌を訪れた。日本の海外無償援助で造られた敦煌記念館の立派な建物の完成祝賀式典が、竹下元首相ら日本からの招待客や中国政府の要人も参加して盛大におこなわれた。その間には、観光客はいっさい敦煌には立ち入れなかった。その翌日に私たちは敦煌に入ったのだ。そして平成6年にも、今度は夫婦二人で敦煌を再訪したのだ。
 
 西安を出発したあとしばらくして、航空機は延々と砂漠の上を飛ぶ。ほんのときたま、小オアシスがあり、人家と畑が見えることがある。そこに住む人たちはどのような思いで人里離れた砂漠のなかに住んでいるのであろうか。
航空機の窓から左手前方に、白く輝く祁連山系が眼に入るようになると、敦煌はもうすぐである。憧れの敦煌に近づいたのだと、気持ちが高ぶり、胸躍るような高揚した気分になったのを覚えている。

 最初の敦煌訪問のときのことである。莫高窟の帰り、駐車場へ向けて歩いていると、肘を横に張り、粗末な国民服を着た中年の男性が原付程度の小型オートバイに乗ってやってくる。颯爽と言いたいところだが、何となく不細工な乗り方で、もたもたとやって来るのだ。すると、若い女性の中国人ガイドが立ち止まり、直立不動の姿勢をとりお辞儀をしている。そしていわく、「あの方が王峯先生です」と。息子二人がゲラゲラ笑い出してしまった。私も可笑しみを感じて、笑いをこらえたのであった。

 井上靖が最初に敦煌を訪れたときの随想的小品を読んだとき、李振甫と握手している写真が掲載されていた。それで、李振甫の名前は私の記憶に留まっていた。王峯の名前も敦煌壁画集で見知っていた。ホテルのそばの画廊で、この絵の作者の社会的評価はどうなのかと聞いたら、店員は「1番目は李振甫先生です。2番目は王峯先生です。この絵の方は3番目です。3番目の方は沢山います」と答えた。その王峯先生なのだ。
 敦煌研究所の直営売店で、李振甫の「飛天」と王峯の「菩薩像」を購入していたので、息子たちも、王峯が優れた芸術家で社会的評価も高いのだということを知っていた。我々の頭のなかのイメージと、現実に出会った王峯の姿とのあまりもの差異というか落差に、ついつい笑ってしまったのであった。ガイドに悪いことをしたと今でも反省している。

 長くなるので、ひとまずここで切ります。次回に、敦煌についてのいろいろな私の想いを記したい。特に私の気に入った場所について記したい。
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保守系論客の歴史欺瞞・偽造を切る その8       千里眼

2006年11月09日 18時54分51秒 | Weblog
 前回の投稿で記したように、第一次世界大戦はかってない悲惨なものであった。それを受けて戦後処理の過程で、新しい理念が示され、新しい戦後処理が行われた。そして、国際協調が強調され、国際連盟が発足した。

 この第一次世界大戦中に日本は中国に対して、対華21か条の要求を突きつけた。その内容は5つの項目に大きく分けられる。①ドイツの山東省利権を日本が継承する。済南鉄道の支線の敷設権を日本に与える。②南満州と東部内蒙古における日本の特権を認める。この地の政治・財政・軍事に関する日本人顧問を置く。③漢冶萍公司を日中合弁とすること。④中国領土内の港湾・島嶼を他国には譲渡しないこと。⑤中国政府に政治財政・軍事顧問を置くこと。警察を日中合弁とすること。日中合弁の兵器廠を設立し、日本人技師を雇うこと。中国中南部の鉄道敷設権を日本に与えること。以上の5項目である。

 欧米諸国が血みどろの戦争継続中に、まるで火事場泥のように、中国植民地化の要求を中国へ突きつけたのだ。この第5の項目はあまりにもひどく、欧米を刺激するのは必然であったので、秘密条項として要求したのだ。 
 当時の袁世凱政権は当然のことながら、調印を渋ったのに対し、日本政府は最後通告を突きつけて、調印を迫った(そのとき、第5項目ははずした)。袁世凱政権はやむをえず1915年5月、これに調印することとなった。

