「老人タイムス」私説

昭和の一ケタ世代も高齢になりました。この世代が現在の世相をどう見て、考えているかーそのひとり言。

「一筆多論」 インドネシア独立宣言の皇紀使用

2015-05-10 06:22:57 | Weblog
産経新聞(5月9日首都圏版)6面オピ二ニオン欄「一筆多論」の中で筆者の論説委員氏が、インドネシア独立宣言の起草日時”17-8-’05”の問題に触れ「スカルノ(初代大統領)らが、強制されていないのに(日本の皇紀を意味する)”17-8-’05”を使用した意味は重い”と評価していた。”17-8-’05”の”’05”は、皇紀2605年の略であり、インドネシアが何故これを使用したかについては、日本の研究者の間で、古くから色々な解釈がある。平成13年に日本で公開された日本の映画には「ムルデカ(独立)17805」(東宝配給)というのもあった。この映画の宣伝文には”17805の使用はスカルノらが日本に敬意を表したからだ”とあった。

インドネシアでは公式文書でも学校の教科書でも”17-8-’05”は使用されていない。国民のほとんどが、この問題について知らない。普通は西暦の1945年を使っている。自国の独立に対して、外国の介入を示唆するような文言は誰でも嫌うのは当然だ。それも、はっきりした理由からスカルノらが”17-08-’5”を使用したという証拠があるわけではない。推測にすぎないのだ。

インドネシア独立文書の起草に立ち会った日本人の一人、海軍武官府の嘱託、西嶋重忠氏(故人)は、著書「証言 インドンシア独立革命」(新人物往来社 昭和50年)の中で、起草文の書かれた前夜の慌ただしい前田精武官邸の模様に触れながら、”17-8-’05”の問題について”我々は誰もこれに気がつかなかった”と証言している。起草直前、スカルノやハッタ(初代副大統領)が、青年強硬派によって拉致され、限られた時間の中での起草であった。スカルノ、ハッタの名前による宣言文だが、文書には二人の署名さえない。軍政下では、公式文書には皇紀の使用が決まっており、慌ただしい空気の中で、だれもそこまで気がつかなかったのは理解できる。

映画ムルデカはインドネシア軍の協力もあって制作された大作だが、公開直前,試写を見た在日大使館から、内容の一部が”歴史の真実を反映していない”とクレームがついた。制作関係者は、インドネシアでも公開を見込んでいたが、中止になった。映画の制作に關係していた日本人が、”17-8-”05”問題でも、日本側の関与を必要以上に強調していた人たちであった。

文化遺産と韓国の観光競争力29位

2015-05-09 05:51:34 | Weblog
台北にある中華民国(台湾)総統部の建物は、日本が統治していた大正8年(1918年)に建てられたものである。日本時代は総督府の建物として使われていたが、戦後は蒋介石総統が政府の建物として使用、現在も使われている。4年後には完成百年になるが、先年、僕は観光旅行で同地を訪れ、その豪華な建物に目をみはった。台湾がこれをユネスコの文化遺産に登録するかどうか知らないが、「日本統治時代の建築物」として、その価値は十分にある。

わが国が「明治日本産業遺産」をイコモス(国際記念物遺跡会議)にユネスコ文化遺産に勧告したことについて韓国が、お見当違いの文句をつけているが、その韓国にも、最近まで日本統治時代の大正15年{1926年)に建てられた朝鮮総督府の建物があり、戦後も博物館として使用されていた。ところが平成7年(1995年)、日本植民地主義の”象徴”だとして壊されてしまった。

たまたま新聞に世界フォーラム{WFF}が発表した、世界の「旅行観光競争力」報告書が載っていた。これによると、我が国は、前回(2013年)の11位から9位に躍進、1位から10位まで、すべて欧米諸国の中にあって、ただ一か国ベストテンに入っている。これに対して韓国は27位から29位に順位を下げ、アジアでは中国、香港、マレーシア以下である。理由はよく判らないが「自然文化資源」(Natural Cultural Resoueces)の部門で日本は11位なのに対して韓国は22位である。

