働きがいの喪失について記してきたが、そもそも私たちから労働の楽しさ(遊びの要素)を奪ったのは、資本主義経済である。それは二つの面から言える。第一は人間関係が商品交換という物的関係に帰してゆくこと、さらに労働力商品の売り手と買い手という立場を探っていくことによって明らかにされた経済的階級性、これによって生きた人間同士の交流が喪失し、しかも労働の楽しさを存続させようとしても可能なはずがない。第二は、機械的大工業の発展と労働の技術的従属による働くことの味気なさが深刻化することである。清水正徳は二つの視座を示す。一つには「物化」。「物化」とは、人間のエネルギー、活動力が「物」として処理されるに留まらず、人間と人間との自由な関係であるはずのものが、ある自然過程=物的過程のような法則性に従属させられることを指す。物的とは主体的でなく客体的であり、自由でなく必然的であることを言う。経済行為を行う個々の人間は自由に行為していると思っているが、それは社会的には決定された動きしかできない。さらに彼らの生活が経済行為の目的なのではなく、目的は価値の増殖であって、働く人間はその手段とされてしまっているということ。二つ目が物神性。これはマルクスが商品経済の特殊な神秘的店頭製を明らかにするために利用した語で、例えば机という使用価値(質)としてある物が、商品価値という量的要素に支配されてしまうことを示している。マルクスによる「商品の物神性」は、貨幣・資本が捨象されていても、すでに使用価値(質)が価値(量)に従属させられるという資本主義における倒錯の雛形が、抽象的な流通形態の中ですでに見られるからである。流通形態のなかで物神性が見られるというのは、貨幣が「価値尺度」及び「流通手段」という媒介・手段としての本来の役割から、さらに「貨幣としての貨幣」と呼ばれた性格のものへと転態していくからである。それは、貨幣が手段としての役割から、さらにそれ自身この上なく価値ある存在として現われることである。貨幣の流通圏が拡大し、一定の貨幣流通が持続して貨幣の信用が保たれることになると、より多くの貨幣さえもっていれば、より多くの諸商品がさらにより多くの価値あるものが何でも私のものになる、という貨幣への崇拝・愛情・欲求の気持ちが人々に浸透していく。貨幣としての金(きん)は、金(きん)であるというその使用価値自身が価値であるように幻想される、そして他の商品を買うための手段としてではなく、それ自身のために、蓄蔵の対象となる。[1]この二つの面は、どちらもフロムの言う「持つこと」であると思われる。現代社会が持つ存在様式に支配されているという面を象徴的に現すものとして「時は金なり」ということに注目してみたい。
フロムの文脈に沿えば、ある存在様式においては、私たちは時を尊重するが、時に屈服することはない。しかし、この時の尊重は持つ様式が支配する時には屈服となる。この様式では、物が物であるばかりでなく、生きているすべてのものが物となる。持つ様式においては、時が私たちの支配者となる。ある様式においては、時は王位を失い、もはや私たちの生活を支配する偶像ではなくなる。産業社会では、時が至高の支配者となる。現在の産業様式が要請することは、全ての行為が正確に「時間どおり」であること、流れ作業のベルトコンベヤばかりでなく、活動の大部分が時に支配されることである。そのうえ、時は時であるばかりでなく、「時は金なり」である。機械は最大限に利用されなければならない。それ故、機械は自らのリズムを労働者に強要する。機械を通じて時は私たちの支配者となった。自由時間にのみ、或る選択ができるように見える。しかし、私たちはたいてい、仕事を組織化するように、余暇をも組織化する。あるいは、完全になまけることによって、私たちは自由であるという幻想を抱くが、実際には時の牢獄から仮釈放されているに過ぎない、とフロムは述べる。[2] 私たちが時間によって、圧迫を受けているのであればそれは問題だ。
私たちは「時間がない」とよく言うが、それは近代の職業人に特徴的なことである。ヨーロッパの19世紀中ごろまでの伝統主義的な社会の生活は一般にゆとりのあるものであった。これまでと同じだけの報酬を得、伝統的な欲求を満たすためにはどれだけの労働をしなければならないかという考え方で生活を営んでいたのである。できるだけ多くの貨幣を得ようと願うものではなかった。ところが、近代になって、できるだけ多く労働すれば、一日にどれだけの報酬が得られるか、という考え方がみられるようになった。そうした生活態度の変化は、労働が絶対的な自己目的、いわば職業すなわち使命とみなされるようになったことによる。時間を区分して生活するようになったのである。[3]フランクリンの「時は金なり」は、時間を貨幣の尺度で捉えるようになった近代社会を象徴的に現す。
