我が家には三人の子どもがいるが、昔風の意味で(バイエル→ブルグミュラー→ソナチネ…)ピアノを弾ける子は一人もいない。
しかし、生まれたときから家に「ピアノがある」ということに慣れているので、何か気に入ったメロディーがあるときにはとりあえずピアノに向かってみる。耳を頼りに訥々と辿っていき…台所から聞いていてオィそこはその音じゃないだろう(-_-# とむずむずするがそのまま放っておくと、徐々に音が訂正されて、あぁそう、この節だった!!
再現できたら、気持ちはぱぁーっと明るく、ピアノで音が並んだことがただうれしい。
うちの子たちのピアノは、そういう素朴なピアノ。左手なし、メロディーだけでも、知っている節を楽器で再現できると楽しい。音は、並べただけ。味もなにもあったもんじゃない。またろうだけが、ややその域から抜け出して、何かを表現しようとするところに足を踏み入れたらしいが…
と、上から目線でいってみるが、実は、私のピアノは、そういう「コドモのピアノ」。うちの子たちと違って、基本、ピアノは両手で弾いているが(^-^)気に入っている曲の、音を(あまり)滞りなく並べられたらそれでうれしい。先生がいろいろ難しいことをいってくるのを、いやそこまで求めてません、という感じ。
私が子どものころ、正しく古典的な「ピアノのおけいこ」をしていて、バイエルからブルグミュラーへ、そしてソナチネをいくつか弾いたところで、小三の発表会で「エリーゼのために」を弾いてやめた。練習が嫌いだったから。練習をしないまま楽しみで続けるピアノという概念はなかったから。やめたいというと母は「あらそう」と抵抗なく即やめさせてくれた。
そしてこじろうがヤマハのグループレッスンから個人レッスンに替わったときに、「親がいっしょにやってればつられてやるかな」と軽い気持ちで習い始めたのが今の先生。こじろうはすぐやめてしまったが、なぜか親だけ続いて早七年目。
最初は練習をほとんどしないで行ってその場で映画音楽など…そして先生の勧めでブルグミュラー18番をやってみてそのおもしろさにハマり、以降どんどんいろんな曲に挑戦している。慣れてくればだんだん難易度の高い曲でも「音が並べられる」ようになってきたが、これを称して「上達している」と言えるのかどうか??
次々自分で曲を選んで、「これが弾きたいです」と先生に持っていくところは「大人のピアノ」。しかし、音が並べば満足で、表現の中身についてあまり興味がない、というより自分の中になんのとっかかりも感じられない。そういうところは、まったくの「コドモのピアノ」。いや、子どものほうが素直に自分が出せるだけたいがいマシかもしれない。
いちおう弾けば満足、の路線でも、世の中にピアノの曲が尽きることはないし、死ぬまでこの延長で楽しめるだろう。趣味なのだから、別にそれじゃいけないということはない。
でも先生はさすがに飽きてきた(?)みたい。「これからどういうふうにしたい??」「これまできちんと弾く路線で来たけど、ほんとはアンダンテさんがもともとこうやりたいっていうのがあったはずと思うの。それが出てくる前にいつも私がああだこうだいっちゃうからいけないかなーと」
いや先生、ハノンもツェルニーもバッハもなしでやってて「きちんと路線」とはいいません(-_-;; 先生が本音でいいたいのは「内から染み出してくるもの」がないということでしょう。そういわれても、元からないですよ。先生のせいじゃないです。
と思っていたが、習いたてのバイオリンでもののけ姫を弾いたり、娘のピアニカを借りてラプソディー・イン・ブルーを弾いたりしたのを録音して自分で聴くと、ピアノを弾いているときよりは「何か(うたごころ?)」があるように思う。ピアノだとなぜああも平板になってしまうのだろうか?
これから、路線を変えるのか変えないのか、変えるとすればどちらへ…?? ということを考えてみたいと思う。という決意表明も含め、「シンプルライフ」から「ピアノ」カテゴリーに変更させていただきました。(ちっともシンプルなライフになっていかないし家は散らかってるしで、浮いてるからそっちは当面あきらめました)
今日の弁当:
火曜日が生協なので月曜当たりになると弁当用ストック品がほぼ空に。
かきあつめた感じになりました。
肉団子、プチトマト、ブロッコリー、ゆで卵、えびしんじょ、枝豆、青菜ふりかけ
しかし、生まれたときから家に「ピアノがある」ということに慣れているので、何か気に入ったメロディーがあるときにはとりあえずピアノに向かってみる。耳を頼りに訥々と辿っていき…台所から聞いていてオィそこはその音じゃないだろう(-_-# とむずむずするがそのまま放っておくと、徐々に音が訂正されて、あぁそう、この節だった!!
