ペーター・コンヴィチュニー演出のヤナーチェクの「死者の家から」。これを観るのが今回の旅の目的のひとつだった。
舞台はシベリアの流刑地から近代的なビルの一室に変わっている。白くて清潔な広い部屋だ。多数の椅子とテーブルが並んでいる。向かって左側には飲み物を提供するカウンターがある。囚人たちは黒いスーツを着た紳士たち。監獄所長だけは上着が白いので見分けがつく。
アリイエイヤがズボン役ではなく、男声歌手(テノール)によって歌われることが、重要な変更点だ。これによって、ほんとうに男だけの世界になる。ヤナーチェクがこの役にカミラ・ステッスロヴァーの面影を投影したことなど、あっさり放棄されている。
第1幕ではゴリャンチコフのむち打ちの刑が、監獄所長の命令による集団リンチに変わっている。叩きのめされてテーブルにうつ伏せになり、両腕をだらりと下げたその姿が、羽の折れた鷲の代わりだ。ドストエフスキーの原作ではあの鷲は「自由」の象徴ではなく、たんに監獄で見かけた動物のひとつにすぎない。そこに「自由」の意味を込めたのはヤナーチェクだ。コンヴィチュニーの演出はその象徴性を剥奪したものだ。
休憩なしで第2幕に入る。例の劇中劇は、囚人たちの素人芝居ではなく、外から招いたエロティックショー。最後のアリイエイヤの怪我の場面は、全員の乱闘になり、全員が怪我をする。
休憩なしで第3幕。ここでも重要な変更があった。このオペラの最大の山場、シシュコフのモノローグの場面で、シシュコフの人生を台無しにした男が、実は同じ監獄にいるルカにほかならないと気付くくだりが、ルカとは特定されず、どの男かわからなくなっている点だ。このくだりもドストエフスキーの原作にはなく、ヤナーチェクの創作だ。
幕切れのゴリャンチコフの解放の場面では、巨大なロシア人形マトリョーシカのなかに入れられたゴリャンチコフが、監獄所長によって頭を撃ち抜かれる。解放とは死のことだ。きわめてペスミスティックな終わりかた。同じように閉塞状況を描いた東京二期会の「サロメ」のときとは逆の終結だ。これがコンヴィチュニーの今なのだろうか。
ウェルザー=メストが指揮するオーケストラはものすごく気合いが入っていた。コンサートマスターはライナー・キュッヒル、その隣にライナー・ホーネック。歌手では、群像劇というこのオペラの性格上、とくにだれが目立つということはないが、スクラトフ役のヘルベルト・リッペルトがさすがの存在感だった。
(2011.12.18.ウィーン国立歌劇場)
舞台はシベリアの流刑地から近代的なビルの一室に変わっている。白くて清潔な広い部屋だ。多数の椅子とテーブルが並んでいる。向かって左側には飲み物を提供するカウンターがある。囚人たちは黒いスーツを着た紳士たち。監獄所長だけは上着が白いので見分けがつく。
アリイエイヤがズボン役ではなく、男声歌手(テノール)によって歌われることが、重要な変更点だ。これによって、ほんとうに男だけの世界になる。ヤナーチェクがこの役にカミラ・ステッスロヴァーの面影を投影したことなど、あっさり放棄されている。
第1幕ではゴリャンチコフのむち打ちの刑が、監獄所長の命令による集団リンチに変わっている。叩きのめされてテーブルにうつ伏せになり、両腕をだらりと下げたその姿が、羽の折れた鷲の代わりだ。ドストエフスキーの原作ではあの鷲は「自由」の象徴ではなく、たんに監獄で見かけた動物のひとつにすぎない。そこに「自由」の意味を込めたのはヤナーチェクだ。コンヴィチュニーの演出はその象徴性を剥奪したものだ。
休憩なしで第2幕に入る。例の劇中劇は、囚人たちの素人芝居ではなく、外から招いたエロティックショー。最後のアリイエイヤの怪我の場面は、全員の乱闘になり、全員が怪我をする。
休憩なしで第3幕。ここでも重要な変更があった。このオペラの最大の山場、シシュコフのモノローグの場面で、シシュコフの人生を台無しにした男が、実は同じ監獄にいるルカにほかならないと気付くくだりが、ルカとは特定されず、どの男かわからなくなっている点だ。このくだりもドストエフスキーの原作にはなく、ヤナーチェクの創作だ。
幕切れのゴリャンチコフの解放の場面では、巨大なロシア人形マトリョーシカのなかに入れられたゴリャンチコフが、監獄所長によって頭を撃ち抜かれる。解放とは死のことだ。きわめてペスミスティックな終わりかた。同じように閉塞状況を描いた東京二期会の「サロメ」のときとは逆の終結だ。これがコンヴィチュニーの今なのだろうか。
ウェルザー=メストが指揮するオーケストラはものすごく気合いが入っていた。コンサートマスターはライナー・キュッヒル、その隣にライナー・ホーネック。歌手では、群像劇というこのオペラの性格上、とくにだれが目立つということはないが、スクラトフ役のヘルベルト・リッペルトがさすがの存在感だった。
(2011.12.18.ウィーン国立歌劇場)