フランクリンの「時は金なり」に最初に注目したのはマックス・ウエーバーである。ウエーバーは、『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』のなかで、「時は金なり」は、何もしないで時間を空虚にしておくこと、無為に時間を消費してしまうことを損失として考える、そういう近代資本主義の精神を象徴的に含みこんでいることを指摘した。フランクリンの言葉には、正当な利潤を使命、すなわち職業として組織的かつ合理的に追求するという精神的態度が見られる。それを、ウエーバーは近代資本主義の精神と呼んだ。「時間は貨幣だということを忘れてはいけない。一日の労働で10シリング儲けられるのに、外出したり、室内で怠けていて半日を過ごすとすれば、娯楽や懶情のためにはたとえ6ペンスしか支払っていないとしても、それを勘定に入れるだけではいけない。本当は、そのほかに5シリングの貨幣を支払っているが、むしろ捨てているのだ。貨幣は繁殖し子を産むものだということを忘れてはいけない。貨幣は貨幣を生むことができ、またその生まれた貨幣は一層多くの貨幣を生むことができ、さらに次々に同じことが行われる。」こうしたフランクリンの言葉を引用して、ウエーバーは、この「吝嗇の哲学」に顕著な特徴だと感じるのは、自分の資本を増加させることを自己目的と考えるのが各人の義務だという思想だ、と述べている。ウエーバーは特にフランクリンの勤労と節約に注目しているが、それがすなわち「資本主義の精神」そのものではなく、個々の様々な特性を一つの統一した行動のシステムにまで纏め上げているようなエートス、倫理的雰囲気、あるいは思想的雰囲気、そうしたエートスこそが「資本主義の精神」なのである、とウエーバーは言う。[4] ウエーバーが明らかにしようとしたのは、近代資本主義が形成されていくにあたって、ピューリタリズムの禁欲的職業倫理が果たした役割についてである。ピューリタリズムにおいては、禁欲的な職業労働の忠実さも「隣人愛」を実践するという信仰心と結びついて耐久力のあるものに練り上げられていく。職業について、社会の「合理化」への奉仕こそがその実践であるという方向に導かれて行く中で、先ず有意義な職業を選ぶことが問題となる。同じ営利・収益を獲得するといっても、社会に奉仕できる道が、すなわち民衆層での生産を確実に高めることにおいて、世の中に広く福祉をもたらし、しかもこれによって得た営利をいたずらに浪費することなく、さらに積極的に生産につぎ込んでいく、こうしたピューリタリズムの宗教=職業倫理こそが、能率的に働き、生産し、収益を上げていくという産業資本主義への道を開く生活態度ともなり、やがて年月を経て宗教的な職業倫理が抜け落ちても、フランクリンなどに典型的に見られるような資本家の精神として長く行き続けるものなったことをウエーバーは強調する。[5] 日本では「勤労・勤勉の精神」は二宮尊徳に象徴されていると思うが、ここで、勤労の倫理と資本主義の関係、日本の二宮尊徳流の勤労精神とプロテスタンティズムの勤労精神との類似性に立ち入ることはしない。それはまた別の機会に譲ることとし、時間は希少な資源だという考え方に注目したいと思う。
フランクリンに見られる次の三つの生活態度と時間との関係は興味深い。一点目は、時間を「経済資源」と考える点である。半日の娯楽のために放棄した収入は娯楽の費用とみなされる。つまり、娯楽の費用はそれにかかる直接費用6ペンスと放棄所得の5シリングの合計になる。この放棄所得を現代の経済学では、機会費用と定義する。二点目は、時間を生活倫理の実践に結びつけている「技術的」発想である。時間が日常の生活場面を具体的に秩序づけるための、技術的方法であることが示された。倫理を言葉として表現するのではなく、日々の生活の中で習慣化させなければならない。三点目は、「未来志向」の生活様式を重視する生活観の発想である。近代社会と特徴づける重要な価値観の一つは、個人の生まれ育ち(属性)よりも、その人のアチーブメント(業績)を尊重する発想である。この価値観が現在の生活よりも未来に豊かな生活を期待する生活態度を生み出した。[6] 目標の達成を未来におき、そこに到達するためのタイムスケジュールを綿密に作成し、それにのっとり目標に向かって課題を一つ一つ解決していく、これが近代人の基本的な生活態度である。[7]
