「老人タイムス」私説

昭和の一ケタ世代も高齢になりました。この世代が現在の世相をどう見て、考えているかーそのひとり言。

「大東亜戦略指導大綱」に巻き込まれて70年、99歳日本女性の半生

2013-07-28 07:28:14 | Weblog
2年ぶりにジャカルタから帰国した長田周子さん(99)と東京でお会いした。長田さんの半生は日本.インドネシア裏面史そのままだ。僕は2011年6月、小ブログに「混乱の日イの歴史70年を生きて」と題して3回続きで彼女の半生を紹介したが、今年は彼女の混乱の裏面史のモメントとなった「大東亜政略指導大綱」策定から70年である。改めて、この大綱とは何だったか考えてみた。

長田周子さんは大正3年、山梨県の富豪の家に生まれ、当時の女性としては珍しく東京の女子大学に進学、在学中にセッツルメントを通じて日本に留学中のスマトラのダトゥ(地方の有力者)の息、マジッド.ウスマンさんと知り合い結婚した。昭和13年の事である。国際結婚はまだ珍しく、当時の婦人雑誌は”スマトラの青年と国を越えての愛”と大きく報道され話題となった。

長田さんは結婚して名前をシティ.アミナ.ウスマンと名前を変え、西スマトラのウスマンさんの郷里で幸せな結婚生活を送っていたが、昭和16年、大東亜戦争が勃発、ウスマンさん一家は夫人が日本人だという理由で蘭印当局に逮捕されてジャワに送られ抑留された。しかし、日本軍のジャワ上陸で救出されて故郷に帰った。ウスマンさんは独立運動の闘士として知られ、スマトラ駐留日本軍はスマトラに幽閉されていたスカルノ(初代大統領)と交換するような形でウスマンさんを迎えた。

西スマトラのウスマンさんの故郷に近い、ブキティンギに司令部を置く第25軍司令部の軍政はインドネシアの将来の独立に向かって、指導者ウスマンとの間で蜜月時代が続いたが、昭和18年5月「大東亜政略指導大綱」が発表されて一変した。その中で”マライ、スマトラ、ジャワ、ボルネオ、セレベスは帝国領土と決定し、重要資源として極力これが開発、並びに民心の把握に努める”ことが明らかにされて、住民の日本軍に対する態度に変化が出てきた。この大綱に基づき11月、東京で大東亜共栄圏会議が開かれたが、インドネシアは招かれなかった。

ウスマンさん一家は大東亜共栄圏会議を前にして矢野兼三西スマトラ州知事から「内閣情報員」の資格で日本行きを言われた。スマトラの軍政当局はウスマンさんの現地での影響力を危惧しての日本への”追放”だったわけだ。大綱が策定した時期は、日本は緒戦の勝ち戦さに酔っていた時期であった。。今思うと大綱は、もっと慎重な言葉使いをすべきであった。ウスマンさん一家は、大綱に翻弄されて、日本で空襲を体験、日本の敗戦でウスマンさんが故郷に帰ったのは昭和26年。その心労で翌年ウスマンさんは翌年早逝している。