台湾には、旧総督府建物のほか旧法院(司法院)旧台湾銀行など、日本統治時代の建物が残存し,現役として使用されている。これに対して韓国の場合は、戦後の動乱で京城(ソウル)時代の建物が破壊されたこともあるが、高度成長の際、歴史遺産の保存に配慮しなかったのも原因しているらしい。日本時代の刑務所が博物館として残っているが、反日展示では、観光資源としては、どんなものであろうかー。

反原発とCO2(二酸化炭素)濃度400PPMの矛盾

2015-05-08 05:15:20 | Weblog
大型連休中の「子供の日」に東京の霞が関.通産省前で反原発を唱え座り込み中のテントに対して、”突撃ラッパ”を吹いて「右翼」の男が突入し、警察に逮捕されたニュースをネットで知った。民主党政権時、閣僚がこのテントを訪れたのを知っていたが、いまなお座り込みを続けていたのには驚いた。調べてみたら、裁判所は一審も二審も国の訴えを入れ、テントの撤去を命じているが、最高裁の決定待ちて、抗争中なのだそうだ。法治国家なので仕方がないが、動画をみると、まるでホームレスのテントみたいで汚い。

米国海洋大気局{NOAA}が世界の大気中のCO2濃度が世界40か所の観測所で、3月初め、危険数値の400PPMを超えたと発表した。CO2の排出量は地球温暖化の原因とされ、その規制をめぐって、今年末までに世界的な規制枠組みをつくり、2020年実施を目指している。世界最大の排出国米中二か国は、昨年その量について合意しているが、国際的な合意が得られるかどうかだ。

わが国は2009年、当時の鳩山由紀夫首相が、国連で排出量を2020年までに1999年比、25パーセントに削減すると出来もしない国際約束してしまった。その後福島原発事故もあって、とうてい実現不可能であり、逆に火力発電への依存度が高まり、CO2排出量は増えてきている。現在、わが国の原発は稼働していないが、いつまで、この状態が続くのは不可能である。口で原発中止を唱えるのは簡単である。しかし、地球温暖化現象に対して、人類としていかに対処すべきかである。

無責任なノーベル賞作家の発言といい、あまりにも単純な日本人が多すぎる。最高裁は一日も早く、国有地を占拠する”無法な”行為を排除すべきである。

”箱根の山は天下の険”

2015-05-07 05:41:32 | Weblog
先日、老人会でボランティア女性二人のフルートに合わせて僕は「中学唱歌」箱根八里を”朗々”と歌って会場をわかせた!?。”箱根の山は天下の険 函谷関も物ならず 万丈の山 千刃の谷”で始まる「箱根八里」(作詞 鳥居忱 作曲 滝廉太郎)は、歌詞は漢詩や中国の故事を駆使していて、子供には難解だが、勇壮なメロディで僕の愛唱歌の一つである。

首都圏居住者にとって箱根は最も身近な観光地である。僕のアルバムにも昭和9年、両親と元治元年生まれの母方の祖母と一緒に旅した時の箱根神社前の記念写真が残っている。以来、80年近く何回ともなく箱根に旅しているが、今回のように大涌谷地域限定というものの、警告レベルが1から2に引き上げられたのは、あまり、僕の記憶にはない。

たしかに箱根の山は火山なのだが、過去に噴火したという歴史的記録がないため、僕らは忘れがちだが、なん千年、なん万年単位でとらえれば、いつ噴火してもおかしくない。1991年6月、フィリピンのピナトゥボ火山が400年ぶりに大噴火した例もある。噴火前のピナトゥボ山は、熱帯雨林に覆われた普通の山であった。幸いピナトゥボの場合は噴火の前年、周辺でM7.8の大地震があり、ある程度噴火は予測されていたそうだが。

