Creator's Blog,record of the Designer's thinking

フィールドワークの映像、ドローイングとマーケティング手法を用いた小説、エッセイで、撮り、描き、書いてます。

ドローイング200. 色っぽい骨盤

2019年12月24日 | drawing

 原稿執筆で忙しくて、合間にクリスマスイブの空気を少し感じられたら幸せかな。

 さてクロッキーは、なんか色っぽい骨盤だとみとれていた。こういう骨盤を日がな一日なでながらすごすというのも幸せなクリスマスイブの時間だろうと考えた。池田満寿夫のエーゲ海に捧ぐ、という小説の影響か。

 しかし実際に女の骨盤をなでている現実は、そんな幸福感なんか感じないわけ。あら、こんなところにホクロがあるとか、虫に食われた跡がある、豚の肌みたいだな、あげくに息づかいで上下し、寒いよ、と文句も出てきて・・・、といった具合に、色っぽさを鑑賞していることと現実との間は乖離している。

 つまり、見ている、見せている、という客観的な場合であるとか、見ている側が思い入れがあるとか、さらには妄想の産物といった具合に、他者が存在する後付け的性格があるのだろう。だから絵画の世界で美人画などが成立してくるわけであり、創作上でつくられた概念と整理しておこう。

 さて手を動かしてデッサンしないと次第に面倒になるし、写真の方が手っ取り早くていいじゃんという姿勢に傾いてくる。これは困った傾向だと思ったが、実は私は絵を描くことが嫌いなのだと合点した。

 その典型例が年賀状だ。ああっ、また絵を描くのか、世の中には出来合の優れたイラストが無料で数多くあるじゃん。それ使えばいいじゃん。みんなそんな方法をつかっているぐらいだから、真面目に下手な絵を描いてもさ!、とテンションは下がる。

 それならは、年賀状を早くかたづけちゃおう、というので、さっさと年賀状をつくりあげて投函してしまった。そしたら喪中の葉書が届いたりして。

 プレッシャーが1つ片づいたから、締め切り日迫る原稿に没頭していたいが、今度はAPRIN学習ラーニングプログラムを受講してください!、というメールが大学から届いた。

 科研費申請をするとすべての研究者に義務づけられる政府のシステム。つまり科研費の不正使用を防止し適切に運用しようという倫理的なブログラム。全部で7講座受講が義務づけられている。結構これが大変かつ、面倒かつ、それに日本語が意味不明。文科系がまとめているんだろうな。終日このできの悪い文科系ブログラムにつきあいテストにも合格したので一件落着。どっと疲れが吹き出した。

 じゃ全部片づいたかと思ったら、早めに家の掃除をしておかないとゴミ屋がこなくなる・・・、と次々と面倒なことがでてくる。

 いつになったら原稿に没頭できるのか。ジリジリとしながら雨模様の暗い時間が過ぎてゆく。もうお正月はやめようよ、原稿で忙しいしさ・・・!!!。


クロッキー帳NO47.

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ドローイング199. モデルさんが2人

2019年12月23日 | drawing

 ある時クロッキー教室のモデルさんが2人来てしまった。ならば二人を同時に描こうという珍しい機会に恵まれた。女二人!、1人の主役が常であるモデルが二人というのは、少し不思議な感覚だが、群像だと思えばいいか。

 2人のモデルさんを描きながら、例えば2人の女が同時にあなたの前に現れて、どちらかを選べ!、と迫られたらどうするんだろうか?、どういう判断を男は下すんだろうか?、と想像していた。一人は理性的な顔だちであり、もう一人は陽気でかわゆい系と外見もキャラクターも正反対だ。そんな答えにならないことを考えながらクロッキーをしていた。

 まあわてならかわゆい系を選ぶな。どうして!?、理由無し、万事可愛ければええんちゃう、という単純な考え方。

 クリエイションの能力を落とさないためにも、少しクロッキーを描き続けている。建築をしているから、別に裸婦である必要はないけど。

 そんななかで、やはり裸婦を描いていた建築家がいた。宮脇壇(まゆみ)である。Wikをひくと洋画家宮脇晴とアップリケ作家宮脇綾子の子として名古屋市で生まれたとあるから、なるほどデッサン心はDNAだったか。裸婦、あえていえば一番基本的な空間のモジュールの1つとする理由だろうか。

 さて年末も原稿執筆の仕事で忙しいので、多分街へでかけて撮影する時間はなさそうだ。ならば手元にたまっているドローイング系でブログを続けよう。

 それに京都市内は、外気温6°、雨、実にくらーーい毎日が続いている。日本海沿岸にいるような、この陰惨な天気は、あらゆる気力をそぎ落とし実に悩ましい。


クロッキー帳47.

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ドローイング198. 手が早くなる!

