「老人タイムス」私説

昭和の一ケタ世代も高齢になりました。この世代が現在の世相をどう見て、考えているかーそのひとり言。

何故政治に無関心なのか 投票率の低さ

2013-07-22 05:39:09 | Weblog
参院選の結果は自民公の地すべり的勝利に終わった。これで今後最低3年間、参院でもねじりが解消されて安定が確保され、長期政権が担保された。万々歳である。しかし、大変気になるのは投票率が前回の57.9%をはるかに下回り52.6%と、史上最低だった1995年の44.5%に迫る低さであった。この投票率の低さが、選挙にどう影響しているのか判らないが、有権者のほぼ二人に一人が、選挙権を放棄しているのは忌忌しい問題である。

投票率の低さは2010年までの直近5年間をみても50%後半で、国民は”なれっこ”現象になってしまったのであろうか。僕が最初に選挙権を行使した昭和26年10月の総選挙の投票率は76.43%で、昭和30-40年代は投票率が60%を下回ることなどなかった。”なれっこ”現象とはおそろしい。昨夕7時のNHKテレビのニュースを見ていたら、まだ投票まで1時間もあるのに、投票率の低さを伝えながら”投票しよう”という呼びかけは一言もなかった。

投票率の低さは、やはり政党の無責任さにあるのではないか。とくに民主党が口から出まかせともとれる”マニュアル”で国民を騙した責任は大きいのではないか。民主党がマニュアルによって、これまで政治に無関心だった無党派層の政治への関心を喚起した功績はあったが、その反動も大きかった。多分、民主党に”騙された”無党派層は、投票に行かなかったに違いない。

自民公与党の勝利で政治基盤が安定した。安倍政権はこれをバックに強力なリーダーシップで政治を推進してもらいたい。憲法改正もその一つだ。政治に無関心な層も、必然的についてこよう。



国民には理解できない東電の管理職への一時金

2013-07-21 06:41:21 | Weblog
これほど最近理解できない話はない。東京電力が約5千人の管理職に、今月の給料の際、一人当たり10万円上乗せして支給するというのだ。その理由は福島原発の補償に当たって、給与の3割カットをしたため、管理職の退職が続出したため、これ以上の流出を防ぐための策だという。東電社員の平均給与は事故前700万円を超えており、3割カットしても500万円前後、管理職ならもっと高額の給与に違いない。

東電は東日本大震災の犠牲企業であり、一方的に責めるつもりはないが、原発事故後とった東電の対策はあまりにもおかしい。その第一は、事故発生日、平日なのに当時の社長が、家族連れで奈良観光をしており、東京に帰らず、そのまま国民の前に姿をみせず”雲隠れ”(ワシントン.ポスト)してしまった。さらに首都圏では突然、電力不足を理由に無計画な”計画停電”を実施して、首都圏を混乱に陥れた。

原発事故から、すでに2年5か月も経ったのに、事故被害者に対する補償もスムーズに進んでいないという。そして、10万人以上の方が依然として避難生活を余儀なくされている。東電は今、事実上国の管理下にある企業だ。にもかかわらず、管理職退職への引き留め策として、一時金を支給するのは、だれが考えてもおかしい。

一方、広瀬正巳東電社長は、最近の記者会見で柏崎刈羽原発の再稼働が認可されなければ、電気料金を再度値上げせざるをえないと匂わせている。政府の原子力政策への圧力ともとれる発言だ。企業のトップとしては当然な発言かもしれないが、自社の管理職への一時金支給といい、あまりにも、国民を無視した施策である、昔からの”お殿さま”企業の体質そのままだ。

対人対応マナーが欠落してきた時代

2013-07-20 06:41:40 | Weblog
昨日、デパートの食堂で大正生れの先輩から天麩羅料理をご馳走になり、世間話をした。そのさい温厚な先輩が、貴重な戦争中の記録をブログで知り合った人に送ったが、2週間たっても着いたとも、なんとも言ってこないと、顔をしかめていた。たまたま、僕も同じような体験ををしていた。小ブログのコメントの書き込みで、昔の写真を見たいというので、相手が大新聞の記者だというのを信用して、着払いで、その新聞社宛てに送った。しかし、全くなしのつぶてである。

先輩の話を聞いて僕は心配になった。僕にとっては貴重なアルバムなので、先日来、FAXとメールで返却を依頼してきたが返事がない。もしかすると、アルバムが着いていなかったのではないかと心配となり、参院選挙で忙しいと思い、直接電話をさけていたのだが、ついに意を決して電話をしてみた。相手は謝罪したが、今は昔と違って、いくらでも通信手段はあるはずだ。メールで一言”受け取りました”と送ってくれば良いのである。

