笑顔で用件を聞いてみる。
実際こういう事態に遭遇した場合には相当に不味い対応なのだそうだが、結果として私はそうしてしまった。
すると男は、狭苦しい建て売り住宅の一室で私に包丁を突きつけたまま、哀願するような口調で答えた。
「お願いだから冷やし中華を作って下さい」
材料はありますかと尋ねた私も相当なものだと後で思ったが、案の定、冷蔵庫にあったのはしなびた胡瓜と紅ショウガくらいだった。
「冷やし中華って、何で出来ているか御存知ですか?」
何だかこちらの方が凶暴な気分になってしまい、つい強い口調で詰問すると、男は相変わらず切っ先の定まらない包丁を持て余し気味に構えたまま、すみませんすみませんとひたすら謝ってくる。仕方ないので私は自分が持っていたバッグから手帳とペンを取り出し(男は一瞬だけ身構えかけたが、すぐに身を引いて私のするがままに任せた)中華料理を作る際の材料を思い付く限り並べていく。
「錦糸玉子は必要ですか、え?錦糸卵が何か判らない?貴方それでよく冷やし中華を食べたいなんて言い出せましたね!」
あまりにものを知らない男に対する苛立ちを隠す気にもならず、私はズケズケと言いたいことを並べたてる。包丁で私を脅しているはずの男は、その度にすみませんすみませんと身を縮こまらせて謝ってきた。
「もういいです、買い物は私が行きますから貴方はここで待っていて下さい」
え…… それはその、と私の行く手を阻もうとした男を極めて物騒な目付きで睨み付けてやると、なけなしの蛮勇を使い切ってしまったらしい男がしょげかえる。
「こうなったら作ってみせますわよ、私の知っている冷やし中華を!」
そんなわけで中華蕎麦を買い、付け合わせの野菜とハム、それに錦糸玉子用に卵を買い、男の家に戻った私はこの家に連れてこられてから度々鼻を突く悪臭に顔を顰めながらも、薄汚い台所で薄焼き玉子を作って細切りし、胡瓜やハムも同じサイズに揃えて切り、トマトは飾り切りにしておいた。ただ、台所にあった包丁は錆びて使い物にならなくなっていたので、男が構えていた包丁を脅し取った。当然のように男は情けない表情になったが、何か文句があるのかと凄んだら黙った。
料理の戦力として男を当てにする気は全くなかったし、事実何の役にも立たなかったが、男は台所の隅の邪魔にならない辺りで佇みながらぽつり、ぽつりと自分の身の上を語った。
気の弱い性格が災いして、他人に踏みつけられてばかりの人生を送ったこと。
ようやく結婚した妻は、男の貯金を食い潰した挙げ句に間男と逃げたこと。
聞いていて気が滅入るような告白を文字通り聞き流し、私はひたすら冷やし中華の作成に勤しんだ。
やがて、中華料理屋のメニューとして出すには少し恥ずかしいが、家庭料理としては及第点以上と思われる冷やし中華が完成した。
男は有難うございますと何度も礼を言ってから、相対した中華料理を情熱的に、だが細心の注意を払って口に運んでいく。私は無言でその様を見詰めていた。
「まさか、この歳になってから、こんな風に他人に親切にして貰えるとは思いませんでした。何のお礼も出来ませんが、本当に有難うございました」
酷く時間を掛けて食べ終え、空になった皿。
そして、空になった皿を前にした男。
次の瞬間、その姿は蛍火のようにかき消えた。
あの人は、最期に一瞬でも幸せを感じることが出来たのだろうかと、私は考える。
気が弱く、損ばかりしていて、仕舞いにはようやく結婚した妻に逃げられ、たった一人で死んでいったあの人。
恐らく逃げた妻のお腹に自分の娘が宿っていたことも知らず、産まれた娘がどのように育ったかも知らず、実の父親がどんな人だったのかを知りたくて尋ねてきた娘に包丁を突きつけてまで、生前大好きだったであろう冷やし中華を食べたがったあの人。
住宅内に漂う異臭にもう一度顔を顰めてから、私は自分のバッグから携帯を取り出した。