2019年10月02日 | drawing

 だんだんクロッキーが下手になってくる。二次元の中に空間感を認識したり、若いときのような形態を執拗に追いかけるといった情熱は失せ、手が勝手に動いているときもある。もっと人体を子細に観察して勉強して考えろよ!、と自分に言い聞かせているが・・・、言い聞かせるだけ(笑)。

 なにしろ1ポーズ5分間、かっては何時間も勉強したかのような集中力が働いたこともあったが、今は手慣れてしまって3分で描きあげているときもある。手が早くなる!、というのはクロッキーの副産物だが。

 ただ人間は、手を動かして外的世界の物事を考えている。テキスト、記号や図で、数式で、スケッチでといった具合にである。手を動かして外的世界を記録し、表現し、頭の中の経験的な蓄積情報と照らし合わせ、こりゃ愚作だ!、と評価もする。手と頭とは常に交信しているわけだ。いやもう少し正確にいうならば、頭で考えたことを、テキスト、記号。図、崇信、スケッチで表現してみて、頭の中の考え方と比較しているといったほうがよいか。

 画家パブロ・ピカソは92歳まで現役で活動し、Wikでは「1万3500点の油絵素描、10万点の版画、3万4000点の挿絵、300点の彫刻と陶芸を制作し、最も多作な美術家であると『ギネスブック』に記されている」と記載されている。生涯2度結婚し3人の女性との間に4人の子供をもうけており、最後は65歳でフランソワーズ・ジローとの共同生活で息子と娘を設け、その後73歳でジャクリーヌ・ロックと結婚とある。まあ社会の制度に乗らなかった仕事であったこと、そして女がいたから、まあ手が早い!、というべきか、それで仕事をする意欲もあったと私は理解しているけど。

 そうなると人間は、社会制度、つまり何時間働けとか、定年は何歳だといった制度的しがらみ以外の仕事を持つべきなのだろう。ピカソもプラド美術館の館長を勤めたことがあり、彼の場合、社会制度に組み込まれたのは僅かの期間だった。

 手は頭の延長であるとする認識、社会制度に乗らないこと、女を絶やさないこと、つまり手が早くなること!、私の生活をみても世界をみても、そんな教訓しかないよ。


クロッキー帳NO45.

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ドローイング197. 百害あって一利無しのJABEE、振替休日

2019年10月01日 | drawing

 秋が近づいてきた。その先には、枝葉が散った冬の景色しかない。そんな平均気温が低減するグラフ推移に身を任せる気分ではない。そううそぶいていたら、陰湿に暑いではないか。この猛暑の根っこを引きずるかのような今頃の陰湿な残暑が私は嫌いなのだ。少し動けば汗が出てくる、じゃ夏の格好でいると足下が冷える、どうすりゃいいんだ。

 さて大学教員時代に月曜日にできるだけ講義や実習を集中させた。これは結構快適なリズムで教員も学生達も調子がよかった。だがある時から振替休日が登場し、月曜日休みが増えた。それに加え学部がJABEE認証を受けることになった。JABEEとは、理工学系大学において「全ての修了生が学習・教育到達目標を達成しているか」を主眼とした国際認証システムだ。

 そうすると振替休みにした授業分を学期末に振り替えて実施する必要が出てきた。期末試験の直前に3回分とかの集中授業をするわけであり、これは学生達にとって大いに不人気だった。ある年度は祝日を無視して授業をしたら、国民の祝日を無視するとは何事だという官僚の一言で消え去った。それに出席日数を満たしている学生だと、先ず出席しないで試験勉強!・・・、ではなくバイトに専念している。そうなると何のための国際認証だったか疑わしい限りである。

 そもそもJABEEは、大学としての体裁をなしていない大学が一定の水準に達するための認定であって、男女共学校でありながら女子学生比率全国トップとするリケジョの本学としては、社会的に認知されている実績があるので、すでにそんな認定に従う理由もない。

 話題がそれた。実は月曜日に、京都アクアリーナのエアロビクス教室を受講している。教室の直前には、ウエイトトレーニングで筋力をつけている。8月、9月は、お盆休みも加えると、月曜日振替休日のため教室休みの日が続き、飛び飛びの開催日には、こちらはダイビングに出かけている。そんなわけで8月から1ヶ月半ほど、この教室に参加できなかった。そのおかげて、肥えた!。体調狂う。

 この政府が定めた振替休日が曲者なのだ。ヤ・メ・タ・ラ!、と思う。連休が増えるから人々が一斉に繰り出し、我が国の貧弱なレジャー施設や道路や鉄道は、すぐに容量オーバーとなり、結局どこへも出かけない方が正解だということになる。私だって連休ダイビングはしませんから。

 そのかわり国民の都合で2週間の休日をとることを義務化する制度に切り替えたらと思うけど。だから百害あって一利無しの振替休日制度であるところは形式的なJABEE認証と同じだ。

 

クロッキー帳NO45.