地震とか火山噴火については、全く素人だが、東日本大震災のように予測を越えた自然災害もある。歴史的な記録がないといって油断してはいけない。昨年の御嶽山のような例もある。これから夏の観光シーズンを控えて、関係者は大変だが、やはり人命が大切である。天変地異の多い、この国の宿命なのかもしれない。

韓国の”いちゃもん” 国民徴用令と世界文化遺産 

2015-05-06 05:47:33 | Weblog
北海道の道央道の苫小牧市内に三軒茶屋というICがある。その地名の由来を知る人は少ないが、戦時中の昭和18年、東京世田谷の三軒茶屋商店街の人たちが国家徴用令に基づき、ここに入植した跡地である。国家徴用令は14年7月、戦時下の重要産業の就業人員確保のため、政府が国民を徴用できるという法律で、戦争が激化した18年、9年になると、東京の商店街の中には、満州や北海道の開拓へ街を上げて入植した。

韓国のメディアが、日本政府が「明治日本の産業遺産」をユネスコの世界遺産としてイコモス(国際記念物遺跡会議)に勧告したことに”いちゃもん”つけている。その理由は、23か所の遺産のうち7か所は、日本の植民地時代、徴用工として朝鮮半島から強制徴用された6万人の犠牲の上に建てられたといのである。国家徴用令が朝鮮半島出身者にも適用されたのは19年9月からであって、わが国が朝鮮半島を併合したのは、明治43年(1910年)だが、産業遺産はすべて、併合以前のもので、もちろん、徴用制度などなかった。

韓国のメディアは、日韓併合時代の歴史について勉強不足である。”従軍慰安婦”と女子挺身隊との混同もそうである。すこし、あの時代の歴史を紐解けば解かるはずだが、いまだに在ソウル日本大使館前でデモをしているグループは”挺身隊”を名乗っているそうである。戦争末期、朝鮮半島から大勢の徴用工が来日したの事実である。僕が動員されていた軍需工場にも半島出身者が働いていた。しかし当時は半島出身者だけでなく、日本人はすべて戦争遂行のため徴用されていた。しかし、これは「明治日本の産業遺産」とは、全く関係のない話である。

"ごっこ”遊びがなくなった!

2015-05-05 05:36:33 | Weblog
昭和10年代、僕が小学生だった時代は”ごっこ”遊びが色々とあった。”ごっこ”遊びとは”ある物事の真似をする”こと(広辞林)。ちょっと想い出しただけでも”電車ごっこ””チャンバラごっこ””鬼ごっこ””お医者さんごっこ””兵隊ごっこ”-etcと懐かしい。”ママごと”もこの範疇の一つであろう。

その中でも”兵隊ごっこ”は僕らにとっては忘れられない。昭和12年、小学校に入学した僕らの世代にとっては、文字通り”銃後の青少年”であり、遊びにも戦争が反映されてた。ガキ大将の呼びかけで、僕たちは原っぱ脇の崖下に掘られた”兵舎”に入隊、日ぐらし、”兵隊ごっこ”に興じた。捕虜にされたものは、”支那兵”みたいに服を後ろ前に着せられ、縄で数珠つなぎにされたりした。日本軍は木刀を持っていたが、”支那兵”は、棒きれの青竜刀であった。

街の至る所に、ローセキで書かれた線路が続き、縄で囲んだ電車が幼い子供をお客にして走り回っていた。原っぱの片隅には女の子たちが、地べたにゴザを敷き”ままごと”遊びをしていた。東京の区部でも、まだ原っぱがあり、自動車の往来も少なかった。僕らは、西の空に夕日が沈み、母親が夕飯だよと呼びにくるまで遊んだものだ。

