conparu blog

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卑弥呼の都

2014-11-03 19:21:39 | 随想

日本人は何処から来たのか?邪馬台国の所在地論争と合わせて、謎の民族とての物議を醸してきた我々の世代。
まぁ、大上段に構えなくても東の果てに位置する国なのだから、さまざまな時代の流民が漂着したであろうことは想像できる。
幾多の文明の変遷を経て、大陸や半島から新しい技術が流民とともに入ってきた。
大陸も半島も島国も激流の争乱期に巻き込まれたところに『卑弥呼女王』が誕生する機縁となった。

邪馬台国の周囲には伊都国、不弥国、奴国、末盧国、投馬国などがあったとされるが、男王の治世下でこれらの小国が乱れて相争うようになった。そこで女王を立てることで乱を鎮めたと言う。卑弥呼は邪馬台国を統べながら周囲の小国をも統率したことになる。その要因は大陸の魏の庇護の下に、女王の地位が確かなものになったからである。

ブログサーフィンをしているうちに、ある方の(名前が分からないのが残念)古代研究私論を面白く読んだことで、『卑弥呼の邪馬台国』が九州にあったという思いが強くなった。大陸や半島に近い北九州が最初の流民地として集落化し、徐々に内陸部へと勢力を広げていったのであろう。肥沃でより豊かな筑紫平野に至り、卑弥呼や台与の登場する時代がやってきた。国としてはまだまだ弱い基盤だったと思われる。大国の魏や晋国の保護を受けることによって、周囲の群立小国の脅威から都を守ってきた。


大陸の魏の後を継いだ晋も滅亡にいたると、九州の王国にも争乱の時代が再来した。そんな中に卑弥呼の時代は終わる。
次に登場したのが台与であった。次々と流民が押し寄せる北九州の位置関係を見ると、いつ強力な武力集団に襲われるかも知れない不安があったと云える。時代の次のステップとして、より内陸の安全な地域を求めるのは自然な成り行きだ。


古代筑紫を中心に海岸線を辿り、あるいは部族間の情報のやり取りによって、自分たちのいる所が(九州の)島だという認識はあったと思う。古事記の『瓊々杵』の項では、天照大神と高木の神によって豊葦原水穂の国を支配するように命令されるのである。瓊々杵命の東遷の足掛かりとして高千穂に赴く時、猿田彦に出会う。猿田彦は豊葦原の中心を治める者だと言って高千穂に瓊々杵を出迎えた。と云うことは猿田彦の豊葦原とは高千穂峰の東に広がる日向や豊後を指すのではないだろうか。

「日向を回りカササの岬に行き交うこの地は」『朝日の照り輝く国、夕日の輝く国』だと高千穂を褒め称え、高千穂の峰に宮を建て住むことになった。瓊々杵は高千穂が気に入ったらしく長年滞在している。瓊々杵の子のヒコホホデミ(彦火々出見)は兄の釣り針を失くして探しているうちに猿田彦の娘、豊玉姫と玉依姫に出会う。豊玉姫との間にカムヤマトイワレヒコ(神武)が生まれるのであるが、豊玉姫を返して玉依姫との結婚もあったりでなかなかドライな貴公子のようである。このヒコホホデミは高千穂宮に五百八十年いて亡くなったとある。御陵は高千穂の山の西にあると言う。


瓊々杵命が五部族の大軍を率いて出雲に向かったのもこの地からであろう。古事記『瓊々杵』の項では語っていない。

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