小ブログに対して、おかしなtwitterやfacebookのコメントが往き交っているのは承知している。こんな80歳過ぎの老人が書いたものに反応して貰って有り難いと思っている。しかし、こんな輩に限ってネットによるマナーを知らない。多分、上記した新聞社の記者や、先輩から貴重な資料を返却しない輩と同じに違いない。たまたま新聞広告をみたら”○○新聞社は何故反日なのか”というのがあった。○○新聞社とは僕に迷惑をかけた新聞社である。

インドネシア版お好み焼きと池波正太郎のドンドン焼き

2013-07-19 06:37:43 | Weblog
友人の女性が横浜市上大岡の京急デパートの催事場で、インドネシア版お好み焼き、マルタバ(Martabak )の造り方教室を開いた。マルタバはアラビア語で”折りたたむ”という意味で、多少、材料や作り方には違いはあるが、インドネシアだけではなく、サウジアラビア、イエメン、インド、マレーシア、シンガポールにもある鉄板焼き料理である。

インドネシアでは普通、マルタバ,トゥルールとマルタバ.マニスの二種類あって、いずれも夜店(パッサール.マラム)の屋台で売られている。”トゥルール”は卵の意味で、小麦粉の皮に卵をいれて鉄板上で延すばし、具にはお好みによって、野菜や肉のミンチなどを使う。一方、”マニス”は甘いという意味で、小麦粉で延した皮の中に餡や蜂蜜などを包みこむ。夜店にはつきものの庶民食である。

戦前の東京の下町では、お好み焼きのことをドンドン焼きといった。作家、池波正太郎は「食卓の状況」の中で”下町で生まれ育った者にとってドンドン焼きほど郷愁をそそるものはない”と書いている。僕は戦前昭和の時代、下町ではないが目黒川沿いの五反田に住んでいたが、駄菓子屋で、ドンドン焼きを食べた想い出があり、やはり郷愁をそそらえる一人だ。

僕が駄菓子屋の鉄板上で食べたドンドン焼きの一つは、まさにインドネシアのマルタバ,マニスと同じだ。まだ幼かったため、割烹着を着た駄菓子屋のおかみさんが手際よく作ってくれたが、その美味しかった味は今でも忘れられない。

今、東京では下町を中心に”もんじゃ焼き”が流行しているが、食通の池波の本にも出てこないし、僕も食べたことがない。不思議だ。いずれにせよお好み焼きもマルタバも自然発生的にうまれた庶民食だ。気取って食べる物ではない。

「五勝手屋羊羹」「北の恋人」「マルセイ.サンド」「わかさイモ」etc

2013-07-18 06:12:14 | Weblog
娘むこが連休を利用して故郷函館のクラス会に参加してきた。その土産の一つに僕の所望で道南江差の五勝手屋の羊羹を買ってきてくれた。明治3年創業の老舗の羊羹で、昔から丸い容器に入って、一口づつ、容器についている糸で切って食べる。昔は、こうした仕掛けで食べる羊羹が全国各地にあったが、今は少なくなり、戦前昭和の少年の郷愁を誘う。

北海道の土産物の銘菓ナンバー.ワンといえば、今や札幌の「北の恋人」である。台湾、韓国、東南アジアの観光客の土産物の定番になっているそうだ。この「北の恋人」は昭和51年に発売されている。僕は昭和47年の札幌冬の五輪の年から56年まで札幌に在勤していたから「北の恋人」というネーミングが、札幌五輪で沸き立っていた当時の北海道の雰囲気にピタリだったと懐かしく感じる。

当時、東京に帰国する際の土産物は、新鮮な海産物や農産物には事かかなかったが、ちょっとした手土産はあまりなかった。札幌の「山親父」(熊)といった甘い煎餅や函館トラピスト修道院製のクッキー、洞爺の「わかさイモ」、北見の「ハッカ豆」が主流だったようだ。ところが、今や新札幌空港の待合室の売店では、なにを選んだらよいか困るほどだ。

「北の恋人」と並んで人気のある六花亭の「マルセイ.サンド」も、昔、僕がいた頃は札幌ではそんなに有名ではなかった。”マルセイ”とは○の中に「成」の字を書く。「成」は十勝地方の開拓者、依田勉三が作った開拓団体「晩成社」に由来するものだそうだ。由来から見ても、元は十勝地方限定の銘菓だったが、今や札幌,函館などの大型売店には観光バスが停まるほどだという。

北海道は観光資源に恵まれている。土産物ももっと開拓の余地がある。ハスカップで作った苫小牧限定の菓子「よいとまけ」が、昨年の紅白で美輪明宏が歌って話題になった「よいとまけの唄」で、脚光をあびて原宿にまで進出したとのこと。低空飛行を続ける北海道経済にはよいことだ。

