インバル/都響のブラームス・チクルスで交響曲第2番と第4番を聴いた。全席完売。インバル人気は相変わらずだ。終演後の拍手とブラヴォーも盛大だ。だが実は少々疑問を感じた。少数意見かもしれないが、以下、率直に述べたい。
第2番は、第1楽章がアンサンブルにまとまりがなく、散漫な演奏だった。第2楽章に入って少し立ち直り、第3楽章以降はまとまっていた。だからよかったかというと、そうともいえない。第4楽章がアグレッシヴな演奏で、まるでそれまでの演奏を強引に挽回しようとしているように感じられた。
もちろん拍手は盛大だった。けれどもなにか割り切れない思いが残った。それはなぜだろうと自問し、空気感が足りなかったのではないか、と自答した。この曲には楽々とした空気感があるのではなかったか。それが感じられない、というか、むしろそんなものは薬にしたくもない演奏ではなかったか。
第4番は見違えるように練り上げられたアンサンブルだった。こちらのほうに精力を傾けて準備したようだ。第2番とは異なって、アグレッシヴというよりも、エネルギッシュという形容のほうが相応しい演奏だった。
けれどもそれは雄弁にまくしたてる大声の人のような演奏だった。こちらが言葉をはさむ余地はない。ただもう一方的にその語るところに耳を貸すしかない。ふっと我に返ることもできない。なんだかぐったり疲れてしまった。
インバルとはこういう指揮者だったのか、と思った。押しの強い、梃子でも動かない指揮者。オーケストラを鳴らしに鳴らす指揮者。巨大なスケール感で拍手喝さいを浴びる指揮者。それをよく心得ている指揮者。だがインバルがかち得る名声のかげで、ブラームスの折々の心境はどこに行ってしまったのだろうと、少し寂しく思った。
インバルが一番よかった時期は、都響のプリンシパル・コンダクターに就任した前後ではなかったろうか。あの頃はもっと柔軟性があったように記憶する。だがその後は年月がたつにつれて硬直性が感じられるようになった。別の言い方をすると、技術はひじょうに高度だが、自らの音楽には醒めてしまった、と感じられることがあるようになった。
インバルは若い頃からオーケストラのドライヴ感に本領を発揮した。本人もそのことを十分に承知して、どのレパートリーも自らの資質に合わせて振った。今はそれに飽きてしまったのだろうか。
(2012.10.22.サントリーホール)
第2番は、第1楽章がアンサンブルにまとまりがなく、散漫な演奏だった。第2楽章に入って少し立ち直り、第3楽章以降はまとまっていた。だからよかったかというと、そうともいえない。第4楽章がアグレッシヴな演奏で、まるでそれまでの演奏を強引に挽回しようとしているように感じられた。
もちろん拍手は盛大だった。けれどもなにか割り切れない思いが残った。それはなぜだろうと自問し、空気感が足りなかったのではないか、と自答した。この曲には楽々とした空気感があるのではなかったか。それが感じられない、というか、むしろそんなものは薬にしたくもない演奏ではなかったか。
第4番は見違えるように練り上げられたアンサンブルだった。こちらのほうに精力を傾けて準備したようだ。第2番とは異なって、アグレッシヴというよりも、エネルギッシュという形容のほうが相応しい演奏だった。
けれどもそれは雄弁にまくしたてる大声の人のような演奏だった。こちらが言葉をはさむ余地はない。ただもう一方的にその語るところに耳を貸すしかない。ふっと我に返ることもできない。なんだかぐったり疲れてしまった。
インバルとはこういう指揮者だったのか、と思った。押しの強い、梃子でも動かない指揮者。オーケストラを鳴らしに鳴らす指揮者。巨大なスケール感で拍手喝さいを浴びる指揮者。それをよく心得ている指揮者。だがインバルがかち得る名声のかげで、ブラームスの折々の心境はどこに行ってしまったのだろうと、少し寂しく思った。
インバルが一番よかった時期は、都響のプリンシパル・コンダクターに就任した前後ではなかったろうか。あの頃はもっと柔軟性があったように記憶する。だがその後は年月がたつにつれて硬直性が感じられるようになった。別の言い方をすると、技術はひじょうに高度だが、自らの音楽には醒めてしまった、と感じられることがあるようになった。
インバルは若い頃からオーケストラのドライヴ感に本領を発揮した。本人もそのことを十分に承知して、どのレパートリーも自らの資質に合わせて振った。今はそれに飽きてしまったのだろうか。
(2012.10.22.サントリーホール)