「老人タイムス」私説

昭和の一ケタ世代も高齢になりました。この世代が現在の世相をどう見て、考えているかーそのひとり言。

「救急の日」国の医療制度に感謝

2018-09-10 07:19:43 | 2012・1・1
語呂合わせから9月9日は「救急の日」である。ふだん、あまりこの種の語呂合せ的な記念日には関心はないのだが、今年は違う。つい先日、急病から救急車のお世話になったばかりだ。改めて、「救急の日」に当たり、わが国の制度を調べてみたら、無料なのは日本ぐらいで、外国によっては救急車を呼ぶと多額な治療費が必要なのをしり、国の医療体制に感謝した。

救急車といえば、われわれ老夫婦は20数年前、沖縄の先島、石垣島で、それぞれ別の機会に救急車のお世話になっている。僕は西表島でJICAのマングロブ植栽研修中、突然、腎臓結石にかかり、高速船で石垣島港から国立八重山病院へ運ばれた。老妻は僕の仕事に同行、休日に武富島でサイクリング中坂道で転倒、同じく高速船経由で石垣港から救急車で八重山病院へ運ばれている。似た者夫婦とはこのことだろう。

昭和30年代の初め頃、警視庁記者クラブに所属したころ、同じ庁舎にあった消防庁の119番司令室はニュース源の一つであった。当時の救急車のサイレンは今の”ピーポー、ピーポ”ではなくて、急を告げるケタタマシイものだった。後で家人に聞いた話では、今回、僕が入院するにあたり、その”ピーポ”音さえ、夜間の住宅街であるのを理由に、家の近くでは音をしぼってもらったという。

今年の夏は猛暑から熱中症で倒れる高齢者が多く、救急車の出動回数も記録だったようだ。僕は119番のお世話になることに抵抗があったが、足腰が抜けた80キロの老体を病院へ運ぶには仕方がなかった。再度、国の救急医療制度に感謝する。

終活への一里塚 介護入院への道

2018-09-09 11:32:09 | 2012・1・1
昨日、1週間の退院生活をを終え退院した。自慢でもないが、僕にとっては11回目の入院、最後の入院から2年半月ぶりだったが、救急車による入院ということもあって色々考えさせられた。その第一は加齢による心身の”雪ダルマ”的な衰えだ。これまで、あまり人生の”終活”など真剣に考えたことなどなかったが、終日点滴の病室で天井をながめながら、自分の行く末に思いをはせた。

僕は膀胱がん4回、大腸がん2回、左膝の人工関節置換など大きな手術をしている割には元気で、要介護1、身障者手帳5を頂いてはいるが、日常的には自分のことは自分でできていた。しかし、今回の入院では、トイレに行くににも、いちいちナースコールのボタンを押して、車イスでお世話になる始末。今回入院した国立医療センター(東京)は、フランスの人間的な愛を介護哲学「ユマニチュートを」提唱している医療施設であり、関係者は患者に特に親切だった。

しかし、問題はいくつかあった。患者の僕だけでなく、介護にあたる老妻も共に同じように老い、残暑の中、僕の着替えの衣類を家から持参するのはきつくなってきた。初めて僕は病院のレンタルの病室着の世話になり、生れてはじめて紙のパンツを買った。病室の中には、小さな流しがあり、患者はここで洗顔したりするのだが、こんなことまで、ナースボタンを押すわけにはゆかない遠慮がある。フランスの愛の介護哲学もこまでは至らない。7日間同室の患者の発する大きなため息と奇声に、僕は悩ま洗顔続けられた。出来れば在宅介護で”あらまほしき”ものだ。

緊急入院 1週間ぶりのブログ更新

2018-09-08 11:30:02 | 2012・1・1
9月1日から7日まで1週間、救急車で緊急入院していたため、ブログを更新できず、ご迷惑をかけました。「防災の日」は僕にとっては「災難の日」であったらしく、いつものように夕方,風呂を浴び、軽く晩酌しながらナイターの野球観戦いようと、その前にトイレに行き、便座に座ったら、なぜか急に立ちあがれなくなった。老妻と孫の手をかりてやっと脱出したが、老妻は普段の僕と違うと直感したのだろう。僕は大げさだからと」断ったのだが、119番して救急車を呼んだ。

救急車のお世話になるのは、20数年前、西表島でのマングローブ研修中,急性結石の痛みで石垣島の八重山病院に舟を乗り継いで運ばれて以来だが、いつも親切な対応に感謝する。運ばれた病院は、過去に6回、ガン(膀胱4、大腸2回)の入院、手術暦があり、カルテもそろっていたが、病院側は僕が38.8度を超える高熱のため、改めて各所に検査を行い、そのまま内科に入院となった。

担当医師の診断は「急性細菌性前立炎」といことで、8月末、膀胱ガンの内視鏡検査を行ったさい、細菌が前立腺に付着したものらしい。僕は病室で毎日抗生物質薬の点滴治療を受けた。同時に退院に「備え、膝と腰の痛みのリハビリ訓練も受けた。80歳代後半の高齢者の入院は改めて厳しいことを知らされた。僕にとっては、介護入院の予行演習みたいなものであった。その体験記を次回から何回か書いてみたい。

関東大震災から7年6か月の帝都復興祭

2018-09-01 05:38:45 | 2012・1・1
大正12年9月1日、正午少し前、東京を中心にM7.9の大地震が発生た。今日はあれから95年、当時を知る人は少なく、10年ほど前までは、隣のおばさんが、娘時代の体験を語り部として語っていたが、今はこの世にいない。代って小池百合子知事が防災服に身を固め、「防災の日」の行事を中心にてきぱきとこなしていた。

2011年3月11日の東日本大震災、津波、原発事故を体験した若い世代にとっては大正の地震は昭和よりも前の出来事だ。とかく忘れられがちだだが、震災国、日本である。特に人口過蜜な大都会である。「防災の日」はいくつあってもよい。


10年ほど前、わが家にあった関東大震災の写真画帳や焼け焦げた一銭銅貨などの遺品をすみだ資料館に寄付した。その中に帝都復祭の絵葉書があるのを思い出した。調べてみたら、大復興祭は昭和5年「930年}3月、天皇陛下、臨席で行われ、花電車が各地にでている。数えてみると、大地震から6か月年6か月である。

一方、2011年3月11日の東日本大震災からは、すでに7年6か月たっている。関東大震災と違って、津波あり原発被災ありで、関東大震災とは異なるが、,このあたりで、復興宣言を出してもいいのではないか。2020年nの常磐線全面開通、東京五輪の前当李はどうか。