自由が丘の無人スタンドからも100円野菜が消えた。

2013-07-17 05:35:55 | Weblog
首都圏はこのところの猛暑続きで野菜の値段が高騰している。駅前スーパーの朝刊折り込みチラシを見たら”お野菜大放出! ジャガイモ、玉ねぎ、にんじん、ピーマン、大葉各一点29円、よりどり四点97円”とあった。安いのか高いのか判らなが、随分、せこい商法だ。いずれにせよ例年に比べて、トマト、レタスなどは2倍もし家計を直撃している。

しからば、地元の農家の無人スタンドはどうなのか。野次馬根性と運動を兼ねて、自由が丘の店をのぞいてみた。老妻から葉物野菜があったら買ってこいと、厳命を受けたが季節的なことあってない。店にならんんでいたのは、トマト、なす、ゴーヤ、冬瓜(とーがん)馬鈴薯など。僕は初物の冬瓜とトマト、ナスを買って帰った。合計600円也だ。昨年までは、この無人スタンドにも、1パック100円の野菜もあったが、昨日は一つも並んでいなかった。

夏のこの季節になると、いつも戦中戦後の食糧難時代が想い出される。猫の額みたいな庭を開墾してカボチャの蔓を張らしたが、出来たのはうらなりで水っぽかったが、腹の足しにはなった。週に数回、亡母がリュックを背負って、当時は農家もあった元住吉(神奈川県)まで電車に乗って買い出しに出かけていた。今は、高くてもカネを出せば買える時代である。あの時代はそうではなかった。勤労動員先の江戸川運河近くの農家の畑から人参を盗んで食べたこともあった。68年前の今頃である。

軍人恩給受給者への医療窓口三割負担はおかしい

2013-07-16 06:38:10 | Weblog
93歳の一人暮らしの友人に用事があって家に電話をしたが、いつかけても応答がない。心配になって彼が住む地域のケア.マネージャーに連絡を取ったところ、6月末から近所の病院に入院中だという。僕は彼がマンションの一室に独りで住んでおり、多少認知症の傾向が出てきたので、先日、担当者と成人後見人制度について話し合ったばかりだった。

友人は生涯独身で、九州出身者なので東京には親類縁者がいない。僕は大学時代のクラスメートだが、年齢は僕より一回り近く上だ。大正9年生まれで、昭和16年、大東亜戦争が始まった年の現役兵で、戦争と共にフィリピン上陸作戦、ついでスラバヤ上陸作戦にも参加、戦争中は南方各地を転戦し、戦後22年復員するまで5年余り戦地にいた。この結果、戦後の学制改革もあって大学卒業時の年齢は32歳であった。

大学時代は進駐軍のキャンプでバーテンダーをしながら苦学したが、就職難時代にぶつかり、彼がようやく定職についたのは35歳をすぎてからであった。55歳の定年までマスコミの会社で働き、そのあと大学院で勉強しなおし、私学の大学で70歳まで教鞭をとった。この経歴でもわかるように厚生年金保険の有資格者であり、軍人恩給の有資格者で もある。この結果なのだろう。年間の累計所得が一定額をこえて、彼の後期高齢者医療の窓口負担は三割である。

都内の病院に彼を見舞った。独り暮らしをしていた時に比べて顔色もよく元気に見えた。しかし認知症の症状は進んでいた。立派な個室の病室にいて福祉的には恵まれているが、何か僕には一つひっかかかるものがある。それは若い時代5年余りも戦地で国のために働きながら、90歳を越えながら、まだ”現役並み”に後期高齢者医療保険の窓口保険を三割徴収されていることだ。軍人恩給は厚生年金とは性質が違うものと思うのだが。

海が嫌いになった海洋日本の子供たち

2013-07-15 06:13:07 | Weblog
今日7月15日は”今年”の「海の日」の国民の祝日である。”ハッピ―.マンディ”制導入までは、たしか昔の「海の記念日」の7月21日に固定されていて、僕もそれなりに、記念日の意義を知り覚えていたものだが、最近は老いもあってか、まったく何の祝日なのかわからなくなってきた。「海の記念日」は、もともと明治天皇が明治丸に乗って東北北海道巡幸を終えて無事横浜港にお帰えりになったのを記念して、戦争中の昭和16年(1942年)に制定された。

「海の記念日」が制定された当時のことを子供ながらに僕は覚えている。米英との戦争近しの空気の中で”海洋日本”が強く叫ばれていた。東京の国民学校の部活動は武道(柔道か剣道)か少年団(ボーイ.スカウト)に限られていた。その少年団活動の一つとして「海洋少年団」もあり、僕は確か、お台場の一つにあった海洋少年団の水泳道場に通った。

