【東日本大震災9年目】:90歳、望郷と孤独抱え 双葉町一部で避難指示解除
『漂流する日本の羅針盤を目指して』:【東日本大震災9年目】:90歳、望郷と孤独抱え 双葉町一部で避難指示解除
一冊のアルバムと分厚いファイルを傍らに、古里を思う日々は九年を迎える。東京電力福島第一原発事故で福島県双葉町から茨城県つくば市に避難する江又トミさん(90)。夫が震災関連死し孤独と闘う中、教員時代の教え子から次々と寄せられた支援が心の支えに。「戦争と原発事故、人災を二度も生き延びた」と感じている。
双葉町にある自宅の写真をまとめたアルバムを見せる江又トミさん=2月、茨城県つくば市で
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双葉町は四日、避難指示が一部で解除されたが、町民の帰還は二〇二二年春以降の見通しだ。現在はマンションで一人暮らし。「静かだと寂しくなる」と大型テレビを常につけている。最後に古里を訪れたのは二年近く前。「体力が落ちて耳も遠くなった。もう自力で行く自信がない」。震災後の自宅の写真を整理したアルバムを見ては、草が茂り倒壊した墓の姿に胸を詰まらせる。それでも郷愁の思いは募り、ふとした時にページをめくる。
「今後帰還が可能になったとしても、年寄りが生活するのは厳しい。先祖代々の墓を見捨てて後ろめたいけれど、先を考えたら仕方なかった」
原発事故後は、避難先で列に並び、限られた食料を周囲と分け合った。届いた毛布には人が群がり、何枚も持ち去っていく人やけんかを始める人もいて、戦中・戦後の配給、混乱の記憶がよみがえった。
十六歳で太平洋戦争終戦を迎え、仙台市の宮城学院(現・宮城学院女子大)を卒業後、二十歳で中学校教員に。「戦争の苦労は若さで乗り切れた。原発事故で、災害が高齢者ら弱者にとってどれほど過酷か気付いた」
避難所の寒さは高齢の身に染み、起き上がる気力もそがれた。要介護の夫は体調を悪化させ、一三年十一月に亡くなった。
心が折れそうな中で励みとなったのが、遠方から駆けつけたり、日用品を送ったりしてくれた教え子たちの存在だ。届いた手紙は数十通に上る。「先生、体調はどうですか」「足りない物はないですか」-。気遣う言葉が並んだ便箋やはがきは、ファイルに入れて丁寧に保管している。
「周囲は被災者ばかり。自分が特別ではない」と思い、以前は体験を語ることにためらいがあった。しかし、九十一歳を前に考えが変わりつつある。
「古里の記憶を若い世代に語り残すのが役目かもしれない。元気でいられる時間を大切にしたい」。教え子の一人から最近、黄色に咲くフクジュソウの鉢植えが届いたばかり。また一つ、勇気づけられた。
福島県双葉町の避難指示が一部解除され、開けられるゲート=4日午前0時25分
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◆町民4割、41都道府県に離散 人口減も進行
東京電力福島第一原発事故による避難指示が4日に一部で解除された福島県双葉町の住民は約9年間、古里を追われた生活を余儀なくされている。町民の4割は県外の41都道府県に離散。住民票を避難先に移す人も「平均で月10人弱」(町の担当課)に上り、約7000人だった人口は1000人以上減少した。
避難の長期化で、町民を呼び戻すのは容易ではなくなっている。意向調査で町への帰還を望む住民は10.5%まで減少。特効薬は見つからない。
原発事故で全町民が避難を迫られた双葉町は2011年3月末に埼玉県加須市へ集団避難。役場機能も加須市に移した。13年に役場機能を福島県いわき市南部に移転させたことに伴い、同市に移った町民も多く、14年には町立の幼稚園と小中学校が同市で再開した。
今年1月末時点の町の調査によると、最も多い避難先は福島県内で4044人。県外では埼玉県が最も多く803人、次いで、いわき市に隣接する茨城県が461人となっている。伊沢史朗町長は「住民の帰還には雇用の場が重要。医療施設の充実も絶対条件だ」と話し、町民が戻りやすい環境づくりに力を入れる。
元稿:東京新聞社 夕刊 主要ニュース 社会 【災害・地震・津波・東日本大震災】 2020年03月04日 15:15:00 これは参考資料です。 転載等は各自で判断下さい。