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ドローイング196. ラスターデータとベクターデータ

2019年09月30日 | drawing

 画家や彫刻家、そして漫画家、或いは私のようにクロッキー・デッサンを勉強してくると、特に目の前を歩いている若い女性を意識的に観察すればだが、コスチューム(衣服)を身につけていても、その下のボディの形態がみえてくる。特に夏は薄着だから私達の前を歩く女性は裸同然で歩いていることになる。骨盤がこれぐらいの大きさで大臀筋から続く大腿二頭筋と下肢が綺麗なカーブでつながっているし股が切れ上がっていて綺麗な下半身やな!、おおっ!、ビューティフル!!、じゃあ前に回ってお顔も鑑賞してゆこう、といった具合にだ。そんな風に夏は街で随分と若い女性を観察しながら頭の中で裸体のデッサンをしていた。

 先日仕事をしていて、ユニフォームのスケッチがいるよなと思いつつ、Illustratorで遊んでいたら、こんな方法を思い出した。それは、クロッキーの裸婦をトレースしてコスチュームにした画像をスキャンし、これをIllustratorに読み込んで着彩する方法であり、絵画や彫刻の制作プロセスと同じであり芸術的な理と、私の屁理屈に適っている。

 トップ画像の左側が元画像であり、これをトレースしてコスチュームを加えた画像が2番目だ。ここまでは行と列の格子状に並んだセルで構成されるラスターデータである。写真の画像は全部ラスターデータだ。だから画像を目一杯拡大すると正方形のセルがみえるし、斜めに走る直線はセル上を斜めに走るわけだから輪郭が階段状になってしまう。

 このラスターデータをIllustratorで、点と点の位置を数式化してソフトが解析するベクターデータに変換したのが3番目だ。点と点でつながりが綺麗な曲線で構成されるベクターデータに変換したわけだ。

 そうすると4番目の画像のように簡単に着彩でき、カフェ従業員のイラストができあがった。ベクターデータは、拡大や縮小をくリ返しても元のデータ量が変わることがなく、CAD、編集、印刷などの作業は、すべてベクターデータ上で行われる。

 このようにコンピュータのデータには、画像を扱うラスターデータと、点と線で数学的に構成されるベクターデータとがある。

 さてillustratorで変換し点の数を制御すると以下の画像になる。うーーん、綺麗な曲線が出て少し色気が出たか・・・。それはペンタブレットを用いてイラレでベクターデータのイラストを描くよりは、むしろソフトの数式に任せた方が綺麗な曲線に変換してくれる場合もありそうだ。

 裸婦をイラスト化するときは、やはりベクターデータの方が俄然曲線が綺麗だ。ここまでくるとその先はイラストレータの仕事になる。だから先へ進むのはパスし、こちらは所期の雑用をかたづけて、お終い!。

 注)ブログ画像はラスターデータなので、便宜上ベクターデータの画像を書き出してラスターデータにしました。

 

 

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ドローイング195. 文科系人間達の処世術

2019年06月19日 | drawing

 私の若い頃、文科系の人間達に欺されていたことがあった。

 多分芸術の話でもしていたのだろうか。芸術好き人文系出身のA君は、私の話の論旨とは異なる断片的な言葉をみつけ、そこにA君の解釈をいれて横へ話を脱線しつつA君なりの世界へ膨らましたくれた。結果として私が話したい主旨とは異なり方向違いに進んでゆく。つまり私の意図はA君には全く通じなかった。それは、なんか違うよなと私は感じていた。

 あとでわかったことだが、それが文科系出身者の処世術だった。古今東西の文献をあさり、何を勉強していたかというと、会話の誘導であり、話術であり、理屈のつけ方であり、つまりは処世術だった。話を自分の世界へ引きずり込んで、自分の都合にそわして展開するという、論旨脱線の技法に、さもありなんとする理屈をつけるあたりは詐欺師同様に見事だ。どうりでサラリーマン的あるいは役所の人間達を思い出す。文科系出身者の技法は処世術だということに気がついたのは、後のことであった。

 都市開発の仕事をしているときも、そんな文科系人間達の処世術に随分とつきあわされ、かき回され、そして私は無視した。

 とくに甚だしいのがメディアの人間達だ。「つまりあなたのいいたいことは、こういうことですね!」と要約し上位概念を押しつけてくるような解釈だ。それって、私の発言ではなくて、あんたの意見だろうが・・・、と思ったけど。そんなメディアの都合の良い解釈で私の発言責任までとらされたのではかなわない。最近では年金2000万円不足論など政治の世界ではよくあるようだ

 実は、いまの社会のなかでもそうした場面が多数存在している。報道である以上視聴者が理解できるストーリーに置き換えているわけだが、その結果現場とは異なったストーリーができる。だからといって報道内容が視聴者に理解されたからといって、事の真相が明らかになったこととは別だ。そこには伝えることの難しさもあるが、時にはそんなメディアの手法が、文科系の処世術を感じさせてくれる。

 翻って人間がコミュニケーションできる2次元の方法には、文系、数式系、図系、絵系の4系統がある。

1)文系(文章、詩文、コンピュータプログラムなど)

2)式系(数式、数値、論理式、分子式など)

3)図系(地図、設計図、グラフ、表、楽譜など多数)

4)絵系(絵画、スケッチやイラスト、漫画、写真や映像など)

※これに私のような建築の仕事をしていると、3次元の方法を伴う。

 だから仕事の場面で、そのなかの一つの系統だけに執着していてもアカンでしょうよ。言葉で語れないから、数式や図や絵があるわけで、それを言葉だけに集約させることが間違いなのである。

 そうしたわかりにくさの典型がWEBサイト。とくにソフトウェアのQ&Aを、図で示せば明快にわかるのに、それを言葉で説明されても魑魅魍魎の世界。言葉で説明したから、相手は理解したとでも思っているとしたら、それこそ文字しか扱わない文科系出身者のお目出度さだ。

 そんなわけで、事があると「なんとかしろ」という他力本位な文科系の人達、つまり自分の手でものをつくらない、あるいはクリエションをしない人達の言葉を、私はあまり信用していないのです。

 そもそもクリエイションは苦労の連続だから、ものをつくらない文科系から簡単に次!、なんていわれてもね。それをいうなら、お前!、自分でつくれよ!!、とこちらはいいたいね。


クロッキー帳NO44.

