Enoの音楽日記

オペラ、コンサートを中心に、日々の感想を記します。

カンブルラン/読響

2011年12月01日 | 音楽
 カンブルランが振った読響の定期はチャイコフスキーの「悲愴」交響曲がメイン・プロ。カンブルランの「悲愴」?と一瞬戸惑ったが、当日の演奏を聴いて、その意味がよくわかった。カンブルランにははっきりした目的意識があったのだ。

 1曲目はベルリオーズの序曲「リア王」。カンブルランのベルリオーズなら名演が約束されたようなものだが、実際に聴くと、想像以上のものだった。弦楽器には張りがあり、金管楽器はけっして混濁しない。オーケストラ全体はどんな局面でも統制がとれている。しかも奔放さには事欠かない。事欠かないというよりも、どこかに飛んで行ってしまいそうな奔放さだ。これだけのベルリオーズを生で聴く機会はめったにない。

 2曲目はチャイコフスキーの幻想序曲「ロミオとジュリエット」。カンブルラン/読響の今シーズンのテーマ「ロミオとジュリエット」の一環だが、同時に1曲目の「リア王」とはシェイクスピアつながりがあり、次の「悲愴」交響曲につなぐためのギア・チェンジの役割もある。こういう巧妙なプログラムには思わず微笑んでしまうが、こちらのギア・チェンジがうまくいかずに、チャイコフスキー・モードになれなかった。まあ仕方がない、次の「悲愴」のための準備と割り切ろう、と思った。

 3曲目の「悲愴」交響曲は気迫みなぎる演奏だった。ベルリオーズとは異なるが、これもまた張りのある音で、けっして混濁せず、しかも奔放な演奏だった。カンブルランのようなすぐれた指揮者が、はっきりした目的意識をもって演奏すると、この曲が傑作中の傑作であり、しかもプロ中のプロが書いた傑作であることがよくわかる。言い換えるなら、この演奏は感情で聴かせる演奏ではなく、これがどれほどの天才の筆による作品であるかを示す演奏だった。

 終楽章の最後の一音が消え入るように終わったとき、ホールには張りつめた静寂が広がった。だれもフライング・ブラヴォーを発することはなかった。カンブルランが指揮棒を下ろすまで、長い緊張が続いた。当日は全席完売だったが、満員の聴衆はこの演奏の意味がよくわかっていた。わたしもそこにいたことを嬉しく思う。

 「悲愴」のようなスタンダードなレパートリーのブラッシュアップは、常任指揮者の重要な仕事だが、これはその域を超えていた。カンブルランには未知の可能性が他にもまだありそうだ。
(2011.11.30.サントリーホール)
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