「老人タイムス」私説

昭和の一ケタ世代も高齢になりました。この世代が現在の世相をどう見て、考えているかーそのひとり言。

             浅草合羽橋本通り商店街の七夕まつり

2012-07-07 18:15:02 | Weblog
母の37回忌法要のあと観音様の参拝に向かったら合羽橋本通り商店街恒例の七夕まつりに出くわした。狭い道の両側には食べ物や雑貨の出店でいっぱい。正面には話題のスカイ.ツリーの威容が目の前に迫ってみえる。まるで下町を彩る借景みたいだ。


             母の37回忌法要と無縁社会

2012-07-07 08:02:24 | Weblog
母の37回忌の法要を浅草の菩提寺で行い、そのあと家族で精進落ちの料理を食べながら故人を偲んだ。37年の月日の流れは早い。昭和51年7月、母は僕の転勤先の札幌で83歳で他界した。ロッキード事件で田中角栄総理が逮捕され、街には”泳げたいやきくん”のメロデイが流れていた年である。

東京生まれ東京育ちの僕は札幌には一人も縁者がいなかったが、勤務先の会社が葬儀一切を取引ってくれた。式場の寺の山門前には関係先の会社から贈られた花輪がずらりと並び、わが家にとっては破天荒の盛大な葬儀であった。札幌は全国各地から移住してきているので、葬儀の仕方も宗派によって違うが、共通しているのは葬儀のあとの香典返しがないことであった。これは恐らく開拓当時のしきたりが、そのまま引き継がれているのではないのだろうか。

最近、東京のような大都会では、葬儀の簡素化が進み「家族葬」の名のもとに宗教を排除した葬儀が流行っていると聞く。極端なケースでは”病院から火葬場そして、そのまま墓地へ”というのもあるという。僕はそれほど熱心な仏教徒ではないが、最近のこういった傾向に対しては反対である。たまたま僧籍にある旧友から、京都清水寺の森清範貫主がPHP誌に寄稿された一文が送られてきたので、ここに紹介しよう。

「仏教ではこの世と後世はつながっており、人は亡くなっても魂として生きると教えていますから、私たちは法事をおこない、お位牌の前で亡くなった人の魂を祈ります。いま無縁社会という言葉よく使われていますが、人は無縁で生きていける筈はありません」