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クロッキー194. 二択では解けない構造

2019年06月18日 | drawing

 あるミッションを行うか、行わないかは、実行の可否だから二択で問える。しかしメディアがおこなってきたアンケート調査で例えば「原発の再稼働に賛成ですか」、「原発の再稼働に反対ですか」、という人間の意見について二択で問われてくると、私は首をかしげる。

 人間が制御できない技術なんだから再稼働なんか反対だよ、とする意見がある一方で、電力需要が増大し石油で発電すれば地球温暖化につながるから再稼働せざるを得ないよ、とする意見も成立してくる。どちらも正論といってよいだろう。

 お前はどちらなのかと問われれば、どちらでもない、というのが私の適切な回答になる。多くのアンケートのなかで、おおければ1/3位は存在する、どちらでもない、わからない、とする意見を支持するだろう。

 というのも、賛成か反対かとする二択対立の構造では、解けないことを尋ねているからだ。それが、わからない、どちらでもない、という意見に反映されている。つまり構造的に二択対立構造どころか、多次元構造になっている。

 例えば数学的空間構造にしても1次元、2次元、3次元、4次元、5次元・・・n次元と空間の広がりをもっているし、多変量解析にのせれば2以上のFactorが抽出できるだろう。つまり最初の問いに対して複数の回答項目が登場してくることになり、二択では解けない構造について、あえて賛成か反対化の二択に集約することに論理的破綻がある。質問は、二択では問えない構造だったのだ。最近そんな風に構造的に二択で問えないのに、あえて二択で意見を集めようとする無謀な調査が多い。

 それにミッションと意見という概念の違う言葉に対して、二択を迫るというのも論理的に破綻している。文科系メディアは、しばしばこうした間違いを犯してくれる。

 さて、相反する構造ではなく多次元構造となっていれば、どうすればよいのか。そこに多次元構造に応じた多数のブログラムが必要になってくる。つまりmethod(方法)である。だから必要なのはYESかNOかの意見ではなく、どうするかという戦略や計画なのである。プランニングの時代といってもよいだろう。

 こうした多次元構造であるにもかかわらず、あえてYES、NOで国民の意思を尋ねた政治的失策が、イギリスのEU離脱問題である。いまだに離脱できない状態が続くどころか政治的混乱を招いている。

 これからも、日本の周囲を見回せば不穏な状況が多数発生してくるだろう。そんななかで二択で国民の意見を求めることはイギリスの二の舞をすることになる。だから時系列の視座を加えた新たな構造や戦略的なブログラムやプランニングが必要になる。

 先のアンケートのなかで登場してきた、どちらでもない、わからない、とする回答は、実はサイレントマジョリティの一群だし、そこには多数の構造があるだろう。これを含めて捉えれば、現代は多次元構造なのだから、二択では解けない構造の方が多い。つまり文科系が大好きな連立方程式では、問題が解けない時代構造と言い換えてもよいかな。


クロッキー帳NO44.

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ドローイング193.  うざったい街京都

2019年06月17日 | drawing

 京都市内に東洞院通りと呼ぶ一通路がある。前に車が一台ハザードランプを点滅させている。私は10m以上後ろで立ち止まり、さてどちらのスペースにバックして車をいれるんだろうかと見ていた。そしたら自転車に乗った叔父さん達が車の回りをツルツル通り抜けるではないか。それじゃ車がバックできないだろうにと、私は自転車の叔父さん達をにらみつけていた。その叔父さん達は車を運転したことがないのだ。だからなにも知らないのだ。

 そういえば、京都は交通規則を守らない街だ。同じ幅員の一通路街路の十時交差というのは、昔の街の構造だから無数にある。そんなところで車が同時に両方からやってきたら通例は左側に優先権がある。それは車だけでなく船や飛行機だって決められている。だが京都の街では運転手の顔色をみて判断するというわけのわからないルールがまかり通っている。

 狭い道を走れば、逆走する叔父さんやオバ半達、供達を乗せたオカン達の自転車が走り回り、家から突然飛び出してくる子供がいたり、夫婦げんかのあげくの鍋釜が飛んできたりする。

 広い道で車線変更しても先ずいれてはくれず、クラクションをならされるだけ。名古屋の道路では未経験だっただけに、えっー!だよ。私も観光バスや市バスにクラクションを随分鳴らされた経験がある。どうも関西の風習のようだ。

 これが名古屋だったら車線変更はもちろん停車中の市バスを反対車線から追い越すのは当たり前なのだが。それを京都でしたら対向車の運転手が\(><)/ギョッとしていた。それに京都の市バスがものすごくいばっていて絶対に道を譲らないどころか車を蹴散らそうとする走り方だ。名古屋の市バスではありえない話だ。