 戦後の軍縮交渉には、日本の政党内閣は妥協しながらも、その流れに乗っていったが、結局、日本は対華21か条の路線を継承し、満州事変から日中戦争へと、中国植民地化路線を歩むことになった。この時期には、世界のなかでは、戦争とか紛争はおこってない。まだ、国際協調路線が流れている国際情勢のなかでの、日本の動きであったことに注目する必要がある。

 保守系論客は、こうした国際情勢のなかに位置づけて、日本の歴史を見ることを拒否しているようだ。満州国建国を「五族共和」の理想郷を建設するため、満州系民族のためにやったことだ、国際的に承認されたのだ、と「歴史解釈権」の名のもとに強弁する。第一次世界大戦後の世界史の流れに照らしても、このような「歴史解釈」が成り立つはずがない。

 そこから彼ら特有の東京軍事裁判の評価・認識が生まれていると私は思う。彼らは、東京軍事裁判は「勝者が敗者を裁いたものだ」と口をそろえて言う。「国際法から見ても間違っている」とも言う。そして、その論証のあかしとして、パール判事の無罪判決(少数意見であり、判決ではない。彼らはこの判決なる用語を使用する)を挙げ、ヘレン・ミアーズの著書「アメリカの鏡 日本」を挙げる。
例えば、小林よしのり氏は次のように言う。「軍事力でねじ伏せた相手に、一方的な戦勝国の論理を押し付ける『裁判』のどこが平和主義なのだろうか? それは、野蛮な弱肉強食の国際社会を肯定する『軍国主義』に他ならないではないか」(「パール判事の無罪論」序文)と。

 確かに、ミアーズはアメリカに日本を裁く権利はないと書いた。しかし、それは日本を免罪するということではないのだ。「日本が、『凶暴で貪欲』であったことは明白な事実」として、日本の明治以降の対外進出と侵略戦争を『凶暴で貪欲』と彼女が述べていることを忘れてはいけない。彼女は日本の侵略行為を免罪しているのではない。『凶暴で貪欲』と指摘しているのである。 欧米諸国が近代に入って、他民族を抑圧し、植民地化し、領土を拡大していった「帝国主義的行為」(彼女はそんな表現は使っていないが)を彼女は否定する。そうした行為を働いた国々に日本を裁く権利があるのだろうか、と彼女は言っているのだ。
 第一次世界大戦の戦後処理の歴史事実とその後の国際協調の歴史を、彼女は念頭に置いていない、と私は言いたい。第一次世界大戦前の帝国主義的侵略・植民地獲得の行為と第一次世界大戦後のそれとは、同一のレベルで扱うことはできないと私は思う。ともあれ、彼女は自分の著作が悪用されているのを天国で嘆いていることと、私は思う。

 では、パール判事についてはどうだろうか。11名の判事のなかで、確かに一人だけパール判事が無罪の少数意見を出した。このパールの意見は、この裁判を狭い法解釈論のみで論じ導き出したもので、この裁判を矮小化して捉えていると私は思う。

 長くなるので、このパール判事の見解、およびそれに便乗した保守系論客の見解についての分析は、次の投稿にまわしたい。
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このブログも今日で一周年を迎えました。    ブロク管理・立上人

2006年11月09日 12時54分49秒 | Weblog
 思い返しますと、去年の今日次の様な一文で始まりました。

 「まもる君。久しぶりのクラス会とても楽しかったな。君は相変わらずで驚いたよ学生の頃とソックリだ。悪く言えば進歩無しだぞ。 特に「護憲・九条まもれ!」の演説には辟易したぜ。  現実をよく見てみろよ。中国・韓国とりわけ北朝鮮の脅威をどうかんがえるのかね。今の自衛隊でも日本は守り切れんぜ。そんな自衛隊さえ認めないの?  確かに自衛隊は君の言うとおり違憲だよ。だったら合憲の存在にしようじゃないの。」

