「老人タイムス」私説

昭和の一ケタ世代も高齢になりました。この世代が現在の世相をどう見て、考えているかーそのひとり言。

        65年前 京浜大空襲の頃

2010-04-15 06:48:24 | Weblog
昭和20年4月15日の日曜日の深夜、京浜地帯に202機のB-29が来襲、
1930㌧の爆弾、焼夷弾を投下した。当時僕は東京の目黒区に住んでいたが、
亡父の日記には”空襲の脅威を初めて感ずる”と記してある。3月10日の下町
大空襲は”対岸の火災”であったが、確かに僕も空襲がいよいよ身近に迫って
きたなと思った記憶がある。

この夜の空襲で僕が動員されていた六郷(大田区)の軍需工場も全焼した。交通
網がストップしたため、僕は翌日徒歩で7,8㌔はある工場まで通勤したが、工場
は跡形もなくなっていた。国鉄(当時)の蒲田駅周辺は焼け野原と化し、まだくすぶ
っていた。僕は仕事もなく、工場の食堂があった跡から焼け米を拾い、再び歩いて
家に帰った。

学校から次の動員指令があるまで、自宅で待機していたが、亡父の日記によると、
疎開(強制)してまもない家の庭で防空壕造りをしていた。壕と言っても深さが1・5
㍍ほどのちゃちなもので、直撃弾があればすっとんでしまったであろう。

東京への空襲は19年11月、グアム、サイパンからB-29の飛来が可能になって
から本格化し、終戦までに計106回もあった。5月23日夜の空襲では、わが家の
裏にも焼夷弾の破片が落下し消火活動したこともある。でも幸いにも被害にはあわず
こうして戦後65年も生きてこられた。

亡母と一緒にスコップで汗水たらして掘った防空壕の跡は今、駐車場になっている。こ
こを通るたびに過酷だった当時のことが想い出される。