conparu blog

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物語の揺りかご 続

2015-01-14 21:30:07 | 随想

古事記をひも解いて解析するときに、史実として記録に残された部分を重要視したい。
3世紀前後の最も確かなものとしては「神武東征」の項に出てくる、大和を支配していた長髄彦の敗走と信濃善光寺に逃げ込んだという記録である。
ここで注目したいのは、それまでの大和地方が出雲族によって支配されていたという事実なのである。長髄彦という出雲族の直系子孫がかなりの勢力を維持していたことは、神武天皇となるカムヤマトイワレヒコが大和攻略の際に、さんざん苦しめられたことでも分かる。

長髄彦の祖父は大物主(大国主命)であるから『出雲の国譲り』の後、父親の事代主とともに大和に本拠地を移したのであろう。大和にはもう一人饒速日という者がいた。天孫族でありながら長髄彦の妹と結婚して出雲族の入り婿になってしまったのだ。饒速日の祖父は『若日子』と言い、高天原の指令で出雲を服従させるために送られたのだが、大国主の懐柔に嵌まってその娘「下照姫」と結ばれて帰ってこなかった。吉備を本拠地としていたようである。孫の饒速日は生まれた時から出雲族の一員になっていたのである。

このような状況の下に『大国主の出雲国譲り』は、天孫族「瓊々杵命」の出雲平定によって成立した。大国主は黄泉に隠れ、若日子は矢を受けて戦死するという劇的な終局を迎えて、出雲と吉備は天孫族に帰してしまう。
その後出雲の子孫たちは、大和に拠点を移すことになったのである。
瓊々杵命が出雲と吉備を降伏させたあと、大和を平定するまで孫の神武を待たねばならなかった。
天孫族にすれば大和を攻めるまでに、それだけの時がかかったということだろう。

それではこれまでの天孫族は何処に本拠地を置いていたのだろうか。
『神武東征』の出発地は日向の港であるから、九州説が濃厚だとしてもその根拠は弱い。
古事記の天孫降臨の初祖、「瓊々杵命」の項では、太子の子でありながら高千穂の峰に降り立った所から記されている。

「高千穂の尊い峰に降り立ち、『この処は海外に向かって、カササの御埼に行き通って、朝日の照り輝く国、夕日の輝く国である。此処こそはたいへん吉い処である』と仰せられて、地の下の石根に宮柱を壮大に立て、天上に千木を高く上げて宮殿をご造営された』とあるように、瓊々杵の拠点地は高千穂であった。
『カササの岬』に行き通うほどに海路を通じて、高千穂峰々を縦断する交通路があったことを窺わせている。また『朝日の照り輝く』方向と『夕日の輝く』方向には東西を結ぶ山道があったことも示唆している。カササの岬は薩摩半島の野間岬とみてよいだろう。
天降る前の高天原はこの高千穂からそんなに遠くない地域にあったのではないだろうか。
一説によると南九州の狗奴国や隼人国を滅ぼすために高天原を出たと言われる。

大軍を引率して強力な武器と武具を身につけた天孫族の一群は、やはり海外との接点がありそうだ。
となると、北九州の伊都国や邪馬台国の在ったあたりに進駐した台与の後裔か、卑弥呼にまつわる子孫とかが考えられる。仮にそうだとすると瓊々杵もイワレヒコも北九州から出征した可能性が出てくる。

イワレヒコ(神武)が大和に入り、三輪山の近くに樫原宮を興してから天皇家の歴史が始まるわけだが、
後世において天皇家の事跡が消されたり、出雲族の事跡が強調されて相対的に出雲の『古事記』になってしまったのは如何言うことなのだろうか。
理由は祭祀を司ってきた三輪氏や中臣氏が出雲族の出であり、宮中のしきたりを取り仕切ってきたこと。天皇家の外戚として后や妃を送り続けてきた物部氏や藤原氏のもとで、天皇家の王子たちが生まれ育ってきた事を考えれば、物部氏や藤原氏の権力も皇室を凌ぐほどに肥大していったと思われる。
その結果天武の亡き後、皇后の持統天皇が藤原不比等を重用したことで、『古事記』の改編が組まれたと見ることが出来る。

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