義足を使う子供達の可能性
少し前に書いた記事で、コメントで話していてふと考えた。可能性って何だろうって。
いろんな考え方がある。障害がなくたって可能性は生まれた皆に公平ではない。
どのくらい親が教育費を払えるか。
どれくらい先を見据えて、親が子供に適宜的確な学びや訓練を与えられるか。
いかに楽しみながら生活の中で学び。鍛えられるか。
いろんな習慣づけや当たり前の定義も家族それぞれ。だからして、公平なんて元々存在しないし、どこまで求めてもきりはない。
でもさ。
なんとなく、「地域の保育園や幼稚園、小中学校で皆が参加して、当たり前にやることはやらせたいな。」
それがたぶん、親の気持ち。
それは求めすぎではないと思う。
そうなんだけれども。
そのことを見据えて、先を考えていろんなことを先手を打って準備していくと、「そこまでは求めすぎ」と言われたり。
では、どうあるべきかなど、どこには答えがないのに。
たぶん、この日本社会の根底にある当たり前が、「障害児は皆と同じようにできなくて当たり前」だから。
なんとなく、誰も言わないけれど、そんな当たり前感があるのかなって。
これは、周りの人だけではなくて、我が家の家族皆や周りの支えてくれている方々も含め、なんだか不思議とそう思っている節があって、それを覆すのは結構難しい。
無意識の意識ってやつだろうか。
たぶん日本の伝統的な思考の帰結なのかなとも思うけれどもね。
それ自体を変えていく力とはなにか。
たぶんそれは、生活レベルで義足を履いていることが違和感がなくなっていき、「可哀想」でなくなり、当たり前になる。
義足の問題は根が深い。
すぐに「車椅子に乗ればいいですよ」という話になる。
いや、車椅子はいらないのだ。
ただ、ほんの少し、標準的な義足のスペックが劣るのだ。
たとえて言うと。
「あなたは四肢形成不全なのだから、歩けるだけましだと思いなさい。足首にギプスを巻いたまま暮らしなさい。」
と言われているような。そんな感じ。
何度書いても難しい。
どう書いたらわかるだろう。どう書いたら伝わるんだろう。
身内にも義足使用者の方々にもお医者さんにも、なんとかして伝えなければね。