Creator's Blog,record of the Designer's thinking

フィールドワークの映像、ドローイングとマーケティング手法を用いた小説、エッセイで、撮り、描き、書いてます。

PEN LEFE1228. 被写体の乏しい日本

2015年12月07日 | diving
 ハナノミカサゴをアップで。魚眼レンズだとこのあたりが、ライトが届く限界かな。これ以上のアップも可能だが、ライトがけられてしまう。最近撮影するのも、光が水の中で屈折し、いわば光と戯れられる水中ぐらいだ。
 今世の中には、実に膨大な数の撮影機材があって一体何を撮影するんだろうと思う。こんな狭い日本でそんなに被写体があったのだろうか。景観を教えている専門的な立場からすると、我が国ですでに制度で指定されている所以外歴史的価値ある景観は皆無といってよい。
 ならば新しい景観でも撮る、いやWEBにアップさせるために人々との出会いでも撮るか日常の出来事を撮るか、或いは料理を取るetc、といった具合に被写体は多用ではあるが、それはクリエイションとはかけ離れた一般大衆の記録でしかない。そんなものはPCのコマンドですぐ消せる類だ。その程度の画像ばかりである。
 つまり過剰な大変優れた機材は多々あるが、それにたいして被写体の乏しい日本なのである。大体第二次大戦で日本の都市の過半以上は戦災で消失しているから、欧米と比較して古い文化自体が大変少ない国だと私は考えている。それに戦後のバタくさい生活感ある風景も今では皆無になってしまった。宮本常一が撮影した生活感のある日本は、すでにない。それにみんなが出かける撮影名所などに行く気にもならない。人と同じ被写体を撮影して何が面白いのだろうか。
 だから歴史文化や生活感を撮影したければ、海外へゆくほかなさそうだ。それもアジアの諸国では、今は風前の灯火の風景に近い国も多いのではなかろうか。
 そうなると私の場合、撮影機材も水中用を除くと不用になる。次第に撮影から私の意識がドローイングに移行しそうだ。ドローイングは、同じ被写体を描いても私という感性のフィルターを通しているからクリエイションそのものだ。そういう経験が昔にもあった。高校を卒業する頃、デッサンに移行し、以来15年ぐらいは撮影の世界から遠ざかっていた。
・・・結局魚眼レンズの付いたE-M1のハウジングとニコンAW130があれば、今の私の場合は十分だな。となるとEOSのシステムとかニコンのシステムとか、もっと言えばフィルム時代のシステムとか、ほとんどいらない物ばかりだ。処分というよりは捨てるのに近い。そのなかで撮っておきたいのはLeitzM4PとNikonFのボディぐらいだろうか。

沖縄県 本部
OLYMPUS EM-1,M.ZUIKO DG Fisheye ED8mm/F1.8
ISO250,露出補正-0.7,f8.1/80
コメント
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