”ごっこ”遊びが子供の世界から来てからひさしい。”ごっこ”は大人の社会を遊びを通じて自然に学習する遊びだという学者もいる。そういえば、最近の事件の中には、あまりにも子供じみたものがある。子供のときに”ごっこ”遊びをしなかった、そのツケなのであろうか。子供の日でも、家の周囲には子供の遊ぶ姿はない。

理解できるフジテレビの「ワイドナショー」の低視聴率

2015-05-04 05:31:25 | Weblog
連休初日の昨日、ツレツレなるままにテレビをつけたら、報道番組の鳥越俊太郎がうつった。僕は、自分の専門外のことまで”したり顔”して解説するコメンテーターは、あまり好きでないので、チャンネルを切り替えようとしたところ、同じ画面にお笑いの松本人志や武井壮の顔もみえる。”対比”の面白さにつられて、そのまま見続けたが、これがフジテレビ低視聴率の象徴ともいえる「ワイドナショー」であった。

暫らく参考までに、お付き合いしたが確かにひどすぎる。松本人志が先の安倍総理の訪米は、親分(米国)の所へ杯(杯)を貰いに行ったようなもの。米国はウルトラマンで、日本はライダーマンだという。アニメ好きの同世代人には理解できるのかもしれないが、僕にはさっぱりわからない。それ以前の問題として画面の容姿が汚すぎる。それに言動が親分ビートタケシの物まねである。

スポーツマン出の武井壮に至っては、鳥越俊太郎もあきれ顔していたが、真面目な顔をして政治家試験制度を提案していた。その昔民放に10年間ほど席を置いたとき、上司から番組つくりはの秘訣は、”ミーハ―”的センス、つまり自分の視線でつくってはいけないといわれた。多分「ワイドナショー」の製作者も、そうなのだろう。さもなければ難関の試験を突破してテレビ局には入れない。

言葉は悪いが、鳥越俊太郎も落ちたものだ。たんなるタレントではない。その昔、テレビの創生期(昭和31年)評論家の大宅壮一が”テレビ総白痴”論の警鐘を鳴らしたが「ワイドナショー」は、まさにその典型である。4月の大幅番組改編で、フジテレビは報道番組にテコいれしたが、どれも低視聴率だという。「ワイドナショー」を垣間見て、理解できる気がした。

「平和憲法」が施行された時代

2015-05-03 05:35:51 | Weblog
今日5月3日は国民の祝日「国民記念日」である。昭和23年制定の祝日法によれば”日本国憲法(22年5月3日施行)を記念して、国の成長を期する”ことを趣旨とした祝日である。今年で68回目だが、今年もこの憲法改正を巡って国民の意見が割れている。"国の成長を期して”制定された憲法ではなかったのかー。成長に反するのであれば改正しなければならないし、やはり決着をつける時にきているように思えるのだが。

朝日新聞が最近行った郵送によるアンケート調査によると、憲法改正不要が48パーセント、必要が43パーセントで、ほぼ意見は半ばしている。1980年代の中曽根内閣時代には改正反対が大きく上回っていたそうだから、国民の考え方も変わってきた。そんな中で安倍内閣が憲法改正の布石ともいえる集団的自衛権行使について閣議決定し、国会で採決する運びになっている。僕は流れとしては、それでよいと思っている。

新憲法が施行された時、僕は旧制中学5年(高校2年)だったが、戦争放棄を規定した、画期的な「平和憲法」に誇りを持った。敗戦から2年、世の中あげて平和への願望が強かった。原爆被災の広島、長崎をはじめ戦災を受けた街の公園や通りの名前には「平和」がつけられ、煙草の名前まで「ピース」(平和)、学校名まで「平和」がつけられた。

憲法改正反対論者の中には、改正によってわが国が再び戦争への道を歩み出し、徴兵制になるのではないかと心配している。しかし、あの悲惨な戦争を体験している日本人はそんなに愚かではないと僕は思っている。戦後70年、時代が変化し”国の成長に期する”と思った中にも、そうではなくなってきたものもある。今日も各地で改正の是非をめぐって”実のない”集会が開かれるが、あまり意味がない。

