お姉ちゃんの産まれた日
6月4日は我が家のお姉ちゃんの誕生日。
娘が生まれたその日をふと思い出す。
忘れられない1日だった。NICUに呼ばれて話をしてくれた小児救急のK先生の表情、必死さ、気持ちを今でもありありとおもいだせる。
命が危ないこと。今すぐに手術が必要で輸血も必要なこと。様々なリスクがありいろんな可能性があるが全力を尽くすこと。
親として未熟すぎた当時の私は、一度にしなければならない決断の重さに打ちのめされつつ。自分なりに一つづつ噛み締めながら理解して。一つ一つサインをした。
そのあとは、命を助けるために数時間、先生たちの格闘があり。次に呼ばれた時には命が一番危ない急性期は乗り切ったと教えていただいた。
その時の気持ち。
「ああ、よかった。とにかく命が助かった。」
祈るしかない時間の中で、いろんなことが頭を駆け巡り。とにかく助かって欲しいと祈りつつ。叫びたくなる気持ちを抑え、ひたすら待つ。
そう。そしてそのあと。
同じような状態で生まれきた極小未熟児を育てていく上での「医師としてのあたりまえ」の説明がはじまる。
様々なリスクの説明。いろんな可能性の話。聞いたからといって備えようもないが、たしかに知らなければならない話。これまた、わたしひとり。
妻は7週間半にわたりPICUで羊水還流しながら寝返りも打てずに娘をまもり、出産直後で衰弱しきりそれどころではない。誰に相談できるでもないし、もちろん私が次は妻へ説明しなければならない。きつかった。
最後に、トドメのようなタイミング。
精神的にボロボロになりながら、なんとか正気を保つ私に、娘の先天性疾患の可能性が告げられる。
しかも、曖昧なまま。わかる事実だけ。詳しくわかる日がいつかさえ知らされなかった。
あの時はどうしようかと思った。
目の前が白くなり、どう妻に伝えたらいいかと考えるだけで辛かった。先が見えない落とし穴に落ちたような感覚。ほんの一瞬だけれども、そんな気持ちになった。
すぐに気を取り直し、その場をあとにする。
忘れないように聞いたことを必死に書き留め、キーワードを覚えつつ妻の元へ。
「今はまだ、気付かせるべきではない。」
私の中の本能がそう告げていて、必死で平静を装った。病室を出たあとなみだが出た。
病院を出て、本屋さんを巡った。
参考になりそうな本がないか探した。片っ端から買った。
家に帰ると、インターネットにかじりつき、ご飯を食べるのも忘れて朝まで調べた。
誰にも話せずに苦しみ、敢えて遠くにいて会えない友人に深夜にメールをしたりした。
そんな日があって。
「私が娘を護らなければ」
そう決意したのも、その渦中。
その気持ちは今も少しも変わらない。
妻の羊水還流7週間半の入院のすえ、1500kg未満の極小未熟児で生まれ、両足脛骨完全欠損にも関わらず、確定診断も専門医も不在。
そんなケース。たぶん他にはないだろうな。
このことを父親一人で数日か変えざるを得ないほど、母親が衰弱していたこともあり、私は強く思ったのかもしれない。
「私が娘を護らなければ」
娘の11回目の誕生日に思い出す。そんなこと。
最近ようやく、そのころの記憶の封印が解け、見苦しかった自分が認めてあげられるようになってきた。
だれでもたぶん、同じ環境に置かれたらきつい。だから今はそのころの自分を褒めてあげたい。
申し訳ない。
なんだか重い話になった。
でも、たぶんこれも大切な、私を形づくる一つの運命だったのだろう。娘の誕生そのものが。