「非現実的な夢想家」が救済する損なわれた大地
旧聞に属することだが、さる6月9日、日本を代表する作家である村上春樹氏がスペインのカタルーニャでスピーチを行った。カタルーニャ国際賞を受賞し、その受賞記念講演を実施したものだ。
私たち日本人は、このスピーチ動画をじっくりと見るか、その文章をじっくりと読むべきだ。きわめて重要なメッセージが込められている。
原子力ビジネスを推進する日本の利権複合体にとっては、極めて不都合な指摘が散りばめられている。村上春樹氏は単に原子力村の利権複合体を糾弾するだけではなく、利権複合体の行動を容認してきてしまった一般市民のこれまでの行動にも反省の姿勢を表明するものである。
これが、私たちのあるべきスタンスである。村上氏はこの姿勢に対して利権複合体の人々は、「非現実的な夢想家」のレッテルを貼るのだと指摘する。利権複合体の一角を占めるマスメディアもこのプロパガンダを繰り返し、何も考えぬ国民は、自分の頭で冷静に考えることを放棄して、マスメディアが流す論調に無責任に身を委ねてしまう。
そうした自省と忸怩たる思いが静かに語られた。私たち市民は思考停止に陥ってはならない。マスメディアが流布する特定の利害に基づく情報に流されてはならないのだ。
村上春樹氏のスピーチから以下の部分を転載させていただく。
「僕が語っているのは、具体的に言えば、福島の原子力発電所のことです。
みなさんもおそらくご存じのように、福島で地震と津波の被害にあった六基の原子炉のうち、少なくとも三基は、修復されないまま、いまだに周辺に放射能を撒き散らしています。メルトダウンがあり、まわりの土壌は汚染され、おそらくはかなりの濃度の放射能を含んだ排水が、近海に流されています。風がそれを広範囲に運びます。
十万に及ぶ数の人々が、原子力発電所の周辺地域から立ち退きを余儀なくされました。畑や牧場や工場や商店街や港湾は、無人のまま放棄されています。そこに住んでいた人々はもう二度と、その地に戻れないかもしれません。その被害は日本ばかりではなく、まことに申し訳ないのですが、近隣諸国に及ぶことにもなりそうです。
なぜこのような悲惨な事態がもたらされたのか、その原因はほぼ明らかです。原子力発電所を建設した人々が、これほど大きな津波の到来を想定していなかったためです。何人かの専門家は、かつて同じ規模の大津波がこの地方を襲ったことを指摘し、安全基準の見直しを求めていたのですが、電力会社はそれを真剣には取り上げなかった。なぜなら、何百年かに一度あるかないかという大津波のために、大金を投資するのは、営利企業の歓迎するところではなかったからです。
また原子力発電所の安全対策を厳しく管理するべき政府も、原子力政策を推し進めるために、その安全基準のレベルを下げていた節が見受けられます。
我々はそのような事情を調査し、もし過ちがあったなら、明らかにしなくてはなりません。その過ちのために、少なくとも十万を超える数の人々が、土地を捨て、生活を変えることを余儀なくされたのです。我々は腹を立てなくてはならない。当然のことです。
日本人はなぜか、もともとあまり腹を立てない民族です。我慢することには長けているけれど、感情を爆発させるのはそれほど得意ではない。そういうところはあるいは、バルセロナ市民とは少し違っているかもしれません。でも今回は、さすがの日本国民も真剣に腹を立てることでしょう。
しかしそれと同時に我々は、そのような歪んだ構造の存在をこれまで許してきた、あるいは黙認してきた我々自身をも、糾弾しなくてはならないでしょう。今回の事態は、我々の倫理や規範に深くかかわる問題であるからです。」
(中略)
「何故そんなことになったのか?戦後長いあいだ我々が抱き続けてきた核に対する拒否感は、いったいどこに消えてしまったのでしょう?我々が一貫して求めていた平和で豊かな社会は、何によって損なわれ、歪められてしまったのでしょう?
理由は簡単です。「効率」です。
原子炉は効率が良い発電システムであると、電力会社は主張します。つまり利益が上がるシステムであるわけです。また日本政府は、とくにオイルショック以降、原油供給の安定性に疑問を持ち、原子力発電を国策として推し進めるようになりました。電力会社は膨大な金を宣伝費としてばらまき、メディアを買収し、原子力発電はどこまでも安全だという幻想を国民に植え付けてきました。
そして気がついたときには、日本の発電量の約30パーセントが原子力発電によってまかなわれるようになっていました。国民がよく知らないうちに、地震の多い狭い島国の日本が、世界で三番目に原発の多い国になっていたのです。
そうなるともうあと戻りはできません。既成事実がつくられてしまったわけです。原子力発電に危惧を抱く人々に対しては「じゃああなたは電気が足りなくてもいいんですね」という脅しのような質問が向けられます。国民の間にも「原発に頼るのも、まあ仕方ないか」という気分が広がります。高温多湿の日本で、夏場にエアコンが使えなくなるのは、ほとんど拷問に等しいからです。原発に疑問を呈する人々には、「非現実的な夢想家」というレッテルが貼られていきます。」
(中略)
「原子力発電を推進する人々の主張した「現実を見なさい」という現実とは、実は現実でもなんでもなく、ただの表面的な「便宜」に過ぎなかった。それを彼らは「現実」という言葉に置き換え、論理をすり替えていたのです。
それは日本が長年にわたって誇ってきた「技術力」神話の崩壊であると同時に、そのような「すり替え」を許してきた、我々日本人の倫理と規範の敗北でもありました。我々は電力会社を非難し、政府を非難します。それは当然のことであり、必要なことです。しかし同時に、我々は自らをも告発しなくてはなりません。我々は被害者であると同時に、加害者でもあるのです。そのことを厳しく見つめなおさなくてはなりません。そうしないことには、またどこかで同じ失敗が繰り返されるでしょう。」
自分の目で現実を見て、自分の頭でものを考える。流布されている情報に素朴な疑問を持つ。怒るべき対象には怒りを感じる。そして行動する。人間としてのこの基本的な行動が欠落するとき、国も国家も人々の手を離れたものになってしまう。
福島で起きた現実を私たち日本人は、もう一度、冷静に見つめ直す必要があるのではないか。東電は救済され、原発を再稼働させるための悪質なやらせ偽装工作の実態も次々に明らかになる。しかし、これらの驚くべき情報の露見に対して、私たちはほとんど無反応になり始めているのではないか。
社会の本当の主役である市民が考える意思と行動するエネルギーを失うとき、社会は私たちのものではなくなってしまう。社会のなかで飼われる家畜人間になってしまう。村上氏は私たち市民に強い警鐘を鳴らしているのだと思う。