虹色仮面 通信

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40年前は世界最強!

2020-02-09 07:39:20 | スポーツ
スポーツ報知より。

 1980年モスクワ五輪は日本がボイコットし不参加だった。男子マラソン金メダル大本命だった瀬古利彦は、涙を流す間もなく欧州転戦を決断。4年後のロサンゼルス五輪を見据えると同時に、世界一を証明する戦いへと身を投じた。二度とこの悲劇が起きぬよう「断固」の2文字を掲げ当時を振り返った。(取材・構成=太田 涼)

 79年12月の福岡国際を制して代表を勝ち取った瀬古だったが、待ち受けていたのは、もはや自分ではコントロールできない問題だった。「年が明けてから『五輪に参加しないかもしれない』という雰囲気が漂ってきた。そんなことがあっていいのか、と」。ソ連のアフガニスタン侵攻により、西側諸国がモスクワ五輪をボイコット。前年の夏にはコースも試走したが、日本のエースが再びモスクワへ赴くことはなかった。

 当時24歳。「年齢を考えれば、4年後のロサンゼルス五輪こそ競技人生で最も輝けると思ったので、気持ちはすぐに切り替えられました。それに、五輪がなければ『3点セット』で世界一を証明しようというプランもあったので」。涙を流す間もない。80年7月からトラック種目での欧州転戦、同年12月福岡国際、そして81年ボストン。中村清監督と二人三脚で3つのチャレンジに打って出た。「モスクワの記事とかテレビとか、もう見ないようにしていたね」

 勝って勝って勝ちまくった。欧州転戦では1万メートル27分43秒44と当時の日本新記録を樹立し、5000メートルでも13分30秒をマーク。福岡国際ではモスクワを制して五輪連覇を果たしたチェルピンスキー(東ドイツ)を破り、2時間9分45秒の当時世界歴代8位でV3。翌年には“仮想ボストン”の位置づけで挑んだ青梅マラソン30キロでモスクワ五輪銀メダルのネイブール(オランダ)に3分以上の差をつける1時間29分32秒で圧勝。これは、2019年大会でチェボティビン・エゼキエル(サンベルクス)が破るまで、38年間不滅のコースレコードとなっていた。そして4月のボストンで優勝。瀬古の名は世界にとどろいた。

 一方で不思議な感情が湧いた。白星を積み上げる中で「なんだかね、どんどん悔しくなってくるのよ」。自分が立てなかった五輪の舞台で活躍した選手を破り、歴史あるレースを制しても心の穴は埋まらなかった。「やっぱりモスクワに出ていたら、その先も変わったんでしょうね。2大会連続でメダルだったかもしれません。もう、0か100かだった。一つかけ違うと、すべてズレてくる。あの時は思わなかったけど、後からそう実感するね」。84年ロサンゼルス五輪では14位。世界最強の男の人生は、理不尽にねじ曲げられた。

 モスクワ大会の男子マラソン当日、瀬古の姿はテレビ朝日にあった。特別ゲストとして中村監督とともに出演し、複雑な思いでレースを見ていた。「最後にね、アナウンサーに聞かれるんですよ。『瀬古さんなら勝てましたか』って。私はね、『分かりません』と言うしかなかった。心の中では『勝ったな』と思っても」

 幻の五輪から40年。その当事者は最後に言った。「私は世界一という証明が欲しかった。『瀬古が1番だ』と。あんなことは自分たちの世代で終わりにして、二度とあってはならない。東京五輪では走れる喜びをかみしめて、結果を追い求めてほしいですね」<了>

モスクワに出ていたら、どんな結果だったかは知るよしもないが、当時の瀬古選手が世界最強だったのは間違いない。
速さはもちろんだが、勝つことにかけては歴代世界最強じゃないかと思う。

運命のいたずらというか、冷戦時代のあおりを食った悲運のランナーだった。
もしかしたら、絶頂期のモスクワ大会に出てないからこそ、伝説的な存在により拍車をかけた部分はあると思うなぁ。

今の時代に彼が居たなら、フルマラソン2時間2分前後(もちろん日本最高)で走りそうだ。
昨今話題の厚底シューズじゃなく、薄いソールのシューズで普通に走って、当たり前のように勝ってるだろうなぁ。 
それがイメージできるのが瀬古選手の凄さである。