 それに道路のメンテナンスがものすごく悪いから、道路標識なんか消えている道が多い。そんな道を幅員からすれば一通路だと思って走っていたら、反対側から市バスがやってくる、つまり交互通行だった。だから私は側溝の蓋の上にタイヤをのせミラーを折りたたんでジッとしているほかなかった。そんな道が市内には、やたらとある。

 悪いのはメンテナンスだけではなく交通標識の例外がありすぎるのだ。そんなの走っていてわかるわけないだろうに。

 それに京都市内は、道が狭いだけならまだしもルールを無視して運転する輩が圧倒的に多い。名古屋の広い道で快適に運転していた人間が、そんな街で運転する気分にはならないね。

 ある時私も20トンの大型トレーラーに追突された経験がある。雨が降り出した下り坂だから車間距離とっていれば問題はなかったのだが、私の車の後ろを執拗に追っかけてくる。もう物理の法則をしらんのかよ。後で早く先に行かせればよかったと思った。

 最近高齢者の運転事故が多い。だが車の動きが全くわからない自転車や歩行者の存在も問題視されるべきだろう。特に自転車は後ろを確認しないし、交通ルールを無視して走ってくる。信号のない交差点で一時停止はしないから突然車の前に飛び出すことになる。だから自転車にも登録免許+保険制度が設けられたが、自治体が本気ではないので誰も登録していない。それに歩行者も信号無視して横断する人間が圧倒的に多く、いつも車にクラクションを鳴らされている。

 車の運転は面白いけど、道が狭く、交通規則を守らず、例外標識が多く、メンテナンスが悪い道、といった京都の車社会が実にうざったいのである。うざったい街京都なのである。

 

クロッキー帳NO45.

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ドローイング192. 一寸晴れ間の梅雨

2019年06月15日 | drawing

 毎日曇天、一寸晴れ間、雨はまれに一時お湿り程度に降ればいいところだったが、今日は本降りになるか。梅雨ってこんな天気だったか。ならばしのぎやすいほうか。

 もしあなたが旅に出て、旧街道に遭遇し、古い民家が連なって背後に山も見えていて、なによりもそのたたずまいが良い風景だと感じられたとする。旧街道の正面に山をいれて両側に古民家を配置して構図も調度よいので撮影してみた。後でパソコンで撮影画像を見ると、ちゃんと写ってはいるど、あなたが感じた良いなと思っている風景やそのときの空気がみられない。そんな気分になることが多い。

 それゃそうだ、画像に撮されているのは、光と影と色の記録でしかないからだ。実は、あなたが感じた、あっ、いいな!、と思った風景は、あなたの意識が見た風景なのだ。意識のなかの風景だから、いいな!、は画像には記録されず、あなたの意識の中に記録されている。だから撮された画像をみて違和感を生じることになる。

 画像とは、その程度のものなのだ。だから絵画の世界で心象風景という考え方がある。

 そんなことを考えながら、雨が降ったら街の徘徊に出ようと目論むが、こんどはどこへ行こうかと考えると、意外に被写体をみつけるのに苦労する京都の街だ。

 だってお寺なんか先ず色がないからつまらないし、お庭の花なんか撮っても面白くないし、それ以前に撮らせてくれなかったりすることもあるから、そうやって消去してゆくと、何もない。ならば街に出て、民家だ、店だ、料理だ、グッズだ、置物だ、工芸品だ、と人工的な被写体にこだわっても、そんなのたくさんWEBにアップされているから、いまさら私が撮影しても退屈なだけ。そう考えると昔から自然が少ない人工的な街京都は被写体がない!。

 そんなわけで魅力的な形態や色を感じるモチーフが、どこかにないかなと思案中。目下の私が、新鮮さを感じるのはクロッキーぐらいしかない。

 このクロッキーは10分ポーズだった。時間があるので立体的に表現しようとしたんだろう。筋肉が付いているモデルさんだった。


クロッキー帳NO45.

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ドローイング191.  こんなんってアル!?

2019年06月14日 | drawing

  ねえねえ、一寸聞いてくれる!

  ちーとの間にStrata Design3D CX7Jを立ち上げたら、バージョンアップの警告や。こんなん一気にかたづけたいけど、古くさい順からインストールしてゆくやさかい、説明書を読むってえと3時間とかいてあるねん。もう正常に作動しとるのかフリーズしとるのわからん。なんやパッチもんみたいなソフトなんやけど、こんなんってアル!?。

 やったらCADでぇやろう。

 ほなVectorworksというのがあるやん。これなぁー、ワンクリック毎にダウンばっかりやりよんねん。ほんでWEBでぇ調べたら、最新のMacOS Mojaveに対応しておらへんやって。そないなると古くさいMacBookAirいうのがあるやん。古くさいいうても骨董品とちゃうでー。れっきってした今もんな。

 でっ、これでなぁー、インストールしたら、その後にバージョンアップが必要なんやけど、ほんでサイトをくくりダウンロードやるって圧縮ファィルが届くやろ。ここまでぇはどこせやけど一緒や。

 ほいでな自動解凍しやん!。いまごろこないな古くさい圧縮ファイルってアル!?。ほんでApp storeから解凍ソフトをダウンロードして、調べたら圧縮ファィルが壊れとる。なんもでけへんやがな。

 そいでな二日後になぁー、古くさいMacBookAirが操作もしておらへんけど勝手ぇにインストールしとるやんか。ほいでなぁー、うち最新バージョンのOSインストールかなと思ったん。それだけぇはCADソフトが使えなくなるさかいやめてんか!、いうても聞こえへんしなぁー。

 ほんで、なんってか仕事がでぇきるようになってん。せやけどまた意味不明のトラブルが起きる。結局元のデータにそごがあり、元から直してやってみたが、やっぱりアカンのやわ。このソフトバグや、世の中もバグや、そらいいすぎか。でぇっ、このソフト使うのやめたんやわ。こんなんってアル!?。


クロッキー帳NO45.
 

