黒井千次の新作「流砂」を読んで感銘を受けたことはすでに書いたが、それ以来、老人の文学、そして老人の美術、老人の音楽ということを考えるようになった。そういう老人の領域があるのではないか、と。
わたしの友人がやはり「流砂」を読んで、静かな絵を見ているような感じだった、といっていた。わたしはその読後感に共感した。老人は身の回りの小さな出来事に(あるいは小さな変化に)ハッとするのではないだろうか。けっして平穏無事な日常ではない。はたからは平穏無事に見えても、老人の中ではそれらの出来事や変化が波紋のように広がり、日常を脅かすのではないだろうか。そんな波紋が「流砂」には描かれているように思えた。
老人の文学が気になったので、古井由吉の新作「この道」を読み始めた。本作は8篇の短編小説からなっている。文芸誌「群像」の2017年8月号から2018年10月号にかけて連載されたもの。一篇一篇は独立しているが、それらを通して、老人の日常というか、心象風景が描かれているように感じられる。
「この道」には「流砂」のようなドラマ性はない。淡々と想念の赴くままに筆を走らせている、と感じられる文体だ。もちろん大作家の文体なので、想念の赴くままに、などということはありえないので、言い直すと、老人の心象風景が伝わるような文体を、技巧を凝らして作り上げたものだろう。
黒井千次も古井由吉も「内向の世代」と呼ばれた作家たちだ。今それらの作家たちが80歳代に入り、類例のない(といってよいかどうか、ためらいもあるが、とりあえず一つのムーブメントとして)老人文学を発表するようになった。それは超高齢化社会に突入した我が国が求めているもののようにも思える。
一方、美術に目を転じると、わたしは2月初めに富山県水墨画美術館で「愉しきかな!人生‐老当益壮の画人たち‐」展を見た。80歳代はまだ若い方、90歳代、100歳代の「老いてますます盛んな」画家たちの絵画の数々。奥村土牛、片岡球子などの奔放で力強い筆致もまた老人の一つの典型かもしれない。
だが、それらのポジティヴな老人芸術とは別に、残念ながら音楽で(それは作曲ではなく、演奏なのだが)ネガティヴな経験もした。誰それと名前をあげるのは憚られるが、ある指揮者の演奏は、わたしには老人の自己愛を感じさせる演奏だった。その指揮者の平穏な日常に浸った演奏のように感じられた。
では、かくいうわたしは、どういう老年を迎えるのかというと‥。
わたしの友人がやはり「流砂」を読んで、静かな絵を見ているような感じだった、といっていた。わたしはその読後感に共感した。老人は身の回りの小さな出来事に(あるいは小さな変化に)ハッとするのではないだろうか。けっして平穏無事な日常ではない。はたからは平穏無事に見えても、老人の中ではそれらの出来事や変化が波紋のように広がり、日常を脅かすのではないだろうか。そんな波紋が「流砂」には描かれているように思えた。
老人の文学が気になったので、古井由吉の新作「この道」を読み始めた。本作は8篇の短編小説からなっている。文芸誌「群像」の2017年8月号から2018年10月号にかけて連載されたもの。一篇一篇は独立しているが、それらを通して、老人の日常というか、心象風景が描かれているように感じられる。
「この道」には「流砂」のようなドラマ性はない。淡々と想念の赴くままに筆を走らせている、と感じられる文体だ。もちろん大作家の文体なので、想念の赴くままに、などということはありえないので、言い直すと、老人の心象風景が伝わるような文体を、技巧を凝らして作り上げたものだろう。
黒井千次も古井由吉も「内向の世代」と呼ばれた作家たちだ。今それらの作家たちが80歳代に入り、類例のない(といってよいかどうか、ためらいもあるが、とりあえず一つのムーブメントとして)老人文学を発表するようになった。それは超高齢化社会に突入した我が国が求めているもののようにも思える。
一方、美術に目を転じると、わたしは2月初めに富山県水墨画美術館で「愉しきかな!人生‐老当益壮の画人たち‐」展を見た。80歳代はまだ若い方、90歳代、100歳代の「老いてますます盛んな」画家たちの絵画の数々。奥村土牛、片岡球子などの奔放で力強い筆致もまた老人の一つの典型かもしれない。
だが、それらのポジティヴな老人芸術とは別に、残念ながら音楽で(それは作曲ではなく、演奏なのだが)ネガティヴな経験もした。誰それと名前をあげるのは憚られるが、ある指揮者の演奏は、わたしには老人の自己愛を感じさせる演奏だった。その指揮者の平穏な日常に浸った演奏のように感じられた。
では、かくいうわたしは、どういう老年を迎えるのかというと‥。