石川啄木の「あこがれ」と日露戦争 

2015-05-02 05:58:26 | Weblog
親友(故人)の夫人に誘われて昨日、老妻と共に目黒区駒場の旧前田侯爵邸内の一角にある近代文学館で開催中の「少年少女雑誌にみる近代」展を見学してきた。同じ区内に住みながら、今まで一度も訪れる機会がなかったが、さすが加賀百万石の殿様の屋敷跡だけに豪華な建物も広大な庭園も一見の価値は十分にあった。

戦争中”銃後の小国民”だった同世代の僕らは、戦前の童謡雑誌「赤い鳥」から戦中の勇ましい少年少女雑誌まで懐かしく拝見、参観記念として一枚の絵葉書を貰った。葉書には昔の古い書体で「新體詩集 あこがれ 石川啄木著 文学士 上田敏書序 與謝野鐵幹書跋」と書かれた啄木の処女詩集(明治38年5月出版)の表紙が印刷されてあった。

啄木が岩手県の渋民村から”笈を背負って”19歳で上京した年の出版である。序文を書いた与謝野鉄幹は32歳、上田敏は31歳である。東北から上京したばかりの青年が、どのようにして多分、その時代には有名人だった与謝野や上田と知り合い序文まで書いて貰ったのか―。今の時代では考えられないことだ。

もう一つ、僕が注目したのは詩集の発刊が明治38年5月、あの”皇国の興廃、この一戦にあり”の日本海海戦があった同じ月である。大東亜戦争を体験している世代にとっては、想像がつかない。戦争の規模や大きさが違っていたのであろうかー。

前田邸の最後の所有者、前田利為侯爵は、戦時中、陸軍司令長官として英領ボルネオ、ラブハン島で飛行機事故で戦死されている。最近、僕はこのことを本に書いたばかりなだけに、前田侯爵邸を見学して不思議な縁を感じた。また一枚の啄木の絵葉書から日露の役を想起するなど、僕らの世代の悲しいサガなのかもしれない。






武田薬「アクトス」28000億円和解 日本では

2015-05-01 15:39:16 | Weblog
糖尿病治療薬「アクトス」を服用して膀胱ガンになったという米国の患者の訴訟を受けて、製造販売元の武田薬品が先日、原告団に対して2800億円を支払う和解に応じた。同社はこの結果、業績予想の最終損益が1450億円の赤字となり、昭和24年の上場以来初めて赤字に転落となる。僕はこのことを新聞の経済欄で読んで知ったが、医学的にはどうなのかー。新聞は触れていない。

{アクトス」と膀胱ガンとの因果関係については、すでに10数年前、フランスが疫学的に”黒”と認定し製造販売を禁止していつ。米国でも各地で訴訟が続発している。にも拘らず厚労省が「アクトス」について発売禁止したという話は聞いたことがない。今回、武田薬品は和解に応じて文書を発表しているが、依然、自説の正しさを主張しており”患者さんに対して革新的な治療薬の開発に一層注力すると述べている。つまり、今まで通り「アクトス}の発売を続けるということだ。

2010年の1月と6月、僕は膀胱ガンで2回、患部の切除手術のため入院した。2000年に初めて膀胱ガンにかかったが、抗がん剤の注入で完治し10年間再発がなかった。ところが、2009年秋ごろから血糖値が上がり始め、主治医の指示で「アクトス」をのみ始めた。その頃、新聞でフランスが発売禁止になったと報道された。僕は主治医にその旨を伝えると、厚労省からも使用上の注意の通達があったと、服用をスットプした。

大手薬品会社の赤字転落はたしかに大きな経済ニュースだが、医学的に「アクトス」が大丈夫かどうかの方が、より大きな問題だ。マスコミは何故そこまで深く突っ込んで取材しないのか。薬品会社との間に癒着があるのだろうかー。