「前のめりの時間意識」についてすでに記しているが、ウエーバーが指摘した近代資本主義の精神が、人間の活動は絶えず価値を生産しなければならない、それも常により多く、より速やかに、つまりはより効率的に、という脅迫観念を生み出してくる。ここで私たちの日々の行為が何らかの価値を生産する活動として規定され、その合理性が効率性を基準として規定される。この「生産性の論理」が「前のめりの時間意識」と結びつくとき、「時は金なり」という言葉がもつ「道徳的訓戒」としての含みが顕わになるのであり、時間を無駄に使用することを一つの損失として意識させるような一種脅迫的な心性が発生する。時間の空白は埋めなければならない、しかも意味と価値のあるものによって、という西欧社会にかつて根深くあった「真空恐怖」にも擬せられるような神経症的な意識が生み出されることになるのである。時間の真空状態への恐怖は、現代社会にゆとりのためにゆとりなく働くというアイロニーも生んでいる。ゆとり・くつろぎが現代ではきわめて大きなビジネス・チャンスになるのだ。何もしていない時間を無為の時間として感じさせる、無駄をなくし少しでも効率の良い活動を、という精神に対する批判的な意識は1970年代に起こった。財にではなく「ゆとり」や「余裕」のうちにこそ、真の価値、豊かさがある。その意味では「時は金なり」が逆の意味で復活したのである。「仕事中毒」という言葉が生み出され、「仕事」や「労働」という言葉が急に色あせてみえるようになった。かつて労働の喜びであり本質であったものが、労働でない活動のなかに求められるようになった。ここで、労働は「労苦」であり、その労苦からの解放として、労働の対極として「自由」がイメージされる。「自由」は、「非労働」という逆倒した場面で探すほかなくなる。束縛された時間に対して、もっと自由な時間を、余暇をいう考え方である。非労働のうちにこそ「労働の純粋な形式」が輝くというパラドクシカルな現象に私たちは遭遇することになる。この純粋な形式としての「自由」は、質的な内容を持たない。「空虚」な時間としての「自由」な時間は、無内容な空っぽの時間として空洞化されていく。余暇は単なる退行的な活動へと縮減させられるのである。ここには労働を人生の軸とした近代的な勤労の精神が見てとれる。[8] 効率性を追求し、無為と怠惰を忌避する「勤労・勤勉の精神」は、余暇にも浸透していく。
バブル期には、大会社ほど、壮年の男性社員に対して「余暇講座」なるものを開いていた。余暇とか遊びとかは、会社や仕事や他人の目を気にしてやるものではないと思うのだが、余暇に関しても「恥ずかしくない、聞こえのいい余暇」ということになるのだろうか、と清水ちなみは述べている。[9] 現代人の「きまじめな心性」は、このように余暇をも組織化した。「勤労・勤勉の精神」は、空き時間をもまた隙間なく活用し、開発するように私たちを駆り立ててくる。余暇(自由時間)そのものが消費の制度のなかに組み込まれ、絶えず新たな欲望で埋められるだけでなく、さらには何か実のあること、例えば自己学習や家庭奉仕、ヴォランティアなどといった、労働とは別の意味で価値生産的な活動で充填しなければ・・・という強迫的な意識が私たちのなかに芽生えてきた。あるいは、レジャー産業の隆盛に見られるように、労働からの免除という意味での余暇には、気持ちのいいこと、愉しいことをこそしなければ、という意識に煽り立てられる。快楽までもが義務のように感じられる。仕事も遊びも、手を抜くことなく全力投球してこそよろこびはあると考えるのだ。[10] 絶えず何かをしていないと不安になる。現代人の持つ様式に支配された時への屈服に対して、フロムは次のように言う。ある様式は今ここにのみ存在する。画家や彫刻家の創造行為は時を超越する。愛することの、喜びの、真理を把握することの経験は、時の中で起こるのではなく、今ここで起こる。この今ここは永遠である。すなわち時を超越している。[11]
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引用文献
[1] 清水正徳『働くことの意味』162-168頁、岩波新書、1982年。
[2] E・フロム著、佐野哲郎訳『生きるということ』177-178頁、紀伊国屋書店、1977年。
[3] 山岸健『日常生活の社会学』76-77頁、NHKブックス、1978年。
[4] M・ウエーバー著、大塚久雄訳『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』26-29頁、284頁、岩波書店、1988年。
[5] 清水、前掲書、94-101頁。
[6] 矢野眞和編著『生活時間の社会学』10-12頁、東京大学出版会、1995年。
[7] NHK放送文化研究所編『現代日本人の意識構造[第五版]』216頁、日本放送出版協会、2000年。
[8] 鷲田清一『だれのための仕事』33-49頁、岩波書店、1996年。
[9] 清水ちなみ「OLから見た会社」内橋克人・奥村宏・佐高信編『就職・就社の構造』123頁、岩波書店、1994年。
[10] 鷲田、前掲書、52-54頁。
[11] E・フロム、前掲書、176頁。