10万人もの犠牲者を出した3月10日の下町大空襲の後、東京への敵機の襲来は日常化して来た。わが家は大空襲の後、強制疎開で五反田(品川区)から今住んでいる柿の木坂(目黒区)へ引っ越した。当時、柿の木坂はまだ田畑もある郊外だったが4月15日と5月24日と二回、亡父の日記の表現を借りれば”脅威”を感じ、実際に落ちてきた焼夷弾の破片を”火たたき”で消火している。
5月24日の空襲は24日といっても午前1時5分空襲警報発令、同4時20分解除だったが、亡父は午前8時、睡眠不足”頭脳朦朧の中”で、東横線がスットプしていたため、渋谷まで歩き、動いていた地下鉄で勤務先の虎ノ門へ出勤している。帰りは渋谷から玉電にのり家の近くの上馬駅から歩いて帰宅している。
東京では25日深夜(午後10時20分―26日午前零時40分)24日にも増す大空襲があり、渋谷、原宿、新宿を中心に3千人もの犠牲者を出しているが、亡父の日記はこれについて記述はなく、26日の欄に”渋谷まで徒歩で行き、駅周辺、東横百貨店まで一面も焼野原に驚き、全都交通網全滅を知り、渋谷から虎ノ門ま出歩く”と記している。
こんな状態が数日間続き27日の日記には”ラジオも新聞もない、真っ暗闇の生活だったが、”今日から五社共同新聞が発行される”という記述あって、やっと情報インフラの一部が回復した。思えば大変な1週間であった。今でも、この二つの空襲を混同している都民もいる。