再現できたら、気持ちはぱぁーっと明るく、ピアノで音が並んだことがただうれしい。
うちの子たちのピアノは、そういう素朴なピアノ。左手なし、メロディーだけでも、知っている節を楽器で再現できると楽しい。音は、並べただけ。味もなにもあったもんじゃない。またろうだけが、ややその域から抜け出して、何かを表現しようとするところに足を踏み入れたらしいが…
と、上から目線でいってみるが、実は、私のピアノは、そういう「コドモのピアノ」。うちの子たちと違って、基本、ピアノは両手で弾いているが(^-^)気に入っている曲の、音を(あまり)滞りなく並べられたらそれでうれしい。先生がいろいろ難しいことをいってくるのを、いやそこまで求めてません、という感じ。
私が子どものころ、正しく古典的な「ピアノのおけいこ」をしていて、バイエルからブルグミュラーへ、そしてソナチネをいくつか弾いたところで、小三の発表会で「エリーゼのために」を弾いてやめた。練習が嫌いだったから。練習をしないまま楽しみで続けるピアノという概念はなかったから。やめたいというと母は「あらそう」と抵抗なく即やめさせてくれた。
そしてこじろうがヤマハのグループレッスンから個人レッスンに替わったときに、「親がいっしょにやってればつられてやるかな」と軽い気持ちで習い始めたのが今の先生。こじろうはすぐやめてしまったが、なぜか親だけ続いて早七年目。
最初は練習をほとんどしないで行ってその場で映画音楽など…そして先生の勧めでブルグミュラー18番をやってみてそのおもしろさにハマり、以降どんどんいろんな曲に挑戦している。慣れてくればだんだん難易度の高い曲でも「音が並べられる」ようになってきたが、これを称して「上達している」と言えるのかどうか??
次々自分で曲を選んで、「これが弾きたいです」と先生に持っていくところは「大人のピアノ」。しかし、音が並べば満足で、表現の中身についてあまり興味がない、というより自分の中になんのとっかかりも感じられない。そういうところは、まったくの「コドモのピアノ」。いや、子どものほうが素直に自分が出せるだけたいがいマシかもしれない。
いちおう弾けば満足、の路線でも、世の中にピアノの曲が尽きることはないし、死ぬまでこの延長で楽しめるだろう。趣味なのだから、別にそれじゃいけないということはない。
でも先生はさすがに飽きてきた(?)みたい。「これからどういうふうにしたい??」「これまできちんと弾く路線で来たけど、ほんとはアンダンテさんがもともとこうやりたいっていうのがあったはずと思うの。それが出てくる前にいつも私がああだこうだいっちゃうからいけないかなーと」
いや先生、ハノンもツェルニーもバッハもなしでやってて「きちんと路線」とはいいません(-_-;; 先生が本音でいいたいのは「内から染み出してくるもの」がないということでしょう。そういわれても、元からないですよ。先生のせいじゃないです。
と思っていたが、習いたてのバイオリンでもののけ姫を弾いたり、娘のピアニカを借りてラプソディー・イン・ブルーを弾いたりしたのを録音して自分で聴くと、ピアノを弾いているときよりは「何か(うたごころ?)」があるように思う。ピアノだとなぜああも平板になってしまうのだろうか?
これから、路線を変えるのか変えないのか、変えるとすればどちらへ…?? ということを考えてみたいと思う。という決意表明も含め、「シンプルライフ」から「ピアノ」カテゴリーに変更させていただきました。(ちっともシンプルなライフになっていかないし家は散らかってるしで、浮いてるからそっちは当面あきらめました)
今日の弁当:
火曜日が生協なので月曜当たりになると弁当用ストック品がほぼ空に。
かきあつめた感じになりました。
肉団子、プチトマト、ブロッコリー、ゆで卵、えびしんじょ、枝豆、青菜ふりかけ