「老人タイムス」私説

昭和の一ケタ世代も高齢になりました。この世代が現在の世相をどう見て、考えているかーそのひとり言。

            食糧難 電車通りを畑にした時代

2012-07-06 05:38:12 | Weblog
集合住宅の階下に住む娘婿がポットで丹精込めて作った茄子とトマトの初物を届けてきた。ポットはガレージ横隅の日当たりのよい場所に置かれている。ここは戦中戦後の食糧難の時代、亡き母が家庭菜園を作り、南瓜やトウモロコシを植えていた場所だ。猫の額ほどの狭い庭だったが、空襲の頃は防空壕も掘られていた想い出の場所でもある。

手元に昭和18年6月23日号の「写真週報」がある。戦争中内閣情報局が発行していた雑誌だが”寸土も耕せ食糧自給だ。電車通りにも畑を!”という見出しで、東京の日本橋の電車通りで市民が総出で畑造りをしている写真や麹町にあった農林大臣官邸の庭でつるはしをふるっている職員たちの姿がある(写真)

中学生であった僕らも、工場へ動員される前までは週に一回、多摩川の旧読売ジャイアンツ練習場近くの河川敷の学校農場へ出かけ野菜造りをした。僕の記憶では、トウモロコシやサツマイモ、南瓜などを作った。「写真週報」の記事にも”腹がへっては戦が出来ない、甘藷、大豆、蕎麦,ヒエ、腹の足しになるものは何でも造ろう”とある。想い出せばそんな時代であった。茄子とかトマトとかいった”腹の足しにならない”野菜はあまり作らなかった。

今、日本全国にある農業放棄地の面積は埼玉県ほどもあるという。それなのに東京ではポット野菜作りが流行している。このアンバランスが日本の現実の姿の一端でもある。しかし、70年前電車通りまで耕して”腹の足し”を生産した、あの時代から見ればはるかに幸せである。