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ドローイング190. 前例のないことが次から次へと起きる時代

2019年06月13日 | drawing

 気楽にクロッキーデッサンでもはってと思っていたら・・・、

 札幌市で起きた幼児衰弱死事件。事件前から住民、警察から複数回にわたり虐待を疑う通告を児童相談所が受けていたにもかかわらず、しかも法律で48時間以内に保護すべき制度があるのに児童相談所は何もしなかった。

 役所が実行を躊躇したのは、多分そんな現場の経験がこれまでなかったか、少なかったのでしょう。法律はあるけど前例がないからどうしようと迷っていて決断ができないうちに、時間だけが経過し悲惨な結果を招いた。

 日本はいつも前例がないと何もできない。原発事故のときもそうでした。同じ事の繰り返しなのです。

 つまり日本人の躊躇して何もしない」という意識はどこから出てくるのか?。これがアメリカならば容赦なく幼児が保護されたでしょう。

 「何もしない」という意識は、多分知識だけの人間達に多い現象だ。知識としてはあるけど、実際にその現場に遭遇したら何もできない。つまり現場は知識の応用だし、さらには知識だけでは解決できない事柄の方が圧倒的に多いのが現場。知識だけでは戦ができない。つまり実戦経験がないということが、何もしない要因としてあるのではなかろうか。

 そうなると座学しか勉強してこなかった文科系が「何もしない」意識の典型例として浮かび上がる。役所は文科系の牙城。口を合わせるのは旨いが、じゃお前つくってみろよ!、といわれたら何もできない。前例がないと何も判断できない体質というのは、やはり自分の手を動かして、物事を考たり、設計したり、つくったりする経験が欠落している文科系固有の現象と決めつけてよい。

 何かをつくろうとする場面をイメージしてみよう。文科系は、マニュアルだ!、工具がない!、なんとかしろ!(これは実に他力本位な言葉ですね)と騒ぐでしょう。

 これが工学系や芸術系、あるいは医学系だったら、マニュアルは形式だから役に立たないことは知っているし、工具がなければ自分でつくってしまうでしょう。だから文科系という座学と工学系という実験・実習系とでは、ものづくりのスタートからしてスタンスが大いに違う。

 コンピュータ社会であっても知識という座学、悪くいえば屁理屈、それだけでは何もできない。だから現場感覚を持ち、自分の意識と手を動かし、ものを表現したり、つくったりすることは、とても大切なこと。だから私はドローイングをしつつ、手を動かすことを忘れない訓練の一助としているわけです。

 もう一つ興味深い事例をメモしておきます。

 韓国平昌冬季オリンピック開会1時間前にサーバーにしこまれていたウィルスが起動し、システム全体がダウンしたとするニュース。これを教訓として東京オリンピックでは、対策を固め万全の警戒態勢をとるそうです。

 対策という後手の手法をとるあたりが、いかにも文科系役人達の定型的な発想ね。それってガードばかり固めたボクシングと一緒で、ガードだけではハッカー達には勝てないでしょう。

 だってハッカーだって考えますよね、次は誰もが考えなかった方法でと。それがハッカー達の頭脳です。だから常に前例のないことが必ず起きるわけです。

 ではどうすればよいかというと、優秀なハッカー達と同じ頭脳でオリンピックの防御システムを突破できるプログラムを開発することからはじめるべきでしょう。つまりハッカー達と頭脳の競争です。ハッカー達の先をゆく突破プログラムができたら、そこから防衛ブログラムをつくればよいわけであり、工学系だったらそんなふうに防御システムを考えますけど。

 東京オリンピックは、世界のハッカー達の頭脳と技のオリンピック、で・す・か。そんなウィルスは既にどこかにしこまれているのかなぁーと、工学系の人間ならば誰でもがイメージしますけど。


クロッキー帳NO43.