 カエル君のこの投稿に「まもるくん」が答え、「和人さん」も登場して議論がもりあがりました。
 その後「倭人さん」「保守系さん」「文科系さん」「落石さん」「平和平さん」なども常連として参加してもらえるようになりました。
 途中、議論の堂々巡りや、感情的な行き違いなどもあり何度か、このブログの在り方、進め方についてのご意見もあり、提案もしました。
 夏場になり、新しく「へそ曲がりさん」「千里眼さん」「飛天さん」「爺老さん」「九条ひかるさん」などのを迎え、ますます賑やかになり、充実もしてきました。
 内容は、憲法問題ゃ九条の会関連記事や、歴史認識・戦争責任・戦後責任・民主主義の評価歴史観などが中心でしたが、「古代史論考」「反戦詩歌ゃ文学」「スポーツ論」「音楽コラム」「中国文化」など多岐にわたる話題が提供されブログに幅が出来てきました。
 提案によつては、「20人」ものコメントが寄せられました。
 コメントと言えば、寄せてくださった人数は数十人になると思います。「キャッチホンさん」「ありまさん」「猫の九ちゃん」「GAGAさん」「鷹子さん」「青狐さん」「右往左往さん」「世間知らずさん」「淑女さん」などなどユニークで真面目なお客さんばかりでした。
 またこの一年間の「投稿数」は490件を超え一日平均1・3件になっています。延べの閲覧数も週に千件を超えており、毎日四・五十人の方が覗いてくれています。「一年持つかねえ?ブログの90%はブログの墓場行きよ。」との友人の冷やかしを思い出します。続けられた事、ほんとうに皆様に感謝しております。
 今後も平和問題を軸にした自由で幅広い主張・交流の場として発展させたいと考えています。
 さて最後に、この日を記念してのお願いですが、今後「どんなブログにすべきか?」についてご批判や提案、感想などいただけたら幸いです。
 では、来年の11月9日どんな世の中になっているか、否どんな世の中にし得たか?を話し合える事を期待して記念のご挨拶を終わります。
 
   
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「いじめの兆候チェックリスト」 それより前に!!!    元先

2006年11月08日 12時15分48秒 | Weblog
これは教育委員会の親切な「いじめ発見のチェックリスト」です。
 今時小中の教員なら何回か受け取って眺めたリストです。
 確かによくまとめてはあります。
 しかし 肝心なのは学級づくり(学級の雰囲気)です。
 生き生きした学級、一人一人が目標を持っている学級、助け合い認め合える学級づくりが基本でしょう。
 こんなリストに一喜一憂するようになったら、自分の教育観・人間観を問い直す必要がありますね。
 
 教育委員会はこうした指導文書ばかりを現場に流し続けるのでなく、教師が「学級作り」を考えられる「ゆとりの時間」を保証してやることが第一です。

いじめ発見のポイント

1 表情・態度
笑顔がなく沈んでいる。
ぼんやりとしていることが多い。
視線をそらし、合わそうとしない。
わざとらしくはしゃいでいる。
表情がさえず、ふさぎ込んで元気がない。
周りの様子を気にし、おずおずとしている。
感情の起伏が激しい。
いつも一人ぼっちである。

2 身体・服装
体に原因が不明の傷などがある。
けがの原因をあいまいにする。
顔色が悪く、活気がない。
登校時に、体の不調を訴える。
寝不足等で顔がむくんでいる。
ボタンが取れていたり、ポケットが破けたりしている。
シャツやズボンが汚れたり、破けたりしている。
服に靴の跡がついている。

3 持ち物・金銭
かばんや筆箱等が隠される。
ノートや教科書に落書きがある。
机や椅子が傷つけられたり、落書きされていたりする。
作品や掲示物にいたずらされる。
靴や上履きが隠されたり、いたずらされたりする。
必要以上のお金を持っている。

4 言葉・行動
他の子どもから、言葉かけを全くされていない。
いつもぽつんと一人でいたり、泣いていたりする。
登校を渋ったり、忘れ物が急に多くなったりする。
教室にいつも遅れて入ってくる。
職員室や保健室の付近でうろうろしている。
いつも人の嫌がる仕事をしている。
すぐに保健室に行きたがる。
家から金品を持ち出す。

5 遊び・友人関係
いつも遊びの中に入れない。
友達から不快に思う呼び方をされている。
付き合う友達が急に変わったり、教師が友達のことを聞くと嫌がる。
笑われたり冷やかされたりする。
グループで行う作業の仲間に入れてもらえない。
特定のグループと常に行動を共にする。
プロレスごっこ等にいつも参加させられている。
よくけんかが起こる。
他の人の持ち物を持たせられたり、使い走りをさせられたりする。

