Enoの音楽日記

オペラ、コンサートを中心に、日々の感想を記します。

インバル/都響

2011年12月13日 | 音楽
 インバル/都響の12月定期Aシリーズ。今シーズンのインバルはショスタコーヴィチを集中的に取り上げている。来シーズンはマーラーに戻るから、ショスタコーヴィチは今シーズンかぎり。今回はチェロ協奏曲第2番と交響曲第5番が演奏された。

 チェロ協奏曲第2番はイスラエルの若手ガブリエル・リプキンの独奏。ロストロポーヴィチの旧盤(スヴェトラーノフ指揮ソヴィエト国立響との実況録音)が耳にこびりついている身としては、なるほど新世代の奏者はこう弾くのかと新鮮に映った。一見淡々と、軽く、滑らかに弾き進んでいく。これはこれで作品と一体化している。しかも最後の瞬間には思いがけない深淵に到達した。ロストロポーヴィチの熱い思い入れをこめた、神経を極限まで張り詰めた演奏とは対照的な道をいきながら、最後に到達する地点は同レベルだった。

 本作は1966年の作曲・初演。ショスタコーヴィチの作品は、アンファン・テリブルの時代(交響曲でいえば第4番まで)、二重言語の時代(第5番から第12番まで)そして晩年の時代(第13番以降)に分かれると思うが、本作はその晩年の時代に属する。

 その演奏を聴きながら、これは音楽のスフィンクスだと思った。なにかを語っているのだが、それがなにかはわからない。なにかのわだかまりがそこにあるのだが、なにかはわからない。謎のまま在る音楽。わからないままに、暗い深淵をのぞく音楽。

 最後の打楽器による機械仕掛けのおもちゃの音型にはハッとした。そうだった、この曲にはこの音型が出てくるのだと思い出した。わたしの知っているかぎりでは、交響曲第4番に出てきて、本作で思い出したようにまた出てきて、人生にピリオドを打つように第15番でも出てくる音型。これはいったいなんだろう。

 チェロの音が消えたとき、間髪を入れずに拍手をした人がいた。これにはがっかりした。演奏後の緊張を保てないのだろうか。なお、ついでながら、都響では毎回ブラヴォーを叫ぶ人がいる。同じ人のように聞こえるが、どうなのだろう。

 次の交響曲第5番は、緊張感のある音、大きく弧を描く旋律線、壮麗なトゥッティ、どっしりした構築感等々、いかにもインバルらしい演奏だった。けれどもわたしは、インバルがどのような問題意識をもって演奏しているのか、途中からわからなくなった。

 終演後、盛大な拍手とブラヴォーが起こったときには、なにか取り残されたような気がした。
(2011.12.12.東京文化会館)
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