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ドローイング189.  画商

2019年06月10日 | drawing

 さて顔を隠したポーズか。私はモデルさんの真横から書いていたので、おもわずこんなポーズに遭遇した。手の位置、顔の位置、後手の位置と空間の奥行きを描けばよいのか。といって5分間で、そんなの描けるわけではないが。

 さてクロッキー教室は誰でも参加できる。「何、女の裸が見放題!、隠すところナシ!!、そりゃ是非見たいは!!!」といって好奇心で参加するヤツがいないのは不思議だ。まあ美術研究所だから、デッサンや絵画に興味がなければ近づかない世界なのだろう。

 もう一つ参加しない理由をあげれば、デッサンをしている人と、してこなかった人との相違は、描いている絵をみれば一目瞭然だから、描けないと「なんだ、この人は単なる好奇心だけですか」と回りから冷たい目線をされるかもしれない。しらぬは本人ばかりで、後で考えると顔から火が出るほど恥ずかしい記憶だと思う。

 そのクッキー教室も、以前は参加者が多くて前の人の肩越しに頭と頭の間から描いていた、という話を聞いたことがある。今は参加者が少ないから、それじゃモデル代にもならんよなと、こちらは余計な心配をして恐縮してしまう。もちろん参加者が少ない方が好きなポジションでかけるというメリットはあるが。

 今時、女の裸ぐらいで関心をもたれる時代でもないのだろう。それに絵を描くという人たちも減っているのかもしれない。

 花や風景の写生は描いていると飽きてくる。それは私には単なるメモだから。そんな写生をかき集めキャンパスの上で再構成し、テーマを発見したり、展開方向を考えたり、などなどと創作してようやく絵画の面白さが始まる。だから写実主義は精々売り絵の世界の話だと個人的には考えている。

 大学時代の同級生のなかに油絵の売り絵作家がいる。若い頃から技巧派だったので画商に眼をつけられ、以後画商のいわれるままに世界の写実的な風景の売り絵を量産するわけ。だから日々スケッチ、スケッチの連続で、どこにいても、ひたすらスケッチを描いている。それでも時間が足りないとこぼしていた。最近右目が見えにくいのだよといっていた。お前、絵が描けなくなったらさっさと画商は去って行くぜ、と私は思うのだが。

 「ジャック・ベッケル監督:モンパルナスの灯,1958年,フランス」という映画では、貧困と絶望のなかで描いた絵をカフェで売り歩いていていた画家のモディリアニが死んだら、リノ・バンチェラ演じる画商がアトリエに駆けつけ彼の作品を持ち去ったという最後のシーンが記憶にある。もちろん映画だから史実とは違うけれど、画商の根性は変わらないと思いますよ。


クロッキー帳NO44.

 

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ドローイング188.  腸腰筋

2019年06月09日 | drawing

 このポーズは、体をひねり腰を前につきだしている。

 このモデルさんはエアロビクスをやっているんだ。腰を前に出しているのは腸腰筋(ちょうようきん)を鍛えるポーズだ。腸腰筋は体内の筋肉だから体表からは観察できないが、腰椎と大腿骨をつなぎ姿勢を安定させる筋肉だ。でっ、このポーズは私には描けないのです(笑)。だからクロッキーがバラバラになっちまった。

 昨日のブログで女の方が胴体が長いと書いた。それは街を歩いているときに、同じ背の高さのカップルを観察するとよくわかるし、それに叔父さん達の趣味なのかユニフォームメーカーが機能本位でつくっている会社の制服が、体のラインが表出されるので、オフィス勤めのOL達のユニフォーム姿では、それが如実にわかってしまう。つまり女達のユニフォームを正直につくっちゃだめなんだよ。だからファッションという操作が必要なんだけど。

 そんな胴体の長い女達のボディーを多数集めれば面白いイメージができそうで個人的には興味深い。野良仕事だ、家事だ、夜這いだと、生活感がタップリあって、農本主義時代とかアジアの空気(ゴーギャンのアジアバージョンかな)が表現できれば面白いと思うが・・・。

 でっ、世の中には、もちろん足の長い女もいる。

 クロッキーの裸婦のモデルさん達は概して足が長い。多分それは俳優だったりダンサーだったりと、普段から体を動かす仕事をしているから足が鍛えられ成長するわけだ。だって足の筋肉の塊が如実にてでくるから皮下脂肪なんかないのよね。もう筋ばしった筋肉に見とれちゃうよ、描かないけど(笑)。


クロッキー帳NO43.

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ドローイング187.  マーケティングの終焉

2019年06月08日 | drawing

 これを描いているときは、ホント!、女のボディって骨盤とかケツまわりの丸いフォルムなんかすごいボリューム感があって、私の内的意識では力強くてとても魅力があると思う。これが平均的日本人の女の体型でしょう。皮肉なことに、こちらの方がデッサンは正確。こうした力感あるボディを複数集めて構成すれば、群像の絵画とかイラストレーションやフォトグラフィーがイメージできる。つまり農本主義的とか、アジア的テイストといった具合に・・・・、それって面白いと思うけど。

 話は変わるが、私の意識、つまり内的意識と書いたところで、外的意識というのがあるだろう。つまり社会的な意識といえばよいか。その典型例がマーケティング手法である。それは外的意識を探るために、これまで私達の生活の多くの商品や施設開発は、マーケティング手法を用いてユーザのニーズを発掘し、商品開発や施設開発に寄与させてきた。このブログでも、ニコンのマーケティング!?、と書いてデカルト的と評した。あら、今ごろなんでマーケティング!?と思われたからだ。既にマーケティングという手法は終焉したというのが、私の考え方だからだ。