そして、警察に電話した。
実際こういう事態に遭遇した場合には相当に不味い対応なのだそうだが、結果として私はそうしてしまった。
すると男は、狭苦しい建て売り住宅の一室で私に包丁を突きつけたまま、哀願するような口調で答えた。
「お願いだから冷やし中華を作って下さい」
材料はありますかと尋ねた私も相当なものだと後で思ったが、案の定、冷蔵庫にあったのはしなびた胡瓜と紅ショウガくらいだった。
「冷やし中華って、何で出来ているか御存知ですか?」
何だかこちらの方が凶暴な気分になってしまい、つい強い口調で詰問すると、男は相変わらず切っ先の定まらない包丁を持て余し気味に構えたまま、すみませんすみませんとひたすら謝ってくる。仕方ないので私は自分が持っていたバッグから手帳とペンを取り出し(男は一瞬だけ身構えかけたが、すぐに身を引いて私のするがままに任せた)中華料理を作る際の材料を思い付く限り並べていく。
「錦糸玉子は必要ですか、え?錦糸卵が何か判らない?貴方それでよく冷やし中華を食べたいなんて言い出せましたね!」
あまりにものを知らない男に対する苛立ちを隠す気にもならず、私はズケズケと言いたいことを並べたてる。包丁で私を脅しているはずの男は、その度にすみませんすみませんと身を縮こまらせて謝ってきた。
「もういいです、買い物は私が行きますから貴方はここで待っていて下さい」
え…… それはその、と私の行く手を阻もうとした男を極めて物騒な目付きで睨み付けてやると、なけなしの蛮勇を使い切ってしまったらしい男がしょげかえる。
「こうなったら作ってみせますわよ、私の知っている冷やし中華を!」
そんなわけで中華蕎麦を買い、付け合わせの野菜とハム、それに錦糸玉子用に卵を買い、男の家に戻った私はこの家に連れてこられてから度々鼻を突く悪臭に顔を顰めながらも、薄汚い台所で薄焼き玉子を作って細切りし、胡瓜やハムも同じサイズに揃えて切り、トマトは飾り切りにしておいた。ただ、台所にあった包丁は錆びて使い物にならなくなっていたので、男が構えていた包丁を脅し取った。当然のように男は情けない表情になったが、何か文句があるのかと凄んだら黙った。
料理の戦力として男を当てにする気は全くなかったし、事実何の役にも立たなかったが、男は台所の隅の邪魔にならない辺りで佇みながらぽつり、ぽつりと自分の身の上を語った。
気の弱い性格が災いして、他人に踏みつけられてばかりの人生を送ったこと。
ようやく結婚した妻は、男の貯金を食い潰した挙げ句に間男と逃げたこと。
聞いていて気が滅入るような告白を文字通り聞き流し、私はひたすら冷やし中華の作成に勤しんだ。
やがて、中華料理屋のメニューとして出すには少し恥ずかしいが、家庭料理としては及第点以上と思われる冷やし中華が完成した。
男は有難うございますと何度も礼を言ってから、相対した中華料理を情熱的に、だが細心の注意を払って口に運んでいく。私は無言でその様を見詰めていた。
「まさか、この歳になってから、こんな風に他人に親切にして貰えるとは思いませんでした。何のお礼も出来ませんが、本当に有難うございました」
酷く時間を掛けて食べ終え、空になった皿。
そして、空になった皿を前にした男。
次の瞬間、その姿は蛍火のようにかき消えた。
あの人は、最期に一瞬でも幸せを感じることが出来たのだろうかと、私は考える。
気が弱く、損ばかりしていて、仕舞いにはようやく結婚した妻に逃げられ、たった一人で死んでいったあの人。
恐らく逃げた妻のお腹に自分の娘が宿っていたことも知らず、産まれた娘がどのように育ったかも知らず、実の父親がどんな人だったのかを知りたくて尋ねてきた娘に包丁を突きつけてまで、生前大好きだったであろう冷やし中華を食べたがったあの人。
住宅内に漂う異臭にもう一度顔を顰めてから、私は自分のバッグから携帯を取り出した。
そして、警察に電話した。