そんな時代に育った僕なのか、先日の産経新聞で、子供たちの”海離れ”を特集しているのを読んで驚いた。最近の子供たちは海水浴で身体がベタベタになるのが嫌いなのだという。日本生産性本部の「レジャー白書」によると、昭和62,63年度の海水浴客は年間3,200万もあったのに東北大震災のあった平成23年には1,480万人に激減している。公教育でも臨海学校は危険”だという風潮から敬遠されている。そういえば孫二人も臨海学校の経験がない。

子供だった時代”日本は四方海に囲まれている”-と海の大切さ教育された。ところが今は「海の日」があっても”海”の大切を考える国民は少ない。領海内近くに他国の船が、ウロチョロしても新聞はベタ記事にしか扱わない。せめて「海の日」ぐらい国をあげて海の大切さを考える日にしたいものだ。

88歳元インドネシア義勇軍兵士からのメールの猛暑見舞

2013-07-14 07:55:19 | Weblog
インドネシアの友人バンバン.プルノモさん(88)からメールで猛暑見舞が届いた。プルノモさんは中部ジャワのテマングンという人口20万人たらずの山間の町に住んでいるが、日本のこのところの猛暑は、こんな遠隔地にまで伝わっているのだ。ジャワは常夏の地だが、気温が連日35℃を超すことなどないのではないかー。

小ブログは何回かプルノモさんを紹介したが、彼の実兄はバンバン.スゲンさんといい、インドネシアの参謀総長から駐日大使までした有名人だ。プルノモさん自身も、日本統治下での義勇軍兵士だっ人だ。プルノモさんは現在自宅で「Yuko Teragoya」(友好寺子屋)=写真=という私塾を開き、若い人に日本語を教えている。プルノモさんは10年ほど前から本格的に日本語を勉強しなおし、この塾を開いたが、お世辞にも日本画は上手とは言えない。しかし、彼が義勇軍時代に叩き込まれた”大和魂”を徹底的に今のインドネシアの若い人たちに教えている。彼の持論は日本の軍政がなかったら、今のインドネシアはなかった、というものだ。

テマングン市内のコデクの丘には、敗戦時この町に駐屯していた第48師団磨(みがき)大隊が復員のさい「萬邦大結」という石碑を記念に残してきた。独立戦争の混乱でこの碑は一時不明になっていたが、その後川の中から発見されて、今は日イ関係者の募金でガラス張りの小屋に収められコデクの丘に建っている。

残念ながら、最近は月日の経過で「萬邦大結」を訪れる日本人の数も減ってきたようだ。関心のある方は、Bambang.Purnomoさんに英語かインドネシア語で激励と感謝のメールを送ってください
bambang.terakoya@gmail.com

団塊ジュニア世代との対話

2013-07-13 05:46:19 | Weblog
今月になってまったく偶然なのだが、インターネットを通じて知り合った、いわゆる団塊ジュニア世代二人と直接話し合う機会があった。小ブログにコメントを寄せてくれたお二人だが、一人は昭和49年(1974年)、もう一人は52年生まれで、僕の末子(40年生まれ)より若い人たちだ。老人になると、それでなくとも社会との接点が少ないだけに、こういった若い人との対話は新鮮で、脳の刺激になった。

団塊ジュニア世代とはwikepediaの定義によると、両親が団塊世代で、年間の出産数が200万人を越えた、第二次ベビー.ブームの時代に生まれた世代である。時代的にみると、1973年の石油危機で、いちおう高度成長期が終わり経済安定期に入った時代に幼少期をを迎え。、高校大学時代はバブルを体験している。そして、その後バブルがはじけて就職氷河期の最中に社会に出ている。

僕の周囲には一人も団塊ジュニアがいないが、なんとはなく”団塊”という言葉から、団塊世代の”自分勝手”という悪いイメージが先行し、そのジュニア世代も同じような印象があった。しかし、先日来会った二人は全く違っていた。二人の共通点は、いわゆるサリーマンではなく、自分で独立した生活を営んでいる事もあってしっかりしている。それに何より感心したのは礼儀正しいことであった。

先の民主党政権のリーダーの多くが、時代的な遭遇もあって鳩山、菅両総理が代表する団塊世代であった。小沢一郎氏も戦中生れだが、団塊世代に近い全共闘世代であった。この世代が日本の中枢にいる時が、日本の国難だといった先輩がいたが、まさにその通りであった。団塊は団塊でも、ジュニアは大丈夫である。これが二人とあった僕の印象だ。