6 教師との関係
教師と目線を合わせなくなる。
教師との会話を避けるようになる。
教師とかかわろうとしない、避けようとする    
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保守系論客の歴史欺瞞・偽造を切る その7    千里眼

2006年11月08日 09時19分09秒 | Weblog
 このブログに参加して、保守系論客の著作を読むようになって、彼らの見解の根底に欠けているものがある。という思いを抱くようになった。
 太平洋戦争とその戦後処理をめぐる諸事件・諸問題を見ていくとき、世界史の大きな流れのなかに位置づけて見ていく必要があると私は思っている。特に一次世界大戦の戦後処理とそのなかで示された諸思想・諸理念を把握し直して、それとの関連のなかで押さえ直していく必要があると私は思っている。自虐史観として相手を攻撃する保守系論客にはその視点がほとんど欠けている。欠けていると言うよりも、意図的・意識的に避けているのだと私は思うようになったのだ。

 私自身の考察がまだ不十分なまま、取り急ぎまとめているので、不十分さがあることを承知のうえ、投稿した。今後さらに練り上げていくつもりである。
 この投稿では、第一次世界大戦を契機として示された、思想的また理念的な変化を見ていきたい。次の投稿で、保守系論客が、世界史的視野・視点をネグった主張や論点を取り上げ、分析していきたい。

1.第一次世界大戦

 第一次世界大戦は、それまでの戦争ときわだった違いを示している。その第一は、殺傷力の大きな新しい武器が投入されたことである。戦車、重機関銃、飛行機、潜水艦などである。さらには毒ガスまで使用されたのだ。ドイツのUボートによる無差別攻撃により、客船・貨物船を含め約300万トンの船が沈められた。
 第二に、そのために、それまでの戦争とは桁違いの死傷者が出たことである。ヴェルダンの戦いのみで、ドイツ軍・フランス軍合わせて23万人もの戦死者を出した。結局、この戦争での戦死者は1000万人にものぼり、民間人などの死者を合わせると1300万人にもなった。
 第三に、戦争が国家挙げての総力戦・消耗戦という性格になり、勝者も敗者も、国家の疲弊は著しくなった。参戦したとはいえ、日本とアメリカは戦場とはならなかったので、例外的に戦中・戦後の経済発展は著しかったが。

2.戦後処理をめぐる新しい理念の提唱

 新たに成立したソビェト・ロシアは無償金・無併合・民族自決の原則を宣言し、単独でドイツとの講和を結ぶにいたった。
 アメリカ大統領ウイルソンは14か条の講和原則を発表した。1.秘密外交の廃止、2.海洋の自由、3.経済障壁の撤廃、4.軍備の縮小、‥‥8.アルザス・ロレーヌの仏への返還、10.オーストリア領内の民族自決、‥‥恒久的国際平和機関の設立、を主張し、自由主義的な原則にもとづく公正な国際秩序の樹立によって戦後平和を永続させようとするものであった。

3.戦後処理にともなう新しい思想・新しい観点

A) 戦争観の転換と戦争責任

 第一次世界大戦前には、国家の外にその行為を裁く裁判所がない以上、最終的な紛争の解決手段としての戦争は相互に合法的であると考えられていた。したがって戦争責任、戦争犯罪という概念は成立しえない。
 第二次世界大戦の結果、このような悲惨な戦争を引き起こすことは許されない、違法とする思想が現れ、国家を超える制度によって主権国家の行動を抑制する必要があるという思想が示された。さらに戦争そのものを違法とする考え方から戦争責任という概念が成立することになった。  
 ヴェルサイユ条約では227条で、史上初めて戦争責任を講和条約で規定している。イギリス首相ロイド・ジョージの1919.6.16付け「ドイツに対する最終回答」のなかに、次の一節がある。「1914年8月に始まった戦争は、自ら文明国と称する国が意識して犯した犯罪の中で最大の人道および諸国民の自由にたいする罪である。‥‥しかしドイツの責任は戦争を計画し、開始したことに限定されるものではない。戦争遂行の際における蛮行と非人間的なやり方についても、それに劣らずドイツに責任がある」と。この思想に基づいてヴェルサイユ条約の227条・228条が制定されたのだ。