 だから現在ではマーケティングとは異なる方法で、商品や施設の開発が行われてきている。

 それが内的意識を出発点とする商品や施設の開発方法だ。わかりやすくいえばアート感覚といったらよいか。つまり自己体験、別の言葉で言えば問いの建て方を出発点とする製品や施設開発の方向だ。アートの世界は、人と同じ事はまずやらないし、人がこれまでやらなかった視点や方法で表現する世界だ。それは差異という概念とも違う世界だろう。なぜなら差異(他と違っている)だけではアートが成立しないからなのだが。

 アート感覚とは「なんでこうなるのか?」、「なんでこうなっちゃうのか?」、「なんでこんな発見がなかったのだろう?」、といった問いの建て方から始まる。それが共感者を呼び商品開発や施設開発につながってゆく方法だ。

 例えば、日経MJ2019年6月3日版では、そうした典型例として東京の有料書店「文喫」、「スープストックトーキョー」、「刷毛じょうゆ海苔弁山登り」を紹介している。

 そればかりではなく、使い古した建材を用いた喫茶店が増えてきた。これもマーケットがあったからできあがった業態ではなく、仲間が集まりたまり場が欲しいねに端を発し、「こんな喫茶店でいいじゃないの?」と実現化し、それが共感者を呼びつつ、次第に数が増えていった。こうした事例もアート感覚に端を発する商品化の現れだろう。そこには、共感という新しいフィルターが登場してくる。共感を呼ばなければ、展開も発展も期待できないからだ。

 それ以前に「有効な問いを立てる」、そういう問いを発見できる内的意識、つまりアート感覚がいまの商品開発や施設開発におけるスタート地点にある。

 今は、ボタン一つ、つっつけば何でも手に入る時代だからこそ、そうではない展開に人々の関心が集まりつつある時代なのだろう。

 

追伸

 ニュースで、先日墜落した自衛隊機F35のフライトレコーダーや敵味方識別装置などの機密機器がみつからないまま機体の捜索は打ち切ると報じていた。何!、アホなことをいいだすんですか。海底1500mだって最高機密が欲しい国家は、密かに潜水艇をくりだして機体の残骸を拾いにゆくでしょうがぁー。その先は、混沌とした国家間の対立構造が予想されますよ。

 何故墜落したかとする原因究明にフライトレコーダーは必須であり、これまでの航空機事故でも血眼になってなって探してきた経緯がある。多分船を変えて本格的に探索しようという意図かもしれませんが、今そんなことをいう必要はないでしょう。

 自衛隊は、昨年対戦ヘリコプターが墜落し海底2600mに沈んだときでも、フライトデータレコーダ、敵味方識別装置などを回収した実績があるというのに、今回は最高機密の機体を、そうそうにあきらめるとも思われない。それとも自爆装置が起動したので回収する必要なしとなったのでしょうか。

 どうも文科系政治家(防衛大臣は早稲田大政経学部卒)のいうことはよくわからない。原発に続くミスリードではないですか。こうした事例をみていると、先端科学技術の扱いに文科系(政治家も含めて)は手も口も権限も出して欲しくないですね。

 大切なのは、自分の手を動かして物などをつくってきた経験があるのですかということです。文科系のように知識や耳学問だけでは、何の役にも立たない時代です。私がクロッキーデッサンにこだわるのも、自分の手を動かしてという意識の一端が働いているんだろうと思います。

 

クロッキー帳NO43.

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ドローイング186.  格好が悪い人体

2019年06月07日 | drawing

 さて若い頃覚えたデッサンの感覚を忘れないために静物でもデッサンすればよいのだが、それでは面白みがない。だから毎週クロッキー教室に出向いて人体デッサンで筆忘れ防止に努めている。やはり5分程度の時間で全体像を捉えるのは感性の訓練になる。

 多分このモデルさんは外国人で綺麗でスタイルがよかったのだろう。実はそう感じたらこちらは描けないのです。だからクロッキーもバラバラになっちまった。美形かそうでないかは人間の意識がそうさせているのであって、ボディそのものに美形も醜形も関係がない。あるのは芸用解剖学的な見方だけだろう。格好が良いと思った瞬間から冷静な意識から離れてしまった。

 むしろ人間は格好悪いボディなんだという意識で、あら探しをするように鉛筆を走らせるほうが、デッサンとしては描きやすい。「ほら!、あの女!!、いつも美ボディを自慢しているけどさ脱がせると扁平な日本人体型だよな!!」、そんな冷めた意識かな。

 だってチーターが体全体を躍動させて草原を時速100kmで走る姿なんか動態の力学的合理性や美学を感じさせて猛烈に美しいよね。でっ、人間は二足歩行でトロトロと走っても最速で時速36km、車が徐行する速度だ。とても美的とはいえないでしょう。

 男に比べると女の方が腸が1m以上長いし、ややこしい器官を納めるスペースも必要になり、身長160〜165cm位では7cm前後女の方が胴長が多い。私が大学で教えていた頃、そう女子学生達に講釈したら、彼女たちは不思議な顔をしていた。足を長くみせて胴体の長さを緩和しているようにみえるのはファッションの力によるものだ。

 さて美意識を排除し、むしろ格好が悪い人体という覚めた意識でモデルさんを冷静に観察するのが私のクロッキー・デッサンの作法だ。


クロッキー帳NO43.

 

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