 ドイツ皇帝ウィルヘルム二世の戦争責任を追及するため、英・仏・米・伊・日の5ヶ国から出た裁判官によって構成された特別裁判所を設置することになった。しかし、ウィルヘルム二世の亡命先、当時中立国を宣言していたオランダはその引渡しを拒否し、事実上この裁判は開かれなかった。そのために、戦犯名簿を作成したものの、ドイツが引き渡しを拒んだこともあって、非人道的行為についての国際法廷もついに開かれることなく時が過ぎていくこととなった。
  
B) 賠償金についての考え方の変化

 WAR REPARATION、つまり賠償金についての考え方は第一次世界大戦を境に大きく変化した。
 それ以前は、裁判で敗訴したものが裁判費用を負担するのと同じように、敗戦国が敗戦の証しとして戦争の費用を負担するのは当然の行為であると考えられた。さらにプラスαが加えられ懲罰的な賠償金額が決定されるのであった。
 第一次世界大戦は、かってない規模であったので、英仏などの戦勝国側の戦費をドイツが負担することは不可能であることは、誰しも認めざるをえなかった。そのなかで、イギリスの経済学者ケインズ等は懲罰的賠償金に反対し、「戦争被害を基礎に賠償金を計算すべきだ。そのほうがより公正であり、また実現可能である」と提唱した。結局、この考え方がヴェルサイユ条約に取り入れられたのだ。しかし、条約上決定した金額は1320億マルクで、これすらドイツにとっては支払い不能な金額であった。このことが、後にナチスの台等を許す一つの要因になった。ケインズの試算ではドイツの支払い能力は360億マルクであったのだが。

C) 民族自決という理念の導入

 ウイルソンの14か条を受けて、民族自決という思想が国際会議で史上始めて取り入れられた。しかし、アジア・アフリカの植民地の諸民族、抑圧されている諸民族の希望を裏切り、条約では結局、この民族自決の原則が適用されたのは、北欧・東欧・バルカン半島などのヨーロッパ部に限定された。フィンランド、エストニア、ラトビィア、ポーランド、チェコスロバキア、ハンガリー、などの諸国が独立できた。が、アジア・アフリカは無視されることになった。
 トルコ支配下の地域は、英仏の秘密協定どおりに、イラク・ヨルダン・パレスチナはイギリスの、シリア・レバノンはフランスの委任統治領とされた。ドイツの植民地も列強諸国に分配された。このように、ウイルソンの提唱した理念と異なり、あいも変わらない帝国主義的利益の分配という側面も示したのだ。

D)国際協調と国際連盟

 国際会議で、国際協調が叫ばれたのは、このヴェルサイユ会議がはじめてである。そして、国際連盟が発足することになった。
 規約前文に「締結国は戦争に訴えざるの義務を受諾し、各国間に於ける公明正大なる関係を規律し、各国間の行為を律する現実の基準として国際法の原則を確立し、‥‥以って国際協力を促進し、且つ各国間の平和安寧を完成せん」と書かれている。
 国際連盟の目的は、国家間の紛争を調停し、戦争防止に努めることにあった。そのために、国際協調を歌い、連盟規約を破った国には経済制裁を加える、国際司法裁判所を設置するなどの規定を設けたのである。
   
E) 軍拡から軍縮へ

 国際連盟の発足を受け、戦争を防止するためには軍縮が必要であるという国際的世論が起こってきた。戦勝列強諸国は軍備拡張の費用負担に耐えきれなくなったという事情もあり、軍縮交渉が行われ、1921年に主力艦の保有制限を取り決めたワシントン条約が、続いて1930年に補助艦艇の保有制限を取り決めたロンドン条約が締結された。

 こうした変化を受けて、歴史は大きく国際協調と平和の方向へ動いていたのだ。この流れに立ちはだかったのが、1929年の大恐慌であった。それに続くドイツとイタリア、日本の対外政策であった。
 それはさておき、保守系論客の論文を読むとき、世界史的視点の欠如に驚かされた。その分析を次回にまとめたい。
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こんな愚か者が、新聞にのさばっている  文科系

2006年11月07日 19時46分26秒 | Weblog
(新聞社の)質問「国の関与が強まる点をどう評価しますか」
応答「地方分権の行き過ぎで文部科学省が教育界をコントロールできなくなっています。地方と現場に任せればうまくいくという流れだったが、その結果がいじめや履修不足問題です。国が統括し責任を負うため、中央と地方の関係を再構築する必要があります」
なんだこりゃ?
僕なんかは、いじめや履修不足問題には文部省の責任が最大であると考えている。それを全て地方に負わせるなんて。そういう僕のような視点からの反省は何も語らず、ただ文部省の「コントロール」だけを強めよと、語る。それもいくつかの教育界の重大問題が騒がれている、そのどさくさに紛れたような言いたい放題だな!
こんなの、戦後に誓った「教育の国家統制はやめよう」の全否定じゃないか!

と考えつつ八木氏の肩書きを読んでみたら「保守系民間シンクタンク」の「日本教育再生機構」の理事長さん、なんだそうだ。

それにしても、「履修」問題は前からあったはずなのに、何故この今、大騒ぎ?いくら重要だとしても、何故今? いじめ自殺問題にしても、地方ばかりが悪くて、校長だけが謝るというような性質のものであるのか?校長に自殺者まで出して? それでいて、文部省はぜんぜん出てこないけど、「今後」への「要」として、傷つけないように庇護されている?

こんな全てを眺めつつ、思う。「教育改革」を唱える安倍の首相就任を待って、大きな勢力が相談しつつ準備万端整えていた、僕にはそんな気がしてしかたないのである。
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「平和のともしびウォーク」をご一緒に   九条ひかる

2006年11月07日 15時10分47秒 | Weblog

 「県民のつどい」参加お疲れ様でした。石坂啓さんのトークは語り口もよく、内容もリアルでした。会員さんから「下手な憲法学者よりもよく調べ、実践的でよかった」とか、「天皇制のもとで政府や軍隊の非人間性がよくわかった」などの意見が寄せられています。  うかうかしていると、そのような時代になってしまいます。 政府は改憲こそまだしていませんが、自衛隊の活動範囲の拡大、国民保護法と言うごまかしのネーミングで、国民を戦争に総動員する『国民総動員法』を強要し、市町村段階にまで条例をつくらせ、自衛隊も動員して訓練を行っています。  石坂さんの言葉にもあったように「戦争状態に入っている」のでしょう。しかし、多くの国民はそこに気づいていません。「九条の会」としては、様々な行動を通じて国民の戦争準備が既に行われ、仕上げが憲法改悪、9条改悪であることを早急に知らせることが大切だと思います。

  昭和区九条の会は、千種、みずほ九条の会と共同し、12月8日の午後6時~8時の間、阿由知通りを秋葉神社(博物館の北側)から桜山、天神町公園(御器所)、吹上、今池まで「平和のともしびウォーク」を行います。 秋葉神社と天神町公園では集会も行います。

 寒い冬ですが、旧軍が真珠湾攻撃を行った日でもあり、ビートルズの反戦歌手ジョン・レノンが暗殺された日でもあります。 その日に「平和を願う」のは意味深いものだと思います。 ぜひ、ご都合をつけてご参加ください。 また、天神町公園の集会は楽しく,賑やかな内容にしたいと考えています.

 「9条を守る」運動にふさわしい企画をお寄せいただく事を併せてお願い致します。                         コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 ) Weblog / 2006-11-06 18:18:52

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NHKに対する命令放送   落石

2006年11月05日 15時24分01秒 | Weblog
安倍総理は「拉致問題解決のために、
やれることはなんでもやれ」と大臣らに指示。
これを受けて、菅総務相が、NHKの国際放送で、
拉致問題を取り上げるように命令することを考え
審議会に諮問したというニュースがありました。

放送が戦争協力に徹した反省から制定された放送法。
(これもかなりの部分、GHQの押し付けですが)
でも、このおかげで、言論の自由が守られ、民間放送も誕生しました。

ところが、日本が独立した直後、政府は放送に関する法律のうち、
独立行政機関である電波監理委員会に関する法律をなくました。
これによってNHKなどは、政府から独立した委員会によって
コントロールされるのではなく、
郵政省(現在の総務省)によって命令放送が出来る道を開いたのです。

国の方針をPRするのなら、国営放送局になってしまいます。
これでは戦前の国策のPRの結果、敗戦という悲劇に至った反省から
誕生した放送法の精神が死んでしまいます。

拉致問題は重要なニュースです。
しかし、それはあくまで政府から独立したメデイアによって
報